石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

ブラッド・ダイヤモンド

そういえば、ちょっと前にアフリカを舞台にした映画の話を書いていたっけ。

アフリカを舞台にした映画といって、ふと思い出したのが「ブラッド・ダイヤモンド」。
アフリカの内戦地域でダイヤモンドが戦争の武器を買うために使われていることをとりあげた映画だ。

主人公のレオナルド・デカプリオ扮するチンピラのような宝石密売人。
ただ、元々は戦争で家族を失った兵士で、大きなダイヤを手に入れてアフリカから逃げ出そうと思っている。
彼は戦時下でダイヤモンドを手に入れて一攫千金を狙おうとするが、途中様々な人と出会ったり、戦争の現場を目の当たりにすることで、心が洗われていく。
そしてついにダイヤを見つけ、アフリカ脱出の一歩手前まできたと思ったら……

まぁ、こんなストーリーだ。
この映画が封切られた時、海外の有名な雑誌が、主人公のデカプリオにこんなことを訊いていた。

「アフリカの血ぬられたダイヤをテーマにしている。たしかに紛争地域で、ダイヤが武器購入のためにつかわれ、先進国でダイヤが売れれば売れるほど、アフリカで人が殺されていると言われている。しかし、それは何年か前のこと。今はなるべくそうしたことを防ごうと宝石メーカーも、国も懸命な努力をしている。この映画はそうした努力を台無しにすることにならないか」

この質問に対して、デカプリオはまじめに「たしかに過去のことかもしれないが……」などと答えていた。

ただ、僕はこの映画を見て、この雑誌の記者の見方はおかしいのではないかと思った。
たしかに映画は戦争につかわれるダイヤについて取り上げている。それが物語のカギにもなっている。
しかし作り手は、明らかにそこに重点を置いていない。戦争とダイヤというのはあくまでも物語を構成するための背景であって、テーマはそれを舞台にした人間ドラマなのだ。

有名どころでたとえれば、「タイタニック」だってそうだろう。
一つの事件を舞台にしている。しかし、作り手が描こうとしているのは、事件そのものではなく、登場人物たちの生き方だ。作り手は、「タイタニック」という映画によって、事件そのものに何かを言及しようとはしていないはずだ。
この「ブラッド・ダイヤモンド」という映画も同じなのだ。戦争とダイヤを背景にしてはいるが、描こうとしているのは登場人物たちのハードボイルド世界である。

であれば、記者がこの映画を見て「戦争とダイヤモンド」について問い詰めるような質問をすること自体おかしいのではないか?

実際の事件を背景にした物語には、こうした誤解がよく生まれる。
作り手は、事件そのものをアイテムとして、そこで繰り広げられる人間ドラマを描いている。
だが、受け取る側は、人間ドラマには関心を払わず、アイテムとしての事件の事実関係だけを気にする。
こうなると、両者の論点は完全にズレてしまい、合致することはない。

作り手からすれば、歴史的な出来事を舞台にした作品というのは、大きく二つにわかれると思う。
「事件そのものを描くもの」か「事件を<アイテム>として、人間群像を描こうとするもの」かである。
両者は表面こそ似ているが、作り手の意識はまったく異なるものだ。ただ、なかなか、その真意がつたわらない。そこがちゃんとつたわれば、「ブラッド・ダイヤモンド」という映画は最高のハードボイルド映画として、ちゃんと褒められるべきものだと思うのだけれど。

追記
「事件そのものを描くもの」の映画で、同じくアフリカを扱ったものは、『ルワンダの涙』『ホテル・ルワンダ』『イン・マイ・カントリー』などだ。
このうち『ルワンダの涙』『ホテル・ルワンダ』は、やたらとストーリーが似ている。しかもどちらもルワンダを舞台にしている。
知り合いの映画評論家に理由を尋ねてみたが、不明だとのこと。たまたまなんだろうけど、ここまで一致してしまうと、作り手は悔しかっただろうな〜。

ブラッド・ダイヤモンド

数日前に、こんなニュースがあった。

米国のホームレス、4人に1人が退役軍人 イラク・アフガン従軍者増(産経新聞)

【ニューヨーク=長戸雅子】
米国のホームレスの4人に1人は退役軍人が占めていることが、ワシントンに本部を置くホームレス支援団体の調査で分かった。AP通信によると、退役軍人が成人人口に占める割合は11%に過ぎず、彼らがホームレスとなる割合の高さがうかがえる。中高年世代だけでなく、イラクやアフガニスタンに従軍した若い世代が増えているのが特徴だという。  
 支援団体は、退役軍人省や2005年の国勢調査のデータをもとに、全米の約74万4000人のホームレスのうち、約19万人が退役軍人であるとの推計を算出。2006年には、一時的にホームレスとなった者も含めると、退役軍人は約50万人にものぼったという。
 退役軍人の多くがホームレスとなってしまうのは、収入の道が閉ざされ、また戦場という極度の緊張下で過ごしたことによる精神的な後遺症で社会に適応できなくなるためだ。2度の世界大戦やベトナム戦争でも大きな社会問題となった。退役軍人省によると、同省の支援プログラムに参加している退役軍人の45%が精神的な後遺症に悩み、4分の3以上が薬物問題を抱えている。
 ホームレスになるまでの期間も変化してきている。支援団体関係者によると、ベトナム戦争のときは除隊後10年程度でホームレスになる場合が多かったが、イラク戦争では除隊後間もないケースが目立つという。


ひと言いうと、アジアから中東にいたるまでの物乞いだって同じだ。
戦争の被害者あるいは、元兵士というのが圧倒的に多い。拙著『物乞う仏陀』の取材をしたとき本当にそう思った。本では傷痍軍人の話はひとつしかとりあげなかったが、実はタイのバンコクやベトナムのホーチミンシティなどでも同じだった。

では、なぜ傷痍軍人のホームレスが多いのか?
理由はたくさんある。今度、メルマガで詳しいことを書くつもりだが、一番の要素はPTSDである。
日本の障害者だって同じだろう。精神的な問題とその他の問題が重なり合ってはじめてホームレスになる。
単なる経済的な問題や身体の問題「だけ」で物乞いやホームレスになる人というのは少ないのだ。

物乞いを論じる時は、何よりもそうした「精神」の問題に目を向けるべきだとおもうのだけれど。。。

読者からの質問があったので、こちらでお答えいたします。
メールの一部を以下に貼らせていただきます。

<メール>
『神の棄てた裸体』読ませていただきました。一読者として、刊行当初に読んだ『物乞う仏陀』よりも愛着ある一冊になりました。物語的広がりに富んでいる点が最大の魅力としてあげられると思います。「イスラームの性」というテーマを、物語の入り口にしたかと思えば出口に据え、時には横道や裏道に用意していたりと、テーマそのもののよりも、書き方にこだわった作品に思えました。
 ひとつ気になった点があります。書籍の最後に「本書の内容から、登場人物のプライバシーに配慮し、一部事実関係を変えている箇所があります。ご了承ください。」という一文が添えられていますが、ここでいう「登場人物のプライバシー」とは一体何を指しているのでしょう? 尻に出来た腫瘍を見、少女の指に勃起したことを「書いた」あなたが、今さら誰に配慮する必要があるのでしょう? 作品が作品なだけに、最後のあの一文にいささか興が醒めたのは事実です。ノンフィクションとはいえ、フィクショナルな表現と無縁とはいかないかと思います。ただそれをあの一文に背負わせる必要があったのか、あったとすればそれはどのような事態だったのか、とても気になりました。

<回答>
一番多いのは、お店や地区や固有名詞といったものです。
当たり前ですが、売春というのは犯罪行為です。国によっては日本では考えられないような重罪になってしまいます。

たとえば、本を読んだTVディレクターがアフガンの話にでてくる男性を探し出して映像化したらどうなるでしょう?
下手すれば本当に殺されます。

旅行者がインドの売春宿にいって、アキという娼婦を探し出して、買った揚句に、「なに、君、不妊なんだって」と訊いたらどうなるでしょう?
傷つくなんてもんじゃありません。

中年旅行者たちが群れをなしてインドネシアの線路上にある売春宿に押しかけて少女売春婦を買ったらどうなるでしょう?
日本の恥です。

本の情報というのは、人によっては何だって使えます。
僕の本を「夜の歩き方」という感じで読む人だっているでしょうし、映像のネタにしようとして読む人だっているでしょう。100人いれば、100人の読み方があるんですから当然です。

たしかに僕だって現地の生活に分け行って色んなトラブルを起こしました。それについて言い逃れをするつもりはありません。
ただし、それを活字にして出版する以上、僕は書き手としてその情報が悪用されないように配慮する義務があると思っています。

ということを前提に以下のご質問にお答えします。

>ここでいう「登場人物のプライバシー」とは一体何を指しているのでしょう?

上記に記したような、本人を特定できる要素です。

>尻に出来た腫瘍を見、少女の指に勃起したことを「書いた」あなたが、
>今さら誰に配慮する必要があるのでしょう?

本では、話の流れを悪くしないように何事もさらっと書いています。
しかし実際はまったくそんなことはありません。

僕は取材をする時、とにかく土下座して頼みこんでいます。
100人にやっても受け入れてくれるのは1人ぐらいです。あとは完全無視。
ただ、その1人は本当に僕のために色いんなことをしてくれます。友達を紹介し、家に泊めてくれ、思い出したくもないことを語り、嗚咽しながら暗い過去を話してくれるのです。

イラクの娼婦もそうでした。
本ではさらっと何となく出会って、何となく肛門を見て、何となくカミングアウトされたように書いています。そうしなければ本として成立しないからです。
しかし実際は違います。彼女が見ず知らずの外国人に心の闇を打ち明けるまでどれだけの葛藤があったでしょう?

これは、あなたご自身に当てはめてみればわかると思います。
あなたの元に見ず知らずの外国人が来て、あなたの暗い過去を全部教えてくれと言ったとします。
もちろん、あなたは断ります。しかし、その外国人は安宿に泊まりながら、「本が書けなければ数百万円の借金を背負って路頭の迷ってしまうんだ」と泣きついてきます。
あなたは哀れに思い、その男性と少しだけ仲良くしてあげます。やがてゆっくりと信頼関係ができていきます。
そしてついに、あなたは思い出したくもない暗い過去を、その人のために打ち明けてあげます。涙を流して嗚咽しながら打ち明けるのです。
しばらくして、その外国人は母国に帰ってきました。
それから一年後、彼はあなたとの思い出を本にしました。けど、「何の配慮もせず」にあなたの実名や働き先が明記されています。
やがて、その国から観光客が店に押し寄せて、あなたの過去を笑いながら話します。「戦争の思い出で眠れないなら、おれが抱いてやるよ」なんていうオヤジもいます。
挙句の果てに、噂をききつけた警察がやってきて、あなたを不法滞在で逮捕してしまいました。

さて、あなたは、その時、何を思うでしょう?

もうわかっていただけたのではないでしょうか。
僕は、現地で出会った人々に対して極力配慮することは、人として絶対に必要なことだと考えています。
「尻に出来た腫瘍を見、少女の指に勃起したことを<書いた>」から「何でも書いていい」ではなく、だからこそ、「最低限の配慮をすべきだ」と思うのです。
それが「配慮」している理由です。

もしかしたら、「そんなきれいごとを」と思う方もいらっしゃるでしょう。
けど、僕は「そんなきれいごと」が大切だと思うのです。


>あの一文に背負わせる必要があったのか

細かいことは先述しましたが、おそらくこの質問には「なぜわざわざ書いたの?」的なニュアンスもあるかと思います。

実は、書き手には、いろんな質問がくるんです。
たとえば、「あれはどこの売春宿なのか教えてくれ」とか「俺が取材をしたいので、登場人物の住所と連絡先を教えてくれ」とか「実物に会ってみたいので紹介してくれ」とか。全部実際にありました(笑)。

あるいは、重箱の隅をつつくような批評家やブロガーもいます。
「地名が入っていないから嘘に違いない」とか「実名でなければノンフィクションではない」とか。あるいは「なぜ登場人物の写真を載せないのか」とか。

はっきりいって、この種の質問に応じるのも面倒ですよね。
なので、僕としてはああいうふうに書いておけば、了承をとるという意味に加えて、そうした質問や指摘を抑制できると思ったのです。
ああいうふうに書いてあれば、さすがに僕に連絡先を教えろ、とか、どこの地区か知りたいといった質問はなくなるでしょうから。

ただ、個人的には、色々と悩みますよ。
地名を入れた方が絶対に現実感を高めることができますから。

そうそう、インドの赤線の地名を入れるかどうかは悩みました。
本というのは、最初の原稿の段階で何度か直します。そして、それをゲラにしてさらに三回ぐらい直します。
実は、その二回目ぐらいまで赤線の地名が入っていました。
ただ、最後の最後で校閲の方(文体や誤字を直してくれる人)からの指摘で「このままにするのか」みたいな意見が入っていたんです。
それでまた考え直して、結局削除したんです。
あ、あとインドネシアの赤線も同じでした。たしかゲラの段階までは地区名を入れていましたが、これもインドと同じ時に指摘があって削除したんです。

とはいっても、こうした事情は本には書けませんよね。
書いたって校正の段階で出版社側から「余計だから削除」といわれるだけです。

そこらへんを少しでも分かっていただければ嬉しいです。

読者からメールが来た。で、こんなことを尋ねられた。

「養老さんが毎日新聞で小説風だと評していました。私もそう思います。けど、どうしてそういう文体で書いているのでしょう」

何度かインタビューでも答えているが、たしかに僕は今回小説風の文体で書いた。

これは、書き手が何を意図して筆をとるかと言う問題になってくると思う。
そもそも、書き手というのは、「何を訴えるか」で書き方を変えるものだ。
明確が答えが決まっていて、それを述べたければ、学術論文のように描く。人生全般を描くことでなにかを訴えたければ伝記として描く。一瞬の自分の思いを描きたければエッセイの方法で書く。
つまり、何を書くかによって書く方法は大きく変わるのである。

僕の場合、自分の内面と外部の内面との葛藤や差異を浮き彫りにしたかった。
それがもっとも有効的にできるのが小説風の書き方である。しかし、これは事実の話だ。だからこそ、かつて使われた私小説の書き方を応用して取材のテーマを浮き彫りにした。
それが、小説の文体になっている理由である。

書くという作業は体験(小説の場合は空想)のどこを残してどこを書くかということである。
体験という木をどこまで削って、ひとつの美しい木像にするかということである。

たとえばあなたが結婚式に参加したとしよう。そして、その結婚式について筆をとることになった。
さて、もし、あなたが時間軸にそって出来事だけを追えば、それはレポートになるだろう。
もし、あなたが結婚式にかかるお金について書こうとしたら、研究書になるだろう。
しかし、主人公を新婦にしぼって、最後の涙のシーンをラストとして描けば、それは伝記的な話になる。
また、新婦の父親が新郎に対して最初は嫉妬し、やがては受け入れ、応援する気持ちを描いたら小説風の物語になる。

別の例でたとえてみよう。テレビで想像してみればいい。
たとえば、消防士が火事場から老人を救出したとしよう。これが一つの体験だ。
これをニュースで報じたら「ニュース」になる。
プロジェクトXで番組化したら「物語」になる。
朝まで生テレビの方法論なら「善悪の討論」になる。
どれが良いか悪いかなんてことはない。結局のところ、作り手は何を描こうとするかによって方法論を変えているだけの話なのだ。

改めて言うが、事実(体験)というのは、ひとつの塊にすぎない。
それをどう削って、組み立てるのか、ということが「書く」という作業なのだ。
そして、その作業を行う「彫刻刀」が、文章を書くときの方法論なのである。つまり、それが先述した論文の方法であり、レポートの方法であり、エッセイの方法であり、そして小説の方法なのだ。
書き手は、筆をとる時にテーマを決めている。そのテーマを一番うまく伝えるためにはどういう書き方をすればいいかを熟慮する。そして、最も適しているという方法論を選びだして執筆するのだ。
僕の場合、それが私小説として書き方だった。それだけの話である。

今回メールをくださった方は私の書き方に戸惑ったようだ。
もちろん、そういう人だっているだろう。当たり前だ。
しかし、私はあえて尋ねたい。

もし料理人が林檎の皮を包丁ではなく皮むき器でむいたからといって「これは本物の料理じゃない」という人がいるだろうか?

もし土建屋さんが木材をノコギリでなく、電気ノコギリで切っ家をたてたからといって「これは本物の家じゃない」という人がいるだろうか?

もしラーメンを「手打ち」じゃなく、「機械」で打っただけで、「これは本物のラーメンじゃない」という人がいるだろうか?

頑固な人はそう言うかもしれない。
しかし、作り手からすれば、本来はそんなことはどうだっていいのだ。
作り手は目指しているものをつくるのに一番いい方法を選んで作っているだけだ。
だからこそ、ある人は皮むき器で果物をむくし、ある人は電気ノコギリで木材を切るし、ある人は機械でラーメンを打つ。僕の場合は、体験を小説の方法で体験を再構築した。そうすることによって自分が描きたいテーマをよく鮮明に描こうとしたのだ。すべては、そのテーマによって鑑賞者に何かを訴えかけたいと思っているためである。

すこし前に、新潮社の方から「逝きし世の面影」という本をいただいた。
ものすごく面白い本だ、と。

読んでみた。おったまげた。夢中になった。で、また仰天した。
僕は読む本の6割ぐらいが学術書だが、ここまで心が動かされたそれは数年ぶりだ。

簡単に言ってしまえば、江戸から明治にかけて来日した外国人たちの目に、当時の日本がどう映ったかという本だ。

ある人は、日本を身分社会制度はあるものの、これ以上自由な国はないと語る。
ある人は、路上の病気の物乞いたちがどれだけ明るく生きているかを語る。
ある人は、日本人が羞恥心なく裸を見せる大らかさに心を打たれたと語る。

僕はアジアを中心にいろんな国を見聞して、それを文字にしている。
百数十年前、欧米の人間は日本にやってきて、それと同じことをやった。
路上のハンセン病の物乞いを見つめ、貧しい人たちにもてなされ、様々なことを教えられた。

著者の渡辺京二さんは欧米人たちの残した膨大な文献を整理して、彼らの目に映った日本の姿並べていく。
かつて柳田國男がやったように様々な例を並べながら重層的な世界を示してくる。
だからこそ、研究書なのに、きらめくような生きた人の姿が折り重なって見える。

そして、そこに描かれる、その欧米人たちの目に映った日本は、まぎれもなく「美しい」。
その美しさとは、人間が生きる姿そのものである。
そこには紛れもない「原日本人」の姿がある。
たとえ、西洋人の目が偏見というフィルターを通しているにせよ、それも含めた意味での「原日本人」があるのだ。

たった百数十年前の日本人がどのように生きた人々だったのか。

それを知るだけで、自分を恥じつつも、日本人であることに誇りをもてる。
そんな素晴らしい本だった。

是非、この方の次の本を読みたい。
書いてくださらないかなー。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

今日会った人からこんな話を聞いた。

「フィリピンで変な噂が広がったらしい。母乳よりも、粉ミルクの方がいいという話がつたわった。それでフィリピンのママさんたちは、お金がないのに粉ミルクを買い漁って与えた。しかし、粉ミルクが悪かったのか、それを飲んで死ぬ赤ちゃんが続出。政府は相当頭を悩ませているらしい」

ふむふむ。
海外って、こういう話をよく耳にする。
一つ噂がたつと、それにみんなが敏感に反応して、むちゃくちゃなことをやりだすというものだ。

たとえば、アフリカではこんなことがあった。

「アフリカではエイズが大流行している。あるとき、処女とセックスをすればエイズが治るという噂がたった。それでエイズ患者が処女をレイプしまくった。そのせいで、逆にエイズ患者が増えてしまった」

実話らしい。
とんでもないことだが、こういうことが起きてしまうのである。

教育の欠如?

そう言ってしまえばそれまでだ。
だが、僕はこの危うい存在こそが「人間」だと思っている。だからこそ、そこに「ドラマ」があるんだろうけど。

先日、女性のAV監督と会って話をした。
ペヤングマキ(溝口真希子)さんという人。僕と同じ年齢だ。
去年岸田戯曲賞をとったポツドールという劇団で、12月に「女の果て」という企画講演を演出するらしい。その件で、池袋で会って話をしたのだ。

僕はAV監督に会うのは、生まれて二度目だ。
もう一人会ったことがあるのは、釣崎さんという人。半年ぐらい前だったけな。
もともとSM監督をしていたのだが、その後戦場などを回り、今はカメラマンになっている。その筋では、知らない人はいないようなカメラマンである。この方とは、ある雑誌のグラビア企画で一緒になったのだ。

ぺヤングマキさんは、フワッとした印象の美人。けど、なんか人を観察するのがとてもうまそうな感じがした。
釣崎さんは、かなりの強面だが、結構愛嬌がありつつ、自分の世界を独自に持っているような人だった。
面白いことに、二人とも高学歴。ぺヤングさんは早稲田の文学部。釣崎さんは慶応の文学部。

ともあれ、ぺヤングマキさんと話をして知ったのだが、いまAV業界というのは合理主義が進められているのだそうだ。

かつてAVというのはビデオレンタルが主流だった。
つまり、ビデオ屋がどのビデオを買うかを決めていたのだ。
店としては、いろんなものを並べたいので、いろんなものを買う。そのため、あまり需要のないものでもつくればある程度は売れたのだ。

しかし、今はPCでのダウンロードやセル(販売用)ビデオが主なのだとか。
そのため、欲望をもったお客さんが直接欲望のために購入するので、その欲望に100パーセントあったものじゃないと売れない。
それで、これまで実験的につくっていたものや、ちょっと芸術っぽくつくっていたものがまったく売れなくなった。つまり、安価で欲望に応えるだけのものしかつくれなくなったのだという。

これは、結構面白いのではないか。

購買者が個人に変わった途端に、がらっと売れる商品が変わってしまう。
特に、購入ルートも、購入動機も特殊で狭い世界だからこそ、その影響をもろに受けやすいのだろう。

これ以外にも、面白いネタを数えきれないぐらい教えてもらった。
いつか、メールマガジンでご紹介しよう。楽しみに。

演劇の詳細については、以下をご参照ください。

http://www.potudo-ru.com/

今日、読売新聞と産経新聞で同時に拙著の書評が載った。
書いてくれたのは、二人の著名な女性ノンフィクション作家。
読売新聞は、「散るぞ悲しき」で大宅賞をとった梯久美子さん。産経新聞は、「でっちあげ」で新潮ドキュメント賞をとった福田ますみさん。
どちらの本も腰を抜かすほど面白い。

そういえば、「散るぞ悲しき」を読んだのは「神の棄てた裸体」の取材中だった。
新聞のインタビューを受けたり、ゲラを出したりしなければならず、途中十日ほど帰国した。三月だったと思う。その時、「神の棄てた裸体」の編集を担当してくださった方が「散るぞ悲しき」をくれたのだ。

「散るぞ悲しき」は本当に評判がよかった。群を抜いていた。
大宅賞の候補にあがっていたのだが、その中でもひとつ突出していると言われていた。

毎日新聞の記者の方は「『散るぞ悲しき』とあともうひとつのW受賞になるのではないか」と予想していた(事実そうなった)。
文藝春秋の方も「『散るぞ悲しき』が頭一つ抜きに出ている。あとは横一線なので誰がとっても不思議じゃない」とといってた。
文芸誌の編集者も「梯さんは群を抜いて優秀なライター。あの人だけ桁が違う」といっていた。

一時帰国した折にそんな話を方々から聞かされれば読みたくなる。それで、わがままをいって一冊もらったのである。

感想は、なんというか、「完璧」というものだった。
取材内容にしても、構成にしても、文章にしても、完璧なのである。文句を言う隙すらない。
しかも、綿密な取材を緻密な文体で描いているにも関わらず、登場する人々に「血」が吹きこまれているため、読んでいる人の心を否応なくゆさぶる。

あまりにも感動した僕は、再出発の前夜にあわてて感想ハガキを書いて本をくれた編集者にわたした。
ただ、その時、僕の処女作も賞の候補にあがっていたので、余計な気づかいをされないようにと、「匿名希望」と書いて出した。

翌日、僕はまた旅立って、インドの取材をしていた。「神の棄てた裸体」の<切除>という話の取材だ。
モスクと呼ばれる売春宿に寝泊まりしながら取材をつづけている最中、文藝春秋の人から「散るぞ悲しき」が受賞したというメールがきた。
単純にとてもうれしかった。これでまたドンドン書かれるんだろうし、それを読めるんだろうなと思うと、うれしかったのだ。

それからおおよそ、一年半後の今日。
朝起きたら、知り合いからその梯さんが拙著の書評を読売新聞に書いてくれているという知らせが届いた。
読んでみると「物乞う仏陀」のことまでも記されてあった。梯さんは感想ハガキの一枚に僕が書いたものがあるとは知らないはずだ。なのに、わざわざ前作まで読んでくれていた。
それが、なんか、とてもうれしく、心の中で感謝した。

今度は、本名でお礼状を書こうと思う。


<追記1>
ちなみに、福田さんの「でっちあげ」もすごく面白い本です。
教師の暴行事件がどのようにマスコミや学校によって「でっちあげ」られ、それゆえその教師がどんな苦悩を体験したのかということが胸が苦しくなるほど書かれています。カフカの小説がそのまま現代でくりひろげられているとは……
<報道>や<教育システム>についてというより、人間が立っている今という時代の危うさがしっかりと書かれています。読んだあと、決して「人ごとじゃない」と思うはずです。

<追記2>
「物乞う仏陀」はどうやれば買えるのかと聞かれました。
いま品切れ中みたいですが、先日文藝春秋社より重版の知らせが来ました。たしか30日付で増刷される予定だったと思います。なので、数日中には買える予定です。

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道


でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相

また、外国へ行って取材をしようと思う。
で、チケット購入のために代理店に電話を掛けまくっている。今日だけで10店舗ぐらいかけた。同じ代理店の別の支店にも掛けた。

意外に知られていないことだが、チケットというのはたくさんある。
その係員がどのチケットを選ぶかによって、同じ航空会社で買っても値段が違ってくるのだ。
たとえばAという旅行代理店の新宿店で10万円と言われても、渋谷店では7万円だと言われたりする。もちろん、旅行会社によっては5万と言われることもある。
5万と10万だと全然違う。
結構知られていないのだが、一度外国へ行く際はやってみてもらいたい。
チケットの値段は、その担当者の「探す腕」にかかっているといえるのだ。

ちなみに、日本に発着している国際線は本当にいいものばかりだ。
どんなに悪くても、墜落の可能性はほとんどない。安心して乗っていられる。

しかし、国によっては、国内線が悲惨なことになっていることがある。
安いチケットを探すと地獄を見ることがある。

むかし、某国でプロペラ機に乗ったことがある。
わずか数十名しか乗っていないボロボロの飛行機である。
揺れが半端じゃない。ギーギー音がする。いや、メシメシという音までする。

かなり怪しい。これは墜落するかもしれない。
本気でそう思った。

と、その時、幸か不幸か予想が半分的中した。
そのプロペラ機のドアが途中でぶっ壊れて落ちてしまったのである。

高度が低かったので大惨事にはいたらなかった。
だが、たった二人いたスチュワーデス(というか雑用係)は悲惨だった。
悲鳴をあげて、近くのイスにしがみついて、なんとかドアに近づかないようにしていた。しかし、誰もベルトを外して助けようとはしない。イスに座ったまま「大丈夫か〜」と言うだけだ。ひどい輩になると、手を合せて神に祈ったりしはじめる(アッラーだった)。
スチュワーデスはパンツをあらわにしながら懸命にイスに座って、シートベルトをしてなんとか無事だった。
みんな、なぜか拍手をした。それで一件落着。

日本ではともかく、外国ではやはり「格安」に気をつけるべきだろう。

『サマリア』という韓国映画がある。
韓国の援助交際を舞台に、家族の深淵を描いた素晴らしい映画だ。

この映画のなかに、前半だけ登場して強烈な印象を残した女優がいる。
ハン・ヨルムである。
主人公の友達という設定ながら、主人公をも凌駕した存在感を見せつけた。

どの世界でも、その世界の「神様」が宿っている人がいる。
映画でも、文学でも、演劇でも、写真でも、何年に一度輝いている存在が現れる。
脇役であっても、駄作であっても、その人だけ不思議なほどまぶしく輝いているのだ。
ハン・ヨルムという女優さんは、まさしくそんな人だ。
『サマリア』という映画を観た時、まさしくそう思った。大袈裟ではなく、この人には、映画の神様が宿っているな、と。

たぶん、監督もそれを感じたのだろう。いや、監督が一番感じたのだろう。
監督キム・ドクは、『サマリア』を撮り終わった後、ハン・ヨルムを主人公にして『弓』という映画をとった。

もともと、このキム・ドクは、芸術性の非常に高い映画を撮る人だ。
この『弓』という作品もそうだ。
舞台はぼろくて小さな船の上だけ。主人公はひと言も言葉を交わさない。メッセージはすべて抽象的。徹底的に娯楽色を排除した映画である。

こうなると、映画の生命線は、ハン・ヨルムの魅力だけである。
キム・ドクがどれだけ魅力を引き出し、ハン・ヨルムがどれだけそれに応えられるか。いわば、監督と女優のガチンコ勝負なのだ。

はたして、たった一人の女性の魅力だけで、一時間三十分も引っ張れるのか。

いやはや、これがやったのである。
セリフも、ストーリー性もない映画のなかで、ハン・ヨルムがこれでもかというぐらい多様な魅力を見せつける。七変化どころじゃない。七百変化ぐらいして観ているものを圧倒させるのだ。
おそらく、一時間三十分どころか、二時間はゆうにできただろう。

これだけの女優さんが登場することなどめったにない。
あるいは、これだけ才能のある監督と女優さんのガチンコ勝負を観られることはめったにない。

もちろん、いわゆる「映画」としてのエンターテイメント性はまったくない。
なので、それを期待したら、120パーセント裏切られる。

しかし、いわゆる才能と才能のぶつかり合いを楽しみたいなら、ぜひ観るべき映画だと思う。
順番的には『サマリア』を見た後、ハン・ヨルムの存在感に圧倒された人だけ『弓』を観るというのがいいと思うけど。

サマリア



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