石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

ある人が、子供を出産することになった。
その人は小児科医で、「無痛分娩」をするらしい。
「無痛分娩」とは、麻酔して痛みを取り除いたうえで、出産をするものだ。

この無痛分娩、欧米では普通に行われている。
局所麻酔ならほとんど赤ちゃんに影響はないし、何よりもお産が楽だ。
なので、欧米の女性はそれを選ぶ傾向にあるらしい。国によっては8割がたの人がそうしているところもある。

では、日本はどうかといえば、無痛分娩はほとんど行われていない。
5万円ぐらいで楽になるのに、なぜか欧米のように広まらないのだ。日本人は米国でウオッシュレットがはやらない理由が理解できないが、米国人は日本で無痛分娩が行われない理由がわからないかもしれない。

そんななかで、その人にプレゼントしようと思って、先日「私たちは繁殖している」(内田春菊、角川文庫)を購入した。
出産&育児本としては、傑作といっていいぐらい面白い漫画だ。

僕がこれを読んだのは大学生の頃。
で、プレゼントする前に自分でも読みなおそうと、ページをめくってみた。
すると、面白いことが書いてあった。

日本では、「お腹を痛めてうんだ子」という言葉がある。
お腹を痛めて産んだから、母親は特別な存在なのだ、ということだ。
離婚で親権が母親にある時などもよくこの言葉がつかわれたりする。男としては、確かにそう言われればどうしようもない。
実際、日本のママさんは、「お腹を痛めて産んだ」ことにプライドをもっていて、何かとそれについて語りたがるのだそうな。
たぶん、ここらへんの考え方が、日本で無痛分娩が広がらない理由なのだろう。

しかし、無痛分娩や、帝王切開はどうなるのか?
「お腹を痛めていないから、特別ではない」ということになるのか?

もちろん、ママさんたちは、そんなことはないと分かっている。
しかし、それでも心の底では「腹を痛めて産んだ人がワンランク上」みたいに思っているに違いない。だからこそ、「言いたがる」のだろうし、「無痛分娩」をしない人が多いのだろう。
そういう意味でいえば、「言葉」というのは、実に恐ろしいものである。

ともあれ、もし僕が女性だったら、どうするだろう……。
たぶん一度目は自然分娩してみるだろうな。「ためしに」やってみたい。
でも、二度目からは確実に「無痛」にすると思う。一度わかれば、十分だ。とかいいながら、予防接種の注射も「痛いからやだなぁ」とためらっているのだが。。



追伸1
昨日と今日、「アマゾンで本が買えなかった」という問い合わせメールが来ました。
さっき見てみたら、品切れ状態になっていました。ありがたや、ありがたや。
実は、昨日「物乞う仏陀」ともども重版がかかりました。もうしばらくすると、また買えるようになると思います。本当に、ありがとうございます。
ちなみに、品切れをいいことに、一冊三千円強で売っているお店がありますが、「無視」ですな。無視。紀伊国屋のウェブ販売などでは定価で買えます。


追伸2
先日、千葉そごうの中にある「三省堂」の方とお会いしてきました。
とても良い方で、サイン本を数冊つくらせていただきました。宜しければ、一度行ってみてください。
ちなみに、三省堂本店で「神の棄てた裸体」の写真パネルを多数展示しています。こちらもよろしければご覧下さいませ。


私たちは繁殖しているレッド (角川文庫)


今回は、アフリカ映画の続編として、「ラストキング・オブ・スコットランド」を取り上げよう。

物語は、主人公の青年医師の気まぐれから始まる。
大学を卒業したばかりの青年医師が思いつきからウガンダへ行く。いい加減な気持ちでNGO活動をしようとするのだ。
そのなかで、青年は偶然、国の大統領アミンと知り合い、そして主治医にならないかと誘われる。青年医師は国のことなど何も知らずにOKして、国の中枢部に入り込んでしまう。
青年医師は大統領の庇護のもとで、贅沢な暮しを楽しむ。だが、一緒に過ごすにつれて、この国の「異変」を知るようになる。周囲の側近が消え、反対派の団体や民族が消えていく。
やがて、青年医師は、それがすべて大統領の仕業だと知る。大統領アミンが狂気のなかで国民を虐殺しているのだと知るのである。
青年医師は何も考えずに大統領の側近となってしまったことの浅はかさに気がついて帰国しようとする。だが、彼は逃げるには遅すぎた。あまりにも国の中枢部に入り込みすぎていたのである。
そこで彼がとった行動とは……

こんなあらすじだ。

ウガンダの大統領アミンは、もちろん実在の人物だ。
70年代に、数十万人という国民を虐殺した独裁者である。

芸術作品において、独裁者というのはある意味ステレオタイプで描かれる。
そのステレオタイプのほとんどが「マクベス」である。特に映画に描かれる独裁者は、「マクベス型」が多い。
独裁者ゆえの孤独によって、気がおかしくなっていき、手当たり次第に暴挙を犯し、破滅していくというパターンである。

そういう意味では、この映画におけるアミンにはあまり興味はわかなかったが、作品の視点は面白いと思った。
アミンの「自爆」や「凶器」だけを描くのではなく、その真横にいる「安易な青年医師」を主人公にして、彼の恐怖を描くという視点だ。
アミンだけ描けば、この映画は「マクベス」をなぞった狂人の物語となってしまう。
しかし、青年医師を主人公にしたがゆえに、「青年の愚かさ」「先進国と途上国の関係」「独裁政権の現実」「人間の狂気」といった複数のテーマを並列に置くことができているのである。

視点を置きかえることで、テーマを何倍にも膨らませられる。そのことを教えてくれた作品だ。
ただ、ひとつのテーマだけでズドーンとやるのと、複数のテーマを並列に並べるのと、どっちをとるかは作り手の好みにもよるのだが。

ちなみに、これは『スコットランドの黒い王様』というタイトルの小説もある。
新潮クレスト・ブックスからでている。

そういえば、昔この新潮クレスト・ブックスに昔ずっぽりはまったことがあった。
たしか「愛の続き」「穴掘り公爵」「グアヴァ園は大騒ぎ」あたりを立てつづけに読んで知ったんだと思う。
それでこのシリーズの小説は、どれも面白いということがわかり、図書館でこのシリーズを見つけては手当たり次第に読んでいた。
外国文学っていうのは、なかなか選び方が難しいので、こういうシリーズがあると、とてもありがたい。


ラストキング・オブ・スコットランド


スコットランドの黒い王様

最近、アフリカを舞台にした映画がお盛んだ。
たぶんハリウッドスターがアフリカを舞台に慈善活動をしているためだろう。
それにしてもよくつくられる。「ホテル・ルワンダ」がヒットしたと思ったら、
「ホテル・ルワンダ」あたりから、立て続けにつくられてきたと思ったら、06年には「ツォツィ」という南アフリカの映画が外国語映画賞をとった。

「ツォツィ」は、南アフリカのストリートチルドレンを主人公にした映画だ。
家庭内暴力を受けてストリートチルドレンとなった主人公が、やがてギャング化していく。
悪友四人と組んで殺人強盗をしながらスラムで生きていくのである。
だが、ある日高級住宅地で車強盗をしたところ、たまたまその車に赤ん坊が乗っていたことから、主人公の運命が変わっていく。
主人公の男はその子を一人で育てていくなかで、愛を知り、家族に憧れ、そして自分の過去を否定していくのである。
そして、ついに裏社会から足を洗おうとしたとき、警察につかまってしまう……。

たぶん、この話をつくった人は、汚れた人の中にある「人としての温かさ」というものを、物語を通して磨きあげ、拡大化していきたかったんだろうな、と思った。

この種の物語をつくる時というのは、「怒り」が必要になってくる。
ストリートチルドレンがかわいそうなのは誰でもわかることだ。だけど、実際に目の前にしたら、99%の人は「くさい」「こわい」「怪しい」といった理由で目をそらす。
立派な建前だけは語るくせに、それ以上のことをしようとしない。決めつけて去っていく。あるいは、思考を停止して去っていく。
それを見ていると、「怒り」がわく。その「怒り」ゆえに、彼らを磨きあげて人間としての温かさを描きたいという衝動に駆られる。

少なくとも、僕の場合はそうだ。
「怒り」がまずあって、そこから描きたいという衝動に駆られる。
たぶん、その「怒り」が大きければ大きいほど、描きたいという衝動も大きくなっていくのだろうと思う。

この物語をつくった人もそうだったんだろうな、と勝手に思った。


ツォツィ プレミアム・エディション(2枚組)

知り合いのスチュワーデスが、昨日化粧についてのデータを送ってきた。
それに目を通していたら、「別れ話をするときの化粧の方法」と題する一文があった。
ある方法で目元に化粧をほどこすと、悲しみのあまり涙を流しているように見えるのだそうだ。
別れ話をするときは、その化粧をするのがおススメなのだという。

僕は女性の化粧について、深く考えたことがほとんどない。
しかし、女性というのは別れ話をするときに、「別れのためのファッション」を選び、「別れのための化粧」をするのかと思うとゾッとした。

オトコがフラれる側だとする。
そうなると、オトコとしては、別れ話の場は厳粛でなければならない。
女性は傷つき、ギリギリの精神状況で、感極まって別れ話を切り出すものなのだ。そこのファッションとか、化粧が介入してははならない。

しかし、そう考えるのは、フラれるオトコの側の論理なのだろう。
実際女性の側はすでに気持ちが固まっているので、そんな切羽詰まった状況ではない。むしろ、もっと明るい。

「よーし、今日は悲しいフリしなきゃならないから、洋服は○○で決めて、お化粧はこうやればいいかな。おっ、結構それっぽいじゃん。よし、これでいっちょう別れ話を切り出してくっか!」

そんな感じで、別れ話に挑むのである。

フラれるオトコとしては、かなり残酷な話である。
だが、そんなものなのだろう。世の中は、悲劇のヒロインが思っているほど厳粛ではないのだ。もっと軽いものなのである。

そういえば、川端康成の『掌の小説』にも似たようなシーンがあったような記憶がある。
葬儀の最中、ある女性が泣きはらした顔でトイレにやってきて、化粧をし直す。それが終わると、女性は鏡に向かってニッと微笑む。男が外からたまたまその光景を見て、背筋に冷たいものを感じる。そんな話だ。

オトコが考える女性像というのは、いつも非現実的だ。
だからこそ、たまに現実を垣間見てしまうと、ゾッとするのである。

ま、何事もこの「ギャップ」が面白いんだけどね。


追記
10月11日(木曜日)発売の『週刊文春』に「神の棄てた裸体」のインタビューが載っています。「著者は語る」というコーナーです。興味がありましたら、読んでみてください。

掌の小説

POP(ポップ)というのをご存じだろうか。

以下を見てほしい。こういうものだ。
http://www.hontai.jp/pop2006vs.html

このPOP、書店のスタッフがつくるケースがメインだ。
だが、書店に任せていても、なかなかつくってくれない。一店舗にあっても売上にはつながらない。
そのため、出版社が販売促進のためにつくることもあるのだ。

「神の棄てた裸体」でも、出版社の方がPOPをつくってくれた。
裏表あって、一面にお勧めのコメントを書いて、取材写真のサインを入れて貼った。この写真が次のものである。

http://www.kotaism.com/kaminosutetaratai_kinjirareta1.htm

これを書店の人に配っていたところ、なんとこの写真が「作者」だと思われた。
サインしているからなおさらなのだろう。「パキスタンで映した作者の写真」に思われてしまうのだ。
仕方なく、「P60ページより」とかいうコメントを上に入れて、「この写真は俺じゃなくて、取材の写真だぞー」というところをアピールすることに相成った。

しっかし、この写真が僕に見られるとは……
ヒジュラもショックだろうけど、僕もショックである。心外だ。

そういえば、先日ある出版社にいって、取材写真を見せていた。
その中の一枚に以下の写真があった。ヒジュラのボス(グル)が踊っている写真である。

http://www.kotaism.com/kaminosutetaratai_kinjirareta2.htm

出版社の人に「これ、誰?」と尋ねられたので、冗談半分に「現地に暮らすオヤジです」と答えた。
すると、「明るくて、素敵なお父さんですね」と返答された。それ以上、会話がなかったのだが、その人が本当にこの写真の人を僕のオヤジだと思っている可能性は高い。

なぜ、こうなるのだろう……

まぁ、あまり冗談ばかりいってはいけないということか。
(最初のPOPの件では、冗談で何かをしたつもりは一切ないのだが)

あ、そういえば、半年先のことなのだが、NGOの開催するイベントでインドのことについて話をすることになった。
http://www.knk.or.jp/japan/com/event/2007/series_asia.htm

基本的に、僕は人前で「まじめ」な話をするのが苦手である。
昔からの癖で、人を前にすると、冗談を言ったりしなければ気がすまない性格なのだ。
これまで何度か上記のようなイベントで話をすることがあったが、常におちゃらけていた。
しかし、こういうイベントに来る人は真面目な人が多いので、僕が冗談を言っても、シラけることが多い。そうなると、僕の立場はかなり悪くなる……。

もし会場でお目にかかることがあれば、僕がつまらないギャグを言っても、哀れだと思って、笑ってやって下さいませ。

ちなみに、ストリートチルドレン支援団体の開催イベントなので、当日はインドのストリートチルドレンについて話をするつもりです。


※現在発売中の『週刊朝日』に「神の棄てた裸体」の書評が載っています。興味のある方はご覧になって下さい。

時々「手書きですか、パソコンで書いてますか」と聞かれる。
僕はPCで書いているので、「ワードで縦書き40×40で書いてます」と答えている。

いまどき、手書きの人がどれだけいるのか分らない。
むかし、某出版社に出入りしていたら、数人の原稿を見せてもらったことがある。
そのなかで、ニュース23の筑紫哲也さんだけが手書きだった。自前の原稿に「ちくしょう」とプリントアウトして、かなり太字で書いていた。
お世辞にも上手な文字ではなかったけど、とても特徴があったのを覚えている。

僕は一番最初万年筆で書いていた。大学生ぐらいのことだ。
A4の白紙に、書いていたのだが、いかんせん、金がかかった。
紙は裏紙をつかっていたので微々たるものだったが、万年筆のインク代が馬鹿にならなかった。
朝から晩まで書いていたので、一日にカートリッジのインクを2本はつかっていた。
貧乏学生にとっては、かなり痛い出費である。
なので、23歳ぐらいから、パソコンに切り替えた。

ところで、僕がつかっていたのは、パーカーのソネットというものだ。
僕はNO1ブランドが嫌いなのだ。車もトヨタやベンツだけは嫌だと思うし、腕時計もローレックスだけは嫌だと思う。なので、万年筆もモンブランだけは嫌だ。
それで、パーカーにしたのである。

ただ、朝から晩まで何年もつかっていると、それなりの愛着がわいてくる。
ペンだけではない。パーカーというブランドそのものにも特別な思いを抱くようになる。
気がついたら、ボールペンまでパーカーにしていた。

なんつうか、パーカーというブランドが、自分に一番合っているような気がするし、パワーをくれるような気がするのだ。これじゃなきゃダメと思う。
愛着というのはそんなものである。

僕は洋服とかのブランドには一切興味がないんだけど、よく女性がエルメスならエルメスだけをもっていることがあるが、たぶんそれと同じ気持ちなのだろう。
いつしか、そのブランドが自分と一体化してしまうのだ。
妙なものである。

いま、一般の人がどれだけ万年筆をつかうのかわからない。
たぶん、万年筆で文字を書くことなんてまずないだろう。

けど、僕は自分がパーカーに惚れているため、人にプレゼントすることがある。
何年か前にとてもお世話になった人に、お礼としてパーカーの万年筆をあげたことがある。
その人がつかっているかどうかわからない。たぶん、あまりつかう機会はないだろう。けど、僕はとても満足している。「自分が好きなものをあげた」という不思議な満足感があるのだ。
これまた、妙なものである。
ま、プレゼントというのも、自己満足でしかないのだろうけど。

そういえば、僕は少し前から10年以上つかっていたパーカーのソネットの使用をやめた。
「パーカーが好きだ」と連発していたら、ある日パーカーのデュオフォールドという最高級品をもらってしまったのだ(ブルーのチェック)。
ぶっちゃけ、これには参った。
カートリッジをつけて、書いてみたら、あまりの心地よさに涎が出たほどだ。以来、今に至るまで何かあるたびにそれで書いている。

しかし、我ながら解せないこともある。
これだけ万年筆に愛着があるのに、パソコンには一切興味がないのだ。
いま、東芝とIBMのものをつかっているが、これがソニーになろうと、NECになろうと何でもいい。いま、実際に文章を書いているのは万年筆ではなく、PCのはずなのに、そう思ってしまうのである。
変なものだ。

万年筆のブランド、パソコンのブランド。

一体何が違うのだろう?

いや。違うんだろうな。
きっと、万年筆はブランドでも、パソコンは「メーカー」なのだ。

でも、いつかパソコンも「ブランド」になるんだろうな。


PARKER 万年筆 デュオフォールド パール&ブラック GT (色:パール 材質:アクリライト ペン先:18K 太さ:中字)

僕は、本名でノンフィクションの仕事をしている。
それ以外では、基本的にペンネームでいろんなことをしている。
言ってしまえば、ペンネームでいろんな仕事を片っ端からこなして取材費をためて旅に出て、本名でノンフィクションを書くという感じだ。

が、先日妙なことが起きた。
ちょっと前に「電子書籍」での書き下ろしの仕事をしたのだが、それがなんと電子本のある部門の売上No1になってしまったのだ。
内容は笑いあり、洒落あり、恐怖ありの、「ふざけたお笑い」的な内容である。
もちろん、僕としては「売れる物をつくろう」と思って、それだけに特化して手掛けたのだが、まさか堂々のNo1になるとは思ってもみなかった。

と、そんなこんなで、エンターテイメント企画をあれこれやることになった。
今年の冬には取材旅行へ行きたいので、あらゆることを手掛けて取材費を稼がなければならないのだ。

で、その一つに、なんと「化粧」に関する本のプロデュースというものがあるのだ。

むろん、化粧なんて、まったく知らない。知るはずがない。
「神の棄てた裸体」で書いたようにインド人娼婦にやられたことはあるが、人にやったことも、自分でやったこともない。人がやることについても全く興味がない。
にもかかわらず、「売れる物を作れ」という至上命令によって「化粧」をやらなけれなならなくなったのだ。

で、急きょ、古本屋で二十冊ほど化粧の本を読んでいたら、面白いものを見つけた。
「愛と欲望のコスメ戦争」(三田村蕗子、新潮新書)である。

これによると、化粧というのは、その時代に合わせて需要が決まるようだ。

和服から洋服へと服装が変われば、「白塗り」から洋服にあった「肌色」の化粧が必要になる。
(この時代に、その需要をいち早くキャッチして巨大企業となったのが資生堂)。

大戦中は「こぼれにくい化粧」の需要が高まり、白粉と下地クリームが一体化した化粧品や、バッグに入れても粉がこぼれにくい白粉が発売された。

高度経済成長期には、小麦色の肌がもてはやされる。
それにともなって、「日焼けを美しく見せる化粧品」が流行した。

さらにオゾン層の破壊によって紫外線が脚光を浴びると、UVカットの化粧品が売りだされる。
で、エコがはやりだすと、コスメも「ナチュラル」になるのだとか。

「美」というのは、結構奥が深くて、複雑なように思っていた。
けど、こういう流行の裏側を知ると、人間の滑稽さが浮き彫りになって面白い。それがまた、人間のかわいらしいところでもあるのだけど。

ともあれ、化粧については、男は口をはさまないのが無難である。
上記のようなことを偉そうに語れば「嫌味なオトコ」と思われ、まったく無関心でいれば「わたしがこんなに頑張っているのに、なぜ気付かないのか」となる。
化粧の流行は単純だけど、その裏にある女心は至極複雑なのである。ここが、難しいところだ。

一体、そんな女性にウケル化粧の企画なんぞプロデュースできるのだろうか。
なんか、気が重くなるなぁ。僕はただ見ているだけで、あとはすべて他の人に任せるに限るな。

ちなみに、作者である三田村さんの別の本である「ブランドビジネス」(平凡社新書」も、とても面白い内容です。
こちらは、ブランドのマーケティングと歴史についての内容です。
よければ、読んでみてください。


夢と欲望のコスメ戦争 (新潮新書)



ブランドビジネス (平凡社新書)

先日、友達と話をしていたら、「嫌われ松子の一生」の話で盛り上がった。
もちろん、面白い、という内容だ。

僕はDVDで観たのだが、最初の10分は、いつ消そうかと思った。
だが、途中からむちゃくちゃ面白くなってきて、最後は夢中になってしまった。

内容は、かなり重い。
トラウマをもつ女性が人に好かれたいと言う思いを胸に秘めて育っていく。
彼女は、その思いゆえに、人生の要所要所で様々な失敗をし、転落をしていく。
教師になったものの同僚の金を盗み、家を出ればトルコ嬢となり、悪い男につかまってDVを繰り返され、しまいにはゴミ屋敷の住人となって、中学生に殴り殺される……。

こう書くとただただ暗い話なのだが、それをものすごくコミカルに描いている。
暗い部分をすべて「笑い」に変えてしまっている。それゆえ、単に暗い話だけを書く以上に、人間の生きる力のようなものが描かれているようにも感じる。
人生ってたしかに悲劇だけど、それ以上にそれって喜劇でもあるんじゃないか。
そんな視線が、いやおうなしに登場人物への愛情をかきたてる。

僕は、このコメディ的な表現にものすごく憧れる。
暗いものを暗く書くのはとても簡単なことだ。悲惨と悲惨と描くのは楽なのだ。
しかし、「悲惨だけど……」という、「……」の部分にあたるものを見極めて、描くのは非常に難しい。
描こうと思えば描けるのかもしれないけど、失敗したら、それこそ目も当たられないことになる。これで失敗するなら悲惨を悲惨として描いた方がマシだ。
(だから「だけど……」を書くときは死ぬほど勇気がいる)
けど、本当はこの「……」という言葉にならないものこそが、人を人たらしめ、現実を現実たらしめている部分だと思っている。
そして、映画でも、文学でも、芸術といわれるものの優れている点は、その「……」を描けることだと思う。

映画監督の今村昌平は、戦後の人間群像を描いた重くて濃厚な作品を「重喜劇」と呼んだ。
まさしくその通りだと思う。人生とは「悲劇」ではなく、「重い喜劇」である。

しかし、喜劇を書くには、どうしても「センス」が必要だ。
オヤジギャグと同じで、センスのないやつが人に「喜」びを与えようとすると、かなり悲惨なことになる。それこそ悲劇だろう。

ちなみに、僕が好きな映画ペスト5を聞かれて、かならず出す一作が「アンダーグラウンド」である。
「重喜劇」の傑作中の、傑作ともいえる作品なので、もし興味があれば、ぜひ一度ご覧あれ。
(あまり映画を見ない人は、同じ監督の「黒猫白猫」という映画の方が面白いかも)


追伸
24日付でメールをくださった方へ。
何を血迷ったか、24日付でいただいたメールを間違えて消してしまいました。
(なぜか迷惑メールのフォルダに入っていて、それを全部削除してしまったので、復活できないのです)
なので、申し訳ありませんが、24日付のメール、もしくは25日の朝までにメールをくださった方は、もう一度送信してください。タイトルは「石井光太へ」みたいな感じでお願いします。
なんか、普通のメールまで迷惑メールフォルダに入ってしまうことが多くて。。。
すみませんが、よろしくお願いいたします。


嫌われ松子の一生 通常版



アンダーグラウンド



黒猫白猫

拙著『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』(新潮社)についてのお知らせです。

書店での写真の展示が以下で行われています。

紀伊国屋本店(新宿駅)
八重洲ブックセンター(東京駅)

本に掲載していない写真などを含めて10点以上展示しています。
また、各店とも内容のことなるキャプションがついていますので、そちらも合わせてご覧ください。

今後も、「ジュンク堂本店(池袋)」「ジュンク堂新宿店(新宿)」などを初めとした都内の大型書店で続々と写真展示が行われます。

なお、「紀伊国屋本店(新宿)」「紀伊国屋南店(新宿)」「三省堂本店(神保町)」「丸善丸の内(東京)」にて、サイン本を各20冊ずつ販売しています。
(三省堂、丸善丸の内でも、写真の展示を予定しています)

期間や、サイン本の残り冊数については、各書店にお問い合わせ下さいますようお願いいたします。

みなさまのおかげで、書店での反応もよく、いろんな反響があります。
今後、雑誌や新聞などにて書評・インタビュー・グラビアなどが予定されています。随時、HPやブログにてご報告いたします。

ちなみに、いつも御贔屓にしていただいている『旅行人』の蔵前さんがコラムに本の感想を書いて下さっています。(9月20日付)
次号(12月発売)に「峠のすれ違い」という40枚ほどの作品を掲載する予定です。ご期待下さい。

今後ともよろしくお願いいたします


神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く

おかげ様で、本の販売がなかなか好調らしい。
本屋さんでサイン本などをつくっていると、かならず訊かれることがある。以下の三つだ。

ー,呂匹海惺圓のですか。
危険な目にあったのではないですか。
F本の娼婦をテーマにしないのですか。

もしかしたら、一番気になる点なのかな、とも思う。なので、ここで答えてしまおう。


ー,呂匹海悗いのですか

すでに頭のなかにはある。
ただ、やはり今回同様に半分ぐらいはアジア地域になるだろう。これは、単に予算と時間の問題なのである。

たとえば、アジアで半年かけて300万円で取材をしたとする。もし同じことをアフリカや南米でやれば、一年の時間と600万円以上の予算がかかる。
「言葉の問題」「安全性を確保するための手段」「航空チケットを含めた移動代」「日本人への親近感」など無数の要因がからみあって、期間もお金も倍以上かかるということになるのだ。

その期間のお金と書いた後の保障を誰かがしてくれるなら、どこへでも行くし、なんでもやる。
しかし現実はそうではない。
なので、予算や時間のことを考えれば、どうしても最低でも半分はアジアを入れなければならない。
それが、アジアを入れざるを得ない理由なのだ。


危険な目にあったのではないですか。

「あんまりないですね。僕は楽観主義ですから」と答えている。
けど、本当は、危険な目にあったことはある。
ただ、そういう話をすると「危険自慢」になってしまう。よくジャーナリストと名乗る人々が「遺書を書いて取材にいった」とか「死を覚悟した」なんていう話をしたり、書いたりしている。
結局ああいう話っていうのは「だから俺はすごいんだぜ〜」みたいな自慢話でしかない。非常にウザイ。みっともない。
なので、僕は訊かれる度に、適当に返答してごまかしているのだ。


F本の娼婦をテーマにしないのですか。

僕は、以前感染症の仕事をしていた。
そのため一日に何人もの風俗嬢と言われる人と顔を合わせていたことがある。
なので、そこらへんについては非常に詳しいし、やろうと思えばやれる自信がある。

しかし、逆に言えば、それがやらない理由でもある。

本の中には、テキト―な品物がたくさんある。
どうでもいいことを書きちらしてお金を儲けているのだ。
薄利の仕事であることを考えれば、そうしなければ食っていけないのも事実だろう。
事実、僕だって取材費を集めるためや、生活のために、ペンネームでいろんな仕事をしている。なかには、書き散らしているものだってたくさんある。

けど、僕は、ノンフィクションとして、そういうものを作りたくない。「作品」としてはやりたくないのだ。
「作品」として発表するなら、読んだ人の心の中に一生残るようなものを書きたい。それが叶わなくても、そうする姿勢だけは崩したくない。古い考えなのかもしれないけど、僕が目指しているのはそれだけだ。

そのためには「できると思うテーマ」に取り組んでも仕方ない。
「絶対に誰もやらないし、できないほど大きなテーマ」に全身全霊で立ち向かって、文字通り全財産と命をかけて格闘したい。

有態に言って、僕には才能の「さ」の字もない。「い」の字もない。
だから、それだけ自分を追いつめて、120%の能力を振りしぼらなければ、大手出版社が目をとめてくれるようなものは書けないし、人の心を動かすこともできない。
こて先の技術でモノを書けるほどの才能なんてないし、器用さも持ち合わせていないのだ。

『物乞う仏陀』のテーマは「アジアの障害者と物乞い」だった。
今回の『神の棄てた裸体』は「イスラームと難民と性」がテーマである。
両方とも、我ながら立ちくらみがしそうなほど大きなテーマで、つかみどころがない。
取材に行く前に、新聞記者や出版社の人に話をした時、一様に絶句されたのを覚えている。
けど、逆に言えば、「絶対に誰もやらないし、できないほど大きなテーマ」だからこそやったのだ。

もちろん、『仏陀』においても、『裸体』においても、テーマを描ききれたかと問われれば、否と答えるしかない。
しかし、ここにおいて、僕なりの方法論がある。

「どうせテーマが大きすぎてまとめきれないのならば、そのまとめきれない世界の多面性、複雑性、不条理を浮き彫りにし、そしてその前で格闘して、もだえ苦しんむ自分自身を克明に描けば、実はそのテーマを描いたことになるのではないか」

逆説的な方法論だ。とても危うい。
けど、これが巨大なテーマに立ち向かう僕なりの唯一の「武器」なのだ。
「武器」の使い方を誤ったら、一撃のもとにつぶされて、死んでしまう。現実的にも、比喩的にも。けど、僕にはその「武器」しかないのだから、駆使して死に物狂いで立ち向かう他にない。
そして、たぶん、ただ一つそこにこそ、僕の存在価値があると思っている。

話を最初にもどそう。

「なぜ、日本の売春をテーマにしないのか」

繰り返すが、僕には、このテーマを描ける自信があるからだ。
だから、それをやったところで、僕は120%の力を振りしぼれないし、僕の武器を使うことができない。
となると、そこに僕の存在価値がなくなる。

もちろん、パパッと書いて、数十万なり、数百万なりのお金を儲けることはできるだろう。
しかし、僕はまだ30歳だ。そんな若造が、今のうちからそんなことをして、いったい何の意味があるのだろう。
40歳、50歳になって、全身全霊で巨大なテーマに立ち向かう気力がなくなれば、それをやることもあるかもしれない。
しかし、今、一年も二年もかけてやることではない。

それが、答えである。

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