石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

新刊の発売のお知らせです。
このたび、新潮社より新しいノンフィクションが刊行されました。


■詳細
『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』
発売  新潮社
価格  1575円(税込)
種類  320項、単行本(書きおろし)
詳細  新潮社ホームページ参照
購入  アマゾンはこちらから


■プレスリリース用の紹介文
処女作にして大宅壮一ノンフィクション賞の候補作となった前作『物乞う仏陀』(文藝春秋刊)から約二年。 
28歳の著者は、半年以上にわたってイスラーム諸国を旅しました。日本ではなかなか情報を得る機会のないイスラーム教徒の性に興味を抱いたからです。彼らの性の営みはどのようなものなのか。宗教による抑圧とはどれほどのものなのか。そして、それは本当にあるのか。売春宿に住み、置屋で掃除夫として働き、ときにはバーテンダーになり、ヒジュラ(民俗舞踊を舞う男娼)と共に踊る。
ジャカルタ、クアラルンプール、カブール、アンマン、ベイルートといった大都市に足を運びつつ、古い慣習が強く残るバングラデシュやインドの山村、クルド人の国境の村、アフガニスタンの山中へも身を投じていく著者。売春、戦争、おきて、路上生活……その10カ国に及ぶ捨て身の取材は圧巻です。
ベールに包まれたイスラームの最奥に踏み込むべく、ともに暮らし、ともに味わい、ともに笑う。そして、頭ではなく腹で書く。読み手はいつしか著者と共に、その渦に引き込まれていくことでしょう。新鮮な距離感が心地よい、辺境の暗部を描いた未踏の体験的ノンフィクションです。次世代の書き手の躍動を感じていただければ嬉しい限りです。



本書をご高覧の上、ご高評いただけましたら、ご友人様等にご紹介いただければ幸いです。
また、御感想等も随時お待ちしています(メールにてお願い致します)。

今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。


■追記
八重洲ブックセンター(2F)、紀伊国屋本店(1F新刊コーナー)にて、18日より取材旅行の未公開写真の展示を行っています。HPにも公開していない写真も含まれていますので、興味のある方はご覧下さい。
また、新宿紀伊国屋の南店でサイン本を販売しています。今後、本店などでも販売する予定です。詳細は書店にお問い合わせ下さいませ。

神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く

ホームページを全面的に更新いたしました。
新刊『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』(新潮社)の内容を盛り込んだものとなっています。

『神の棄てた裸体』は、正式には9月18日の発売です。
個人的には、拙著を読んでからHPの新しいページを参照していただければ、いろんな意味で有意義かと思います。

ちなみに、書店によっては、15日あたりから発売しているところもあります。
連休ということもあり、日数に若干ズレが生じますが、基本的には18日発売とお考えください。
インターネット販売に関しては、アマゾンなどはまだですが、紀伊国屋新潮社のHPで購入することができます。
もし宜しければ、ご覧下さい。

本の内容などについてのお知らせは、18日に改めて行います。

なお、HPは全面更新したこともあり、色々と誤字脱字などもあるかと思います。
(時間がなく、ほとんどチェックしていません→笑)
もしお気づきの点がございましたら、メールにて教えていただければと存じます。

今後も宜しくお願い致します。

去年の日本映画で一番面白いと思ったのが『ハチミツとクローバー』だ。
美大生の男三人と女二人が三角関係を繰り広げる、青春恋愛映画である。漫画が原作なので、キャラクターに特徴があって、とても印象に残る。

「お前がこんな映画を観るなんて」と言われるかもしれない。
しかし、僕はそもそもラブコメが大好きなのだ。ラブコメの古典的名作『アパートの鍵貸します』なんて何十回観たか知れない。
むかし、ある小説家に、「石井君は、ドロドロの現実を描くくせに、意外にロマンチストだよね」と言われたことがある。
たしかに、そうかもしれない。どこかに、そういうものを見出そうとしていることは事実だ。

とまれ、僕はこの映画の主人公と同じく、芸術系の大学に通っていた。
物心ついた時から映像をやりたいと思っていた。けど、中学か高校ぐらいで濫読している時に、文章を書くということに魅力を感じた。それで、芸術系の大学へ入ったのだ。

しかし、大学へはまったくと言っていいほど行かなかった。
いや、厳密にいえば、図書館だけに行った。本を借りて授業には出ずに帰った。授業に出たのは二週間に一度ぐらいだと思う。学期中に何週間も海外へいったりしていたから、実質的にはもっと少ないだろう。

なので、映画の主人公のように、大学で恋愛ドラマを繰り広げた記憶がない。
それでも、大学四年間(厳密には、一年休学しているので五年)で、同じ大学の女性数人と付き合ったことがある。
『ハチミツとクローバー』では、学生たちが、お互いに創作意欲を刺激し合い、支え合い、作品をつくったり、スランプになったり、成功したりする。
けど、現実的には、これはとてもありえないと思う。そもそも、同じことをやっている人同士が一緒にいてうまくいくはずがない。

モノづくりというのは、人のやっていることを全面否定するものだと思っている。
人のやっていることを100パーセント否定して、まったく白紙にしたところで、モノをつくりあげる。あるいは、反ソレとして、モノをつくっていく。そういう作業だと思っている。だから、「創造」であり、「独創的」なのだ。それができなければ、ただの「マネ」になってしまう。
絵でも、写真でも、なんでもそうだけど、モノづくりをしたいと思っている人は、心のどこかで他のものを否定する精神があると思う。

そういう意味では、もし恋人が同じことをやっていれば、それを否定することになる。
事実、僕も当時付き合っていた人が文章を書いていた。しかも、むちゃくちゃ上手い。色んな賞までもらっていた。(それでも芸術の壁は高いのか、今は大手出版社に勤めている)
こうなると、面白くない。全然面白くない。「よかったね〜」「じょうずだね〜」なんていうけど、心の底では全面否定してる。しまいには、相手の人格まで否定しようとする。

もちろん、こんなんで恋愛関係がうまくいくはずがない。ありえない。

その後、ジャズをやっているボーカリストと付き合った時もそうだった。
文章ではなく、音楽なのに、とにかく敵対心を抱いてしまう。こんちくしょう、と思う。彼女が歌をうたっていれば、僕はそれを聴きながら「そうじゃない、俺だったらこうする」と思ってしまう。そうなると、いつかボロがでる。うまくいくはずがない。

芸術系の大学にいて、あるいはモノづくりをしている人といて学んだのは、そのことだ。
恋人には、絶対になれない。

ただ、悪いことばかりではない。
恋人関係は最悪だが、友人関係は最高である。
芸術系の大学へ行くと、良い友人にも恵まれる。一学年に数人その道に進む人がいる。写真家とか、画家とか、そういう職業につく人がいるのだ。こういう人と青春時代を一緒に過ごせるのは幸せだ。

僕の友達でも、ひとり映画監督になった人がいる。
先日その友人から近状報告を受けた。来年の3月に、伊坂幸太郎原作の『死神の精度』の映画版を全国公開するそうだ。なんと、ハリウッドのワーナーブラザーズの配給である。
彼とは大学一年の時に知り合い、『アパートの鍵貸します』の話で盛り上がり、一緒に同人誌を創刊したことがある。同人誌では、僕がノンフィクションを書いて、彼が漫画を描いていた(彼は漫画家でもあり、メジャー誌でも描いている。映画の原作にもなった)。

僕も本名でやるノンフィクションは今回で二冊目。彼も映画監督としてやる仕事は二本目だ。
がんばってるなーと思うと同時に、がんばんなきゃなー、とも思う。
そう思えるのは、幸せである。

ハチミツとクローバー ~恋に落ちた瞬間~

今日、八重洲ブックセンターが新しい本の発売に合せて、写真の展示をしてくれるとのことだったので挨拶に行ってきた。
出版社の人たちが写真のほかに、キャプションやプロフィールのパネルも用意してくれた。

そのなかに、「平成の深夜特急」というような言葉があった。
「深夜特急」とは言わずも知れた沢木耕太郎さんの本である。
拙い本が、沢木さんの本にたとえられるのは恐縮だ。面目ない気持ちすらある。

たぶん、「旅行」という手段で世界や自分を見るという方法からそうなったのだろう。あと、描写中心の書き方もあるのかな。(名前は関係ないだろう)

ただ、以前、某新聞社の編集者と会った時に、こんなことを言われたことがある。
「沢木さんが目を留めないところに目をとめている。そういう意味では、全然ちがうよね」

僕もそう思う。
たぶん、見るモノも、見る方法も、感性も、全然違うと思う。

正直なことをいうと、僕は「深夜特急」は文庫版で二巻までしか読んでいない。
とても面白いと思った。あんな本は二度とでてこないだろうとも思う。ただ、僕の見たいモノではなかった。だから、二巻までしか読まなかったのだ。

ちなみに、高橋源一郎さんが岩波新書から出している「一億三千万人のための小説教室」小説作法の本に、小説家のDNAについて書いてある。
小説家には、モデルとすべき「親」のような存在の作家あるいは作品があるらしい。
みんな最初はそのモデルとなる「親」の作品を読みまくって、真似しまくる。それをしつづけると、自分の中でドロドロに要素がとけて、DNAとなる。そのDNAによって小説は書かれるのだ、と。

僕は小説家じゃない。けど、もしDNAというのがあるとして、三人あげろといわれたら、たぶん大江健三郎さんと辺見庸さんと谷崎潤一郎(あるいは、開高健、あるいは宮本常一)になると思う。
ベターだけど、正直なところだ。「芽むしり、仔撃ち」や「もの食う人びと」や「春琴抄」(あるいは「夏の闇」「忘れられた日本人」)。これらの本を、丸々模写したこともある。代表作など、それぞれ300回以上読んでいる。十年以上、机の上に置いて数日に一度は開いている。なので、一言一句頭に入っている。
そこらへんを考えると、たぶん、沢木さんのDNAが入っているということはないと思う。

けど、「深夜特急」で一つだけ思いでがある。

たしか一巻だったと思う。
沢木さんがマカオのカジノにいったところ、「あたり」を教えてくれる人間がいたという話があった。
ルーレットゲームを想像してもらいたい。マカオでは、ルーレットではなく、三つのサイコロで行う。その「目」の合計が「あたり」になるのだ。
「深夜特急」には、その「目」をこっそりと教えてくれる人がいると書かれていた。

本を読んだ時、僕はまったく信用していなかった。
もしいたとしても、昔の話だろうぐらいにしか思わなかった。
(そもそも、沢木さんっていうのは、僕の親父と同じ年代である)

大学二年の時、返還前のマカオへ行った。
普段、僕は一切賭け事はしない。パチンコはもちろん、麻雀などルールすら知らない。
ただ、このときは「記念」にちょっとやってみた。
ちょうどサイコロの賭け事をやっていた時のことだ、突然見知らぬ男が現れて、横でぼそっと「××だよ」と教えてくれた。

その時、ふと「深夜特急」のワンシーンを思い出した。
きっと、こいつが「あたり」を教えてくれる男に違いない! で、賭けてみた。
結果は大当たりである。その後、その男の言葉に従って15連続ぐらいで大当たりがでた。

だが、本には「あたりを連発させて、最後の最後で違う目を教えて破産させる」と書いてあった。
なので、僕はそれを予期して、適当にもうけたところで、「勝ち抜け」した。

詳しくは覚えていないが、一晩で数十万円を稼いだ。
このおかげで、予定の倍ぐらいの旅行ができた。

これが、僕にとっての「深夜特急」の思い出ある。


追伸
ちなみに、沢木さんの本が嫌いということではない。
「壇」なんかすごく面白いと思うし、エッセーは全部読んだ。
ただ、なんだかしらないけど、海外を見る目という意味で「深夜特急」が僕には合わなかったというだけだ。それも18歳ぐらいの時の話。

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)
一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

先日、『退化する若者たち―歯が予言する日本人の崩壊』(PHP新書)という本を読んだ。
ここ数十年の間に日本人の歯並びがどう「退化」し、それによってどんな弊害が生じているのかということを書いた本だ。

近年歯並びが悪くなって、それに伴って骨格がおかしくなるということはよく言われている。
僕自身、これ以外でも、似たような本を何冊か読んだことがある。

ただ、そんななかでも面白い一説があった。
現代のイケメン、とか、美女といわれている顔が、「退化」した顔だというものだ。
いわゆる「モデル体型」とかそういったものが、進化によるものではなく、退化によるものだというとらえ方である。

これでふと思い出したことがある。
ミャマーの友人と話をしていた時、こんなことをいわれた。
「ミャンマー人は、お尻の大きい女に憧れる。それが一番だ。ちゃんと子供を生んでくれると思うから」

僕は納得できた。
個人的に、女性の痩せ身や、胸の大きさなどはどうでもいいと思っている。
逆に、昔から、なんとなくお尻の大きい古典的な体系の女性が「健康美人」と思って、憧れていた。
なんつーか、明治時代の女性みたいな体型である(別にケツ・フェチとかではない)。

しかし、このような意見は少数派だと思われる。
少なくとも、女性などは「小さな尻」に憧れるし、小顔をうらやましいと思う。
男だってそうかもしれない。モデル体型のような女性を美人だと考える人も多いだろう。

そう考えると、ミャンマー人や僕は「退化前の健康美」にあこがれ、現代日本の人々は「退化後の不健康美」にあこがれるということになるのだろうか。

なぜ、こんなことを書いているのかといえば、先日「どんな女性が好きか」といわれて、「健康美人」をあげたところ、「変」といわれたからだ。

僕にとってみれば、「健康的」なのを美人と思って何が悪いのかと思う。
逆に、他の人は「退化体型」のどこに憧れているのだろうか。

まったくもってわからん。


退化する若者たち―歯が予言する日本人の崩壊 (PHP新書)

新しい本の発売が、あと一週間に迫ってきた。
新潮社で、POPをつくったり、パネルをつくったりしてくれている。書店や展示会に置くものだ。
昨日、それがドサッと届いて、片っぱしから「サイン」をするようにと頼まれた。

サイン……。
これが、実に、困る。

そもそも、僕はサインとかいうのが苦手である。

まず、僕は字がとても汚い。
人様に見せられたものではない。小学生の字である。
むかし、塾の先生をしていたことがあったが、小学生から毎日のように馬鹿にされていたほどだ。
英語ならごまかしがきく。なので、「kota ishii」とやってやろうと思ったが、本のサインで英語を書くなんて聞いたことがない。
日本語で文章を書いているんだから、日本語で書くのが当然だ。
なので、仕方なく、日本語で書くのだが、自分の恥部を見られたように恥ずかしい。

また、そもそも、サインをするということ自体が苦手だ。
僕は、ただの30男だ。アイドルでも、スポーツ選手でも、役者でもない。
にもかかわらず、「サイン」をするということが、なんか「勘違いした阿呆」のようで恥ずかしくてならない。

案の定そんな邪念だらけで書いていたら、ひどいことになった。
油性のペンで書いているのに字を間違えて、写真そのものをハサミで切ってごまかすわ、塗料が乾かず別の写真に貼りついてしまうわ……もう散々である。
やはり、ああいうものは、やる気に満ちて、気合入れてやらなければならないものなのだろう。
僕のように、うだうだと恥ずかしがったり、自嘲したりしていては、うまくいかないものなのだ。

ともあれ、とりあえずは完了。
本の発売後、紀伊国屋の本店や、八重洲ブックセンターにて展示される予定だ。
日程が決まったら、こちらで報告するので、ついでがあれば立ち寄っていただければ嬉しい。

ちなみに、先月も少し書いたが、もし写真の展示などできるスペースをもっている方がいたら教えてほしい。
新潮社で焼いた大きな写真もあれば、パネルもある。もちろん、小さな写真もある。
展示、ギャラリー、グラビアなんでもOK(笑)。
なので、どこかにツテがある方は、メールで御連絡ください。
僕の汚いサインの入っていないものの方がよければ、そちらを用意しますので(笑)。


先日、なぜかメンズエステを経営する女性と話をする機会があった。
(僕がエステのサービスを受けたわけではない)

メンズエステに通う男性ってどういう人なんだろうと思った。
で、訊いてみた。

すると、その女性いわく、意外に40代以降が多いとのこと。
しかも、希望するサービスが年代によって全然違うのだとか。

10代後半〜20代半ば 美顔サービス
20弟半ば〜30代半ば 脱毛サービス
30代半ば〜40代   痩身サービス

10代、20代というのは、たしかに「イケメン」に憧れる。
それぐらいの年代の女性にしても、「イケメン」男性をいいと思うだろう。
それを考えると、このぐらいの年代の男性がエステで「美顔」サービスを受けようと思うのも当然だ。

また、30代に脱毛サービスを受けるのはコンプレックスが理由らしい。
男はもてないと、体のどこかに原因があると考えるらしい。その代表格が「毛」なのだ。
ヒゲが濃いから、胸毛が生えているから、女性にもてないのだ。
そう考えて、一念発起して、メンズエステへ赴いて、永久脱毛を試みるらしい。
(ちなみに、股間部の脱毛希望者もかなりいるそうだ。胸毛より多いという)

そして、40代。
こちらは、老化が気になる年頃だ。あるいは、メタボ。
ゆえに、たるんだ体を治そうとして、メンズエステに駆け込むらしい。

かといえば、変に贅沢な悩みを持っている男もいるそうだ。
『ブラック・ジャックになりたくて―形成外科医26の物語』という本の中には、イケメン男が顔を不細工にしてくれと依頼しにきたという話がある。
その男性はイケメンであるがゆえに仕事上でも、プライベートでも誰からも信頼されない。ゆえに、不細工な顔になりたいらしい。

悲しいかな、男性心理。

ちなみに、僕は外見について、まったく興味がない。
本当にどうでもいいと思っている。だから、服装になんかもまったく関心がない。そもそも、日本男児がそんなところに脳みそをつかってどうするんだと思う。

男は内面だろ、と思う。

ただ、周囲の反応は、どうも違う。憐れまれる。
で、みんな、お土産だ〜、誕生日プレゼントだ〜、と言って色んなものをくれる。ありがたいことだ。

しかし、考えてみれば、これも、切ない。
悲しいかな、オレ。。。

ブラック・ジャックになりたくて―形成外科医26の物語 (生活人新書)

僕の回りには、文章が上手な人がたくさんいる。
よくぞそんなに上手に書けたものだと関心してしまうほどだ。

昔から、僕はとても文章が下手だ。
ほんの少しは上達したかもしれないけど、今もかなり下手だと自分で思っている。

ただ、言い訳じゃないけど、文章が上手だからって、その人の書くものが面白いとは限らない。
文章を書くというのは、そもそもかけて当たり前という前提がある。その上で、その他の要素がどれぐらいあるか、ということが作品の良し悪しになってくる。

では、その他というのは一体何なのか。
これは膨大にある。「視点」もあれば、「知識」もあるし、「耳の鋭さ」もあるし、「舌の良さ」もある。しかもどれか一つが秀でているのではなく、これらが複数にわたって秀でている必要がある。
小説でも、ノンフィクションでも、エッセーでも、面白いものには、かならず上記のものすべてが当てはまるし、それ以外にも様々な要素を持っている。

そうはいっても、「その他」の中でも、「さらに抜きに出たもの」というのも必要だ。
それが、作者を作者たらしめる最大の要素であり、魅力なのだから。そして、この「さらに抜きに出たもの」というのは技術ではない。これこそが、<才能>だと思っている。

先日、たまたまある人と漫画の話をしていた。
漫画の原作をやっているといったところ、「最近映画で漫画が原作になっているものが多いですね、何か面白いものありますか」といわれた。
前にも書いたように、僕はあまり漫画を読まない。だが、ふと思いついたものがあった。一年ほど前、キネマ旬報に勤める後輩に、「面白い漫画があります。今度映画化されるんですよ」といわれた貸してもらったものだ。それが下記である。

自虐の詩 (上)


これは、面白かった。本当に、面白かった。
パッと見て、上手な絵ではない。物語も、基本的には四コマ漫画で、荒くれ旦那が、幸の薄い妻と喧嘩してひたすらちゃぶ台をひっくり返すだけだ。
こう書くと、何が面白いのか、と疑問に思われるだろう。

何が魅力なのか。

登場人物を描く目がとにかくやさしいのだ。
いや、人間に対する眼差しが、こちらが恥ずかしくなるぐらいやさしいのである。
だからこそ、ダメ男、ダメ女をひたすら書いているだけなのに、思わずほろりとさせられるのだ。

僕は、これこそが、作者がもっている「才能」だと思う。

10年ぐらい前に売れた、AV女優 (文春文庫)
を書いた永沢光雄も同じだ。
あの後、たくさんそれに類した本がでた。雑誌の記事にもなった。その中には超有名な作家もいた。
けど、絶対にあの本のような魅力は出せない。それは、あの本の面白さが題材にあるのではなく、作者のやさしさにあるためだ。それをもたない人間がいくら上手な文章で書いても、魅力的な本にはならない。
真似して書いた人たちは、そんなことにも気付かないで読んでいたのだろうか。

この前、『自虐の詩』を貸してくれた後輩と会ったら、映画版がもうすぐ上映されるのだとか。
原作にあるにじみ出るような人間に対するやさしい視点が少しでも映画に反映されていたら見てみたいと思う。

しかし、あれが漫画だからいいけど、本だったら確実に、嫉妬、するね。

昨日、両性具有の漫画を紹介した後、ふと面白い話を思い出した。
野村進さんの『脳の欲望 死なない身体―医学は神を超えるか』だったかと思うが、性転換手術をした女性にインタビューをした記事が載っていた。
その中に、おおよそこんなことが書いてあった。

<性転換手術をし、ホルモンをうつことによって性別を変えることがある。その時、女性から男性に変わると、性感帯が薄れていく。女性の時は全身性感帯だったのに、男性に変わっていくにつれて全身が「ゴム」のように何も感じなくなっていく>

これを読んだ時、二つの点で驚いた。
ホルモンを打つことで、性感帯までも変わるということ。
もう一つが、男性と女性とでは「皮膚がゴムになる」ほど違うのかということだ。

いつだったか、脳神経を専門にしている友達の医者にそんなことを話した。
すると、「神経」は男も女もたいして違いはないらしい。
上半身だったら上半身だけで拠点となる神経がいくつかある。
たとえば、腕を触られて感じる場合は、上から二番目か、三番目ぐらいの神経にそれがつたわって痛みなどを感じるという。
「感じる」ということにしても、理屈は同じなのだろうが、それが脳に伝わった時の「処理」の仕方が違うのだろうとのこと。
どう「処理」されるかによって、快感になるのか、くすぐったいになるのか、痛みになるのかに分けられるのだ。

しかし、それを聞くと、ますますホルモンというものが不思議に思える。
ホルモンを投与することで、脳の「処理」の仕方まで変わってしまうということになるのだから。

ともあれ、最近上記に紹介した医者と仲良くなったので、その人の論文を初めとして、色々と脳神経について勉強している。
数カ月前に、別の知り合いの医者にそれを話したところ「一番わけのわからない所っすねー。治らないし、やりがいもないし」と言われてしまった。
けど、僕にとっては、とても面白い分野だ。「わけがわからない」し、「治らない」から面白いのだ。逆に、わかったり、治ったりするようなものには、何の魅力も感じない。

まぁ、治そうとする側の人間と、ミステリアスなものに対して想像力をふくらますことを楽みとする人間とでは、まったく立場が違うのだけれど。

脳の欲望 死なない身体―医学は神を超えるか (講談社プラスアルファ文庫)

僕は漫画の原作の仕事をしているけど、あまり漫画を読まない。
読む方か、読まない方かと問われれば、読まない部類に入ると思う。
中学生ぐらいまではちょっと読んでいたけど、高校以降はまったく読まなくなった。大学に入って間もなく、同級生に紹介されてちょこちょこ読んだものの、またすぐに手に取らなくなった。
嫌いというわけではない。単純に、本に時間をとられて、漫画を読む余裕がないだけだ。

ただ、今は仕事としてやっているので、たまに読まざるを得なくなる時もある。
先日、ある漫画の原作を依頼されて「参考に」ということで、編集者からある漫画を送ってもらった『性別が、ない!』(新井祥)とういう本だ。
作者は、いわゆる両性具有。で、元風俗嬢。ところが、成人してから突然男性化がはじまり、病院で検査してもらったところ病気に気がつく。それで、意を決して、男性へと性転換(?)した。そんな人が、自分の性生活を面白おかしく漫画にしているのである。

漫画を読んでいて、あるいは漫画の原作を書いていて「いいな」と思うことがある。
それは、漫画にしか出せないユーモアというものがあるためだ。あるいは、漫画でしかできない描き方があるためである。

漫画と文章では、そもそも読者の前提が違う。

たとえば、ユーモアが通じるか通じないかということがある。
先述の『性別が、ない!』には、男性になった主人公がホストクラブで働き、そこでホストの男性の「美」に心を奪われるなんていうシーンが面白おかしく書いてある。男性であるはずの作者の中に残る女性の心がそうさせているのだろう。
しかし、これを文章でやったとする。小説でも、エッセーでもいい。ちゃかすように面白おかしく書いたとする。
残念ながら、これは、ナカナカ「作品」にはなりにくい。漫画ではユーモアになる部分が、文章にすると、シリアスな問題か、笑えないジョークになってしまうことがあるのだ。
(そのギリギリの路線で文章を書いている人もいるけど)

もう一つ。
漫画の場合、話を大袈裟にしても問題ない。
たとえば、ある事件が起きたとする。漫画であれば、その事件を描くときでも、様々なフィクションを入れて、テーマを大きくすることができる。
しかし、文章でやると、厳密な意味で「ノンフィクション性」が求められたり、「フィクションはフィクションなりに取材対象の名誉を重んじる」ということが言われたりする。もちろん、漫画でもそれはあるけど、漫画の方がずっと敷居が低い。
そう考えると、漫画という媒体においては、曖昧なことを膨らませて、話をつくていくことが許される。ゆえに、作り手としては、文章よりも、いろんな意味でアプローチの仕方が多いといえるのだ。

もちろん、映画にしても、演劇にしても、小説にしても、漫画にしても、そしてノンフィクションにしても、様々な方法論の違いがある。
演劇などはものすごく表現の方法が限られる。小説はそれに比べればずっと多い。漫画はもっと多いかもしれない。
ただ、多ければ多いほどいいというわけではない。
選択肢が少ないからこそいいという人だっているだろう。あるいは、多いからやりがいがあるという人だっている。
結局は、その人に何があっているか、という話になってしまう。

ただ、異業種でものをつくるという楽しみというのもある。
ずっと文章を書いている中で、ふと漫画の仕事をしたりすると、頭の切り替えにもなるし、とても楽しい。漫画でしかできないことを思う存分やりたいと思ったりもする。肩の力が抜けているから意外に次から次にアイディアが浮かんだりすることもある。
そういう意味では、末永く、いろんなことをやりたいな、と思う。

性別が、ない!

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