石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

今日は、震災から三年目です。

改めて謹んで哀悼の意を表します。

いまの私の気持ちは、先日新潮社から文庫として出した『遺体』の「文庫版あとがき」に書きました。
以下にそれを転載することで、三年目の思いを表したいと思います。


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あの日から、三年が過ぎようとしている。

東日本大震災が起きて間もなく釜石の地に着いたとき、私は三年後の釜石を想像することができなかった。
あまりに凄惨な現実に圧倒され、目の前にある光景以外のものを思い浮かべる力が木端微塵に砕け散ってしまっていたのである。
異臭と寒さと瓦礫が私にとっての被災地すべてだった。

本書の執筆は、そんな私にとって祈りともいうべき作業だった。
壊滅した町にあっても、生き残った人々は遺体を捜索し、搬送し、検案し、なんとか人間の尊厳を保ったまま家族のもとへ送り返そうとしていた。
私にはそうした行為が真っ暗な闇に灯る、一つの小さな光のように思えた。
この光が少しずつ大きくなっていけば、釜石が再び歩み出す力となりえるのではないか、いや、どうかなってほしい。
そんなふうに自分に言い聞かせながら、人々とともに過ごし、話を聞き、書き綴っていったのが本書なのである。

最近、三年が経とうとして釜石がどうなっているかとよく尋ねられる。
だが、これはあまりに大きく重要な話であり、あとがきのような限られた場所で書けることではないし、書くべきことでもない。
もし述べようとするなら、もっと長い年月のなかでしっかりと一冊の本としてまとめるべきことだ。
従って、今この場で私が記せるのは、本書の登場人物たちが三年を経た今どうしているかということだろう。



遺体安置所の管理を市長に申し出た千葉淳。

彼は今なお釜石市内に民生委員として地域の高齢者のために活躍する傍ら、葬儀会社の釜石支部を設立して亡き人のために働いている。
きっかけは、震災の後にある葬儀会社の代表者が遺体安置所での千葉の活動に目を止めたことだった。
千葉なら誠意をもって遺体を扱ってくれるはずだと考え、知人を介して依頼してきたそうだ。

千葉は、遺体安置所での悲惨な記憶がまだ鮮明に残っていたが、年をとっても釜石の力になれるのなら、と思って引き受けたという。
業務内容は、病院で亡くなったり、自室で孤独死したご遺体を清め、専用の車で葬儀社へ搬送することである。
この仕事をする一方で、遺体安置所で一緒に働いた鎌田葬祭会館から依頼を受けて、納棺の手伝いをすることもある。遺体の死後硬直をほぐし、仏衣を着せ、棺に納める仕事だ。

私自身何度かそれにも立ち会った。
彼はスーツ姿で遺体の硬直した手足をさすりながら、安置所でしていた時と同じように語りかけていた。
その穏やかで優しい口調は三年前のままだった。



遺体搬送班として尽力した松岡公浩。

震災前は生涯学習スポーツ課で国体関係の業務についていたが、二〇一一年の夏に遺体搬送の任務を終えた後、町の復興計画の任に当たることとなった。

釜石では、震災後犠牲者が多数に上ったのは市の責任だとする声が上がっていた。
実際に、釜石市鵜住居地区防災センターでは、市の職員が津波避難所ではなかったこの場所に住民を誘導したことで百名以上にのぼる死者が出ていた。マスコミもそれを重ねて批判的に報じた。

私にしても、松岡にしても、同じことが二度と起こらぬように十分な議論がなされるべきだという点では一致している。
ただ、私がこの話をふった際、松岡が声をふり絞るようにして次のようにつぶやいたのが印象に残っている。

「あれは大変な出来事でした。ただね、大勢の市民と同時に市の職員だって亡くなったんです。あそこへ避難した人は、誰一人として死にたくて行ったんじゃない。それは誘導した市の職員も同じなんです。助かろう、助けようとしてあのときの精一杯の判断であそこへ行ったんです」

彼には、市の職員として運命の糸が少しでも違っていれば、自分があの場にいたかもしれないということが痛いほどわかっている。
だからこそ、彼は凍えるような寒さのなかトラックに乗って遺体の搬送業務を、ただ一人最初から最後までやり遂げたのだろう。



検案を行った医師の小泉嘉明。

二〇一一年の四月からは、県外から支援にやってきた大学の医学部チームに検案を頼み、小泉は地域医療に専念することとなった。

チームは六月には任務を終えてそれぞれの大学等へ帰っていったが、夏以降も月に数体の遺体が発見された。
被災した釜石警察署は旧二中のグラウンドに移され、体育館が再び検案の場所として使用されることとなった。
小泉は医院で働く傍ら、遺体が見つかる度にそこへ赴いては検案を行った。

震災から半年以上経ち、家屋の取り壊し工事の際に瓦礫の下から見つかるのは、ほとんどが手足や頭部だけといった部分遺体だった。
それでも小泉は傷んだ遺体を前にして、「見つかってよかったな」と思ったそうだ。どんな形であれ、家族のもとに帰れることが1番なのだ。
現在に至るまで、小泉一人で約三百もの死体検案書を作成している。

二〇一三年、こうした功績が認められたこともあり、第二十回ノバルティス地域医療賞が小泉に授与された。



歯科医師として歯科所見を任された鈴木勝。

中妻町にある鈴木歯科医院では、今一人の女性が働いている。
津波の犠牲になった親友佐々木信彦の妻である。勝は信彦に代わって、できるかぎり家族の力になりたいと考えたそうだ。
二人の娘のことも気にかけ、よく食事に呼んだりしている。

私自身、信彦の娘二人とは何度か会食をした。
次女桃子は市内の保育所で働く二十代半ばの女性だ。ある日、勝と彼女と3人で会食をしていた時、彼女がこんなことを言っていた。

「勝先生は、死んでしまったお父さんの代わりだと思っています。だから、私が結婚しようと思う男性が現われたら、お父さんの代わりに会ってもらうって決めています。勝先生が『この人で大丈夫』って言ってくれたら結婚するんです」

勝はそれを聞いて照れ臭そうに、「俺はノブ(信彦)より厳しいぞ」と笑った。嬉しいと思うのと同時に、背筋を正される気持ちだったにちがいない。

二〇一三年の父の日、桃子は姉の春奈とともに勝に花を贈った。オレンジや、白や、ピンクの美しい花だった。



歯科助手として勝とともに歯科所見の作業をした大谷貴子。

震災の後、彼女は当時交際していた男性と再婚し、相手の実家である遠野市へと引っ越した。
鈴木歯科医院は退職したものの、実家のある釜石へは時折帰ってきており、勝と食事をすることもあるそうだ。

二〇一三年一月、彼女は夫との間に一児を産んだ。二千七百八十二グラムの元気な男の子だった。



旧二中の体育館に、祖母によって運ばれた赤ん坊、雄飛君。

安置所に置かれていた際、遺体には職員の誰かによって〈生後100日〉と記されていたが、実際はわずか五十四日だった。
本書の単行本を刊行した直後、父親から連絡をいただいた。刊行当初は雄飛君の名前を仮名にしていたが、父親と何度も話し合った結果、「雄飛が生まれてきたことが記録に残るなら」ということで、5刷から本名に訂正した。

父親は雄飛君の火葬以来、千葉に感謝の言葉をつたえたいと思っていたそうだが、名前も連絡先もわからなかった。
そこで一年が経とうとする二〇一二年の一月、釜石のホテルで私が千葉を紹介した。
父親は妻とともに千葉と再会した瞬間に大粒の涙を流し、彼の手を握りしめて言った。

「あのとき、雄飛のことを本当にありがとうございました。声をかけてくださって、本当にありがとうございました」

千葉もあふれる涙をぬぐって「お父さんも、お母さんも、よく頑張ったね」といたわっていた。

一週間ほどして、千葉は雄飛君の実家を訪ねた。
雄飛君が迎えられなかった1歳の誕生日に、線香を上げに行ったのである。
ご両親からは、千葉さんが来てくださった、という喜びの連絡が私のもとにあった。



釜石仏教会を設立した仙寿院の芝 恵應。

仙寿院の本堂の裏には、今でも棚があり、そこに震災で犠牲になった人々の骨壺が安置されている。
名前がわかっている遺骨は少ない。大半が腕だけなどの部分遺体であったり、未だに遺骨が発見されておらず、骨壺に遺族が遺品を入れているだけのものであったりする。
惠應は毎日棚を訪れては手を合わせている。

震災から一年と少しが経った七月、北上に暮すお年寄りが手作りの小さなお地蔵さんのぬいぐるみを贈ってくれたそうだ。
八十体ほどあり、手縫いでそれぞれ表情が違う。
このぬいぐるみを骨壺の前に飾ったところ、訪れた遺族が「これは死んだ息子に似ている」とか「行方不明の母に似ている」と言いだした。
故人を小さなぬいぐるみに投影したのだろう。惠應はぬいぐるみを箱に入れて自由に持って行ってもらえるようにした。
遺族はそれぞれ故人に似ていると思うものを捜し出して家に持ち帰ったという。

惠應は次のように語る。

「いまでも、寺には市内外の方がお参りに来てくださいます。月日が経っても、震災のことを憶えていてそうしてくださる方がいるのは嬉しいことです。亡くなった方やご遺族は喜んでくれると思います」



あとがきを執筆している今は震災から三年が経とうとしているが、この先五年、十年、二十年などあっという間に過ぎていくにちがいない。
それが時の流れというものだし、そうすることによって人間は一歩一歩前に進んでいくものだ。

ただ、読者の皆様には、二〇一一年の三月十一日に起きた出来事をどうか記憶の片隅にとどめていただけたらと願う。生きたいと思いながらも歯を食いしばって亡くなっていった人々がいたこと、遺体安置所で必死になって働いて町を支えようとした人々がいたこと、そして生き残った人々が今なお遺族の心や生活を支えていること。
それらを記憶することが、これからの釜石、東北の被災地、そして日本を支えるものになるはずだと確信するからだ。

最後に改めて、震災で亡くなられたすべての方々のご冥福と、釜石の未来への歩みを心からお祈り申し上げます。




『遺体』が新潮文庫として発売されました。

2011年の秋に出した単行本の文庫版です。
文庫版では、「文庫版あとがき」として、登場人物たちのその後についても少しふれました。

震災から三年が経ちます。
時の流れとともに、震災の受け止め方も変わっていくでしょう。
しかし、あの時、震災の悲しみが集まった場所≪遺体安置所≫で、どれだけ多くの人々が何を見て、何を思い、そして職員たちはどういうふうに働いていたのかということを、今もう一度見つめていただければ嬉しいです。

なお、『遺体』の続編とも言うべき『「遺体」それからの物語』は、電子書籍での販売になります。
アプリをダウンロードしていただければ、スマートフォンでも読めますので、「釜石の震災後」の記録も併せてお読みいただければ嬉しいです。

朝日カルチャーセンター二月講座のお知らせです。
二月一日、十五日と、二コマ×二日間で「ノンフィクションの作り方」の講座を行います。
以下が概要になります。
文章だけに限らず、写真や映像、そして出版全体に通じる話をしますので、ご興味のある方はご参加下さい。


■講座要旨
世界の現実を切り取り、作品化された書籍を「ノンフィクション」と呼びます。
どのように現実を切り取ればいいのか、事実の奥にある真実を見つける方法とは何か、いかにして取材が行なわれているのか、取材した材料をどのように作品化するべきなのか、作品はいかにして発表されるのか。
ノンフィクションの発想から取材法、そして発表までの方法を事細かに説明します。
本講座は、ノンフィクションを中心に話を展開しますが、新聞やテレビといったマスメディアのジャーナリズム、写真家のフォトジャーナリズム、テレビにおけるドキュメンタリーとも通底するものがあります。学生から社会人までが、広い意味で「メディア報道とは何か」を考え、最後に自分のテーマを持ち帰る内容にします。(講師・記)

■2月1日の内容
・ノンフィクションとは何か
ノンフィクション、ジャーナリズム、ドキュメンタリーの方法論。メディアごとの特徴。作品発表の仕方。業界の現状。
・取材の方法
日本、海外における取材の方法。どのように人にアプローチし、話を聞き、作品にしていくか。取材費の問題。
 
■2月15日の内容
・テーマと作り方
テーマの見つけ方。取材で培ったものをいかに作品として作り上げるのか。作家論。デビューまでの道のり。
・企画をつくってみよう
これまでの講義を踏まえ、それぞれご自身のテーマ・企画をつくる。他にない企画をいかに練り上げるか。

■HP詳細&申し込み
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=230490&userflg=0

今年も一年が終わりますね。

思えば、今年は尼崎の角田美代子事件のルポルタージュを『週刊ポスト』に一挙掲載してから一年がはじまりました。
ちょうど大晦日から正月にかけて執筆していたのですが、同誌の担当編集者K氏が年を越す23時半〜0時半の間にひたすら事件資料を送り続けてくれていたことを思い出します。毎回ながら本当にK氏のやる気には頭がさがります。

その後、東日本大震災のずっと書けなかったことを『津波の墓標』と出して発表。ほとんど同時に『遺体』の続編『「遺体」それからの物語」を電子書籍にて発表。
その後は、<新たなことへの挑戦>を目標だと公言していたことから、『遺体』の映画化、僕が原作を手掛けた漫画『葬送』の出版、あるいは連載漫画『コールドケース』の開始、児童書『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか』、そして長年の構想を結実させたミステリ小説『蛍の森』などを手がけました。

新しいジャンルでの仕事は体験したことのない刺激ばかりでしたね。
すでにブログ<『蛍の森』創作秘話>で書きましたが、新潮社の優秀な編集者Tさん、Kさんとのやりとり。
僕はTさんを「文学の鬼」と称しているのですが、そのとおり作者以上に鬼気迫る感じで作品に取り組む姿勢は圧巻でした。
詳しくはこちらを。

児童書では、ものすごく重要な視点を学びました。
ポプラ社の新書創刊に深〜く携わらせていただいて出版社の内部事情をいろんな形で学ばせてもらった後、『ズッコケ三人組』『かいけつゾロリ』シリーズをつくった伝説の児童書編集者だった坂井前社長、そして担当編集者のMさんから徹底的に<児童書の目線>というものを教えていただきました。
僕が書いていたノンフィクションの目線が大人の目線だとしたら、子供の目線はしゃがみこんでさらに頭を下げて横を向かなければならないようなものです。
はじめはそれが理解を超えた視点でしたが、何度も話し合う中で少しずつそうした視点があることを教えられ、学び、それを身に着けることができました(やはり伝説の児童文学編集者は違いました。本当にすごかった!)。
本の見本が出来上がった時、坂井前社長が目を潤ませて「本当に子供に読ませたい本ができた。ありがとう」と言ってくれたことが、僕にとっての何にも代えがたい体験でした。

映画制作からも多くのことを学びました。
監督の君塚さんからは何度も飲みや観劇に誘っていただき、端々で大切な言葉や姿勢を教わりました。
主演の西田さんからも同様です。
え? それは何だって? 秘密です。それぐらい、僕にとっては大きな言葉でした。
ただ僕にとっては映画は上映がうまくいったということ以上に、釜石の関係者が喜んでくれたことが一番でした。フランスに暮らすフランス語の翻訳者の方々とも交流が始まり、毎月のようにフランスから誰かが訪れているようです。
先日のクリスマス前にフランスの翻訳者や出版社の方々が釜石のみなさんと飲み会をしたとか。僕は中米滞在のせいで参加できませんでしたが、連絡をいただいて本当にうれしかったです。

そうそう、一つ大切な企画が途中でオジャンになったこともありました。
1年以上全力で取り組んでいたテーマだったのですが、ある事情でやむを得ず撤退することに。
あれは悔しかった。死ぬほど悔しかった。そして関係者に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。陰で悔し涙を何度も流しましたが、その思いは別のテーマにぶつけることにします。

その他細かなこともいろいろと印象に残っています。
たまたま西田さんに紹介してもらった女優の熊谷真実さんがうちの父親と交流があることを知って父親と一緒に会いにいったり、ポプラ新書の創刊で鎌田實さんにかわいがってもらっていろんなことをご一緒させていただいたり、対談では水木しげる氏はじめ様々な知識人のほかに関東連合の幹部、青森のイタコ、山口組の元大幹部など普段では会えないような方々と親しくさせてもらったり、アイドルやアナウンサーからネオヒルズ族まで変わった交流が生まれたり、小学校で授業を担当して感動したり、首長族のふるさと、伊豆大島、中南米などいろんなところを飛び回ったり、宗教者数百人の前で講演してお坊さんに間違えられたり……
外から見ると楽しそうに見えるかもしれませんが、やっている本人としては、悔しいこと、挫折感に満ちたことだらけです。99%が悔しいことですね。それでも、一生懸命にやっていれば、それらもまた楽しい思い出になるものなので、連日のように四苦八苦して息を切らしながらも前向きに取り組んでいこうと思います。

さて、来年は何をするんだっけ。

2014年は、1月、2月に文庫(『飢餓浄土』『遺体』)の出版からはじまり、今年連載していた『絶対貧困と相対貧困』を新書にてだし、そして4年にわたって取材執筆を行ってきた『浮浪児1945』(タイトルは変更予定です)を7月に出版。夏以降も小学館の漫画雑誌で連載している作品の単行本化などいろんなものを予定しています。
また、某雑誌にて世界各地の出産現場をルポする新連載をスタート(僕にとっては久々の本格海外ルポ連載です)、あるいは小説の第二弾、第三弾をスタートさせていく予定です。
もちろん、それ以外でも児童書等また新しいことにチャレンジしていきます。年明け早々また伊豆大島や福島にも行かなければなりませんしね。

ともあれ、毎日必死になって仕事に取り組んでいけるのは、本当にみなさんの応援のおかげだと思っています。
僕が取り組んでいることの大半は楽しくスカッとするようなものではなく、むしろ重苦しくトラウマになるようなことばかりです。
それでも、僕はそれを形に残すことが大切だと信じているから無我夢中でやっているのです。それからかならず何かを変えるきっかけになると思っているからです。
2014年もそうした信念は変わりません。もう自分の限界をとうの昔にはるかに超していますが、それでもみなさんに大切なものをひとつでも多く届けたいという気持ちで、最後の一滴まで血と汗を流して全力で取り組んでいきたいと思います。
本年は本当にありがとうございました。
そして新たな年もどうぞよろしくお願いいたします。


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大島青松園


『蛍の森』に登場する療養所には、ほぼ名称だけ変えただけのモデルとなった場所がいくつも登場する。

その一つが大島青松園である。小説中では「天島青木園」と記しているが、この島の地理、収容規模などはほぼ実在のままだ。
また物語中の療養所内での逸話も、実際の入所者から聞いた話を元にしている。

大島青松園についての資料は多数あるが、入所者の方々の回顧録『島に生きて―ハンセン病療養所入所者が語る』がもっとも詳しいかもしれない。
その他、ネットで手軽に読める入所者の回顧はいくつかある。その一つでは、『蛍の森』がテーマとして扱った「遍路をするハンセン病」のことにも触れられている。以下をお読みいただきたい。


昔はハンセン病を発病すると家を出て、あるいは出されて各地の神社仏閣などへ集まり放浪生活を余儀なくされました。
四国の場合は八十八カ所のお寺を廻ったようです。一般のお遍路さんは一回りすれば家へ帰りますが、ハンセン病の者たちは何回まわっても帰る家はなく、死ぬまで回り続けなくてはなりませんでした。
そうなると心が荒れるのは仕方のないことで、喧嘩も多かったようですし、中には悪事をはたらく者さえいたようです。
開園当初はそうした者たちを主に強制収容したのですから、園内の空気が良いはずはありません。

そこで国はその緩和策の一つとして、結婚を奨励したのです。
ただし、この結婚には絶対の条件が付いていました。国は子どもを絶対に産ませない方針でしたから、それに従って結婚前、男性に断種手術を強制したのです。
これは、人権を無視した本当にひどい話でしたが、当時は黙って従うしかありませんでした。
また、園内の結婚は一般社会の幸せな結婚にはほど遠いものでした。結婚した後も昼間は男性女性それぞれ自分の部屋で過ごします。
男性が夕食を食べずに、奥さんの部屋へ持っていって、一緒に食べ、夜を過ごした後、朝二人でお茶を飲んで、男性は朝食の時間までに自分の部屋に帰るといった毎日でした。
女性の半数くらいは結婚していましたから、夜は24畳の部屋に6組くらいの夫婦と6人くらいの独身者が一緒に寝ていました。何か大事な話をするときは山や海岸へ二人で行って話しました。

引用リンク
http://www.mers.jp/old/newsletter/no_05/05.hansen1.htm


いかがだろう。
すでに『蛍の森』をお読みいただいた方は、既視感のようなものを覚えるのではないだろうか。
遍路をしている最中につかまったハンセン病患者たちの多くは、もっとも近い療養所の一つである大島青松園に収容されていたのである。

こうしたこともあり、大島青松園には、八十八ケ所の札所を模した石仏がある。
療養所の収容された後も「遍路をして回復や来世の幸せを願いたい」というハンセン病患者の要望に応えて石仏に札所のお寺の名前が記されたものが八十八も置いてあるのだ。
この島から出られないと知ったハンセン病患者たちは、どんな思いで八十八の石仏を前に手を合わせていたのだろう。

石仏画像
http://tabiseto.com/ohshimamini88.html


また、登場人物の一人が亡くなった松の木がある。
これも島のフェリー乗り場のすぐ近くに実際にあるものだ。
もともとは「墓標の松」といって源平合戦で敗れた平家の武たちの骨を埋めたものだったという。
だが、この島がハンセン病の療養所となったあと、一部のハンセン病患者たちがこの松の木の枝に縄をかけて首をつって自殺したことがあったそうだ。
取材中にその話を関係者から聞き、私はその光景を『蛍の森』のワンシーンとして描いたのである。

墓標の松画像
http://tabiseto.com/ohshimabohyonomatsu.html


また、舞台となったカッタイ寺は、雲辺寺の近くにあるという設定になっている。
雲辺寺もまた実在のものであり、六十六番の札所として定められており、八十八の札所の中で最も標高の高い場所にあるとされているお寺である。
山の奥まで来るまで行き、さらにそこからロープウェイで行かなければならない札所だが、ロープウェイができるまでは密林の山道を歩きながら行っていたのである。

雲辺寺HP
http://www.shikoku-cable.co.jp/unpenji/tera.htm


このように『蛍の森』には現実と交差する光景が数多くちりばめられている。
もし高松へ行ったついでに大島青松園に寄ってみてはいかがだろうか。
学生の社会科見学はもとより、一般の方も受け入れている。高松市内からであれば、半日で見て帰って来られるので、日本の「過去」ときちんと向き合ってみるのもいいかもしれない。



大島青松園
http://www.hosp.go.jp/~osima/index.html




前回のブログ記事で、『蛍の森』の構想は、学生時代にある本を読んだきっかけで得たと書いた。
今回は、それについてちょっと具体的に書いてみたい。

ある本とは、ご存知の方も多いと思うが、民俗学の名著『忘れられた日本人』である。
昭和の時代に宮本常一が日本各地をまわりながら、そこでの出会いや聞いた話を書き記しているもので、その一つに「土佐寺川夜話」という話がある。
ある日、高知県の寺川にある森を歩いていた。その時、偶然に薄暗い森の向こうからハンセン病患者が現れた。次はそのことを記した一文だ。

「原生林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。
しかし一見してそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を着、肩から腋に風呂敷包を襷にかけておりました。大変なレプラ(ハンセン病)患者なのです。
全くハッとしました。細い一本道です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。
すると相手はこれから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので、陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分からないと答えました。
そのうち少し気持もおちついて来たので、『婆さんはどこから来た』ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ』と聞きとりにくいカスレ声で申します。
老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。私は胸のいたむ思いがしました」

四国の深い森の中に、遍路が通る道とは別に、ハンセン病患者たちが遍路をするための道があるというのだ。
学生だった私はそれが気になって、この歴史を調べるようになった。すると、こうしたハンセン病患者たちがつくった山道は「カッタイ道」と呼ばれていたことがわかった。カッタイとは物乞いやハンセン病を示す差別用語である。現代風にいえば、「物乞いをするハンセン病患者の道」ということになる。

(「ヘンド道」と呼ばれることもあった。ヘンドもまた物乞いを示したり、病気を患った遍路に対する蔑称としてつかわれてきた歴史がある)

あまりにひどい呼び名だが、当時はこれがむしろ自然だった。
国はハンセン病は人に容易に感染するものと誤認して、国家をあげた患者の隔離政策を行っていた。警察や保健所の職員がハンセン病患者をつかまえて、療養所へ閉じ込めていたのである。
一般市民も、病気の症状があまりに悲惨だったこともあって必要以上に恐れ、時には「因果による病気だ」と考え、密告や迫害に手を貸すこともあった。
(これは、戦後の時代までつづいた。隔離政策を許した「らい予防法」が廃止されたのは1996年である)
このような時代背景の中で、ハンセン病患者たちは身を隠しながら、必死に病気の治癒を願って、あるいはより良い来世を願って、森の中を歩いて八十八か所の札所を巡礼していたのだ。

学生だった私は、こうした歴史を探っていくうちに、当事者たちの名前の声を少しでも知りたいと思うようになった。
もちろん、差別の歴史と実態を知りたいという気持ちが基本である。だが、それ以外にもっと立体的に現実を見聞きしたいという思いもあった。
ハンセン病患者とて人間である。差別にさらされた被害者としての一面もあれば、欲を持った人間という一面もあるだろう。あるいは仏にすがることだけを練って巡礼をする者もいれば、途中で何かしらの悪意が芽生える者もいるかもしれない。また、山中を巡って生きていく中では、きれいごとでは済まない状況は多々あったにちがいない。
そうしたことをすべて含めてハンセン病患者の行っていた遍路という「巡礼」の実態に目を向けてみたいと思った。
人間が人間を虐げるとはどういうことなのか。その中で被差別者が生きるということはどういうことなのか。彼らが山中ですがりつこうとした希望というのは何だったのか……。
それで二十代から資料だけでなく、実際にハンセン病患者に会いに行って話を聞いてみたり、海外の同じようなケースを調べてみたりするようになったのだ。

そうやって調べたことをベースにして、新作『蛍の森』は書かれている。
逆に言えば、一部の内容はフィクションという形でしか書けなかったという事情もある。
その部分がどういうところであるか。それについては、各々が本書を通して考えていただけたら嬉しい。
いずれにせよ、十年来私が追ってきたテーマの作品化であることは事実だ。


『蛍の森』という作品を書くきっかけについて、今日はちょっと書いてみたい。

本書のテーマは、ハンセン病患者の四国遍路である。
患者たちは不治の病であり、国が迫害していたハンセン病の治癒を願い、人目から隠れるようにして密林の中にハンセン病患者だけの遍路道(ヘンド道)をつくり、八十八か所の札所を回り続けた。
この道とそこに生きた人々が本書のテーマである。

きっかけは、ある民俗学の本(これも後日書く)を読んだことだった。
ハンセン病患者に対する迫害は、日本という国が犯してきた史上最大級の差別だと言えるだろう。ハンセン病患者たちはその迫害から逃れるように、しかし希望にすがりつくように人里離れた密林の奥で遍路をつづけた。
しかし、その実態は一部の学者と文学者がほんの数行、もしくは本の数ページ触れるだけで、ほとんど記録されてこなかった。

なぜか。

いくつか理由がある。
ひとつに、ハンセン病患者たちが隠れて密林を巡礼していたため、その事実を明らかにしにづらかったこと。
また、ある研究者がいうように、一部のそうした遍路道が被差別部落と接点があったため、そこまで書くと批判を受ける可能性があったこと。
あるいは、ハンセン病患者自身が迫害されており、その事実を満足に語れなかったり、聞き取りをする人がいなかったりすることだ。

これ以外にもいろんな理由があるが、ハンセン病患者の遍路の実態が明らかにされてこなかったことは確かである。
しかしだからこそ、私はそこに光を当てたいと思ってきた。そこに日本という国が犯した最大級の過ち、人間の残酷さ、被差別者の祈りと希望……ハンセン病患者たちが密林につくった遍路道にはそれらのことが恐縮されていると考えたからである。
そして、その後私は海外の貧困地域を訪ね歩く中で、世界の国々で同様の差別がいまだに行われている事実や、ハンセン病患者たちが日本のそれと同様に神にすがるように巡礼を繰り返している事実を知り、ますます形にしたいという気持ちが膨らんだ。
そして二十代のころから折を見て、資料を発掘したり、ハンセン病患者のもとを訪れて直接話を聞いたりして、過去をたどっていったのである。

それと時を前後して、私は二十代で『物乞う仏陀』(文藝春秋)を出して物書きとしてのスタートを切った。
これはアジア八か国の障害者や物乞いを追ったルポルタージュであり、その後も私はノンフィクションを中心にして二十冊ほどの作品を立て続けに世に出してきた。
なぜノンフィクションだったのか。これはまた別の機会に詳しく書きたいが、簡単に述べれば今自分が書かなければならないテーマがノンフィクションであったこと、ノンフィクションの分野で挑戦をしてみたかったこと、若いうちにしかできない「行動」をしたかったことなどがあげられる。

ただし、私はずっとノンフィクションだけをやり続けるつもりはなかった。それは処女作を出してからすぐに発言してきたことだ。いずれ、フィクションをやりたいと思っていた。
実際、処女作を出した後も、大手出版社からフィクションを書かないかという誘いがかなりあった。だが、私はそれを断った。理由は以下である。

・ノンフィクションの世界で自分はここまではやったと思えるようになってから次のステップへ進みたかった。
・トラウマなど特別な経験や思いがない自分は十年間はノンフィクション畑で、他の誰も経験しない体験をつむことでフィクションでもやっていける「体力」をつけようと思った。

などだ。
そして私は三十代の半ばまで約十年間、フィクションの誘いは基本的には断り、ノンフィクションを中心として活動してきたのである。

そうした気持ちに変化が起きたのは、2011年のことだった。

2011年、それは東日本大震災が起きた年である。
この年の三月から私は被災地に滞在し、取材を続けていた。後日『遺体』として上梓する本の取材である。
この本をまさに書き上げようとしていた夏のある日、「小説新潮」編集部のTさんから連絡を受ける。Tさんとは半年ほど前から小説家・万城目学氏の紹介で仲良くなり、それまで2、3度痛飲したことがあった。

たしか二人きりで会ったのは、この日が初めてだった。
夏の日の夜、西新宿の料理屋に呼ばれ、カウンターで酒を飲みながらひとしきり話をした。ひどく暑い夜だった。
Tさんの話の内容は直球だった。
ご本人は恥ずかしがるかもしれないが、私はその直球さに感銘を受けたので書いておきたい。こういうようなことを言われた。

「ぜひ小説を書いてくれ。全身全霊を込めて書けるテーマなら何でもいい。それやってくれるなら、どんな枚数でも雑誌の連載枠を確保する。自分は小説の編集がどうしてもやりたくて、就職浪人して新潮社に入り、やっと少し前から小説新潮編集部に配属してもらえた。自分はこの仕事を全力でやり遂げたいと思っている。ただし、会社員なのでいつまで小説の編集部にいられるかわからない。だから編集部にいられるうちは必死でやりたい。自分も全力でやるので、石井さんもすべてをかけられるほどのテーマで書いてほしい」

大きな目でまっすぐに見つめられて、力説されたのである。
正直、僕は『遺体』の原稿が佳境に入っていて疲れ切っていた。あの作品は本当に書くのが大変で、三月からずっと悪夢にうなされて睡眠薬中毒になるぐらいだった。
でも、だからこそ、『遺体』を書き上げた後、それに匹敵するぐらい全力でぶつかれるテーマをノンフィクションですぐに見つけるのは難しいとどこかで思っていた。
別のテーマが小さく思えるというわけではない。ただ震災の時ほど全力で向き合えるかと言われれば、どこかで計算できてしまう気がしたのも事実だ。計算できてしまえば、作品はどうしても縮こまってしまう。
このままノンフィクションだけをつづけていても、どこかでむなしさを感じたり、消費されていくだけだったりするのではないか。そんな思いがどこかにあったのである。
だからこそ、Tさんに直球で小説を書けと言われたとき、こう思った。

ノンフィクションをやりつづけようと思った十年はもうすぐ過ぎようとしている。
ならば、新しい挑戦を一からやるべきではないか。
ノンフィクションとフィクションを両方やりながら両者を活力にして次のステージへ進みたい。
Tさんなら信頼にあたる。

そして、その時にいくつかのテーマが頭に浮かんだが、その一つが今回の『蛍の森』であることは言うまでもない。
『蛍の森』は完全なノンフィクションとして描くのは非常に難しい。証言者が少ない、密林にあった遍路道をすべて探し出すことは不可能、証言をそのままノンフィクションとして書いてしまえばハンセン病患者、あるいは上記のような被差別部落の問題も含めて様々な障壁にぶつかってしまう……。
ならば、完全なノンフィクションというより、今まで自分が取材をしたり調べたりしてきたことをもとにしてフィクションの形で描いた方が、ずっと「真実」に迫れるのではないか。

『遺体』を上梓して間もない11月。
私は『新潮45』編集部のWさんと、そして『小説新潮』のTさんの三人で、今度は東新宿の中華料理屋で会った。
そこで話し合った結果、『蛍の森』のテーマで行くことが決まり、Wさんからも資料等で協力してもらえることになり、そして月末にはTさんと二人で四国へ取材旅行のために飛ぶことになった。
(しかも、偶然にもTさんは大学時代に民俗学を勉強しており、四国遍路を何度もしたことがあった!)

こうして取材、物語の構想、そして執筆がはじまったのである。

その詳細については割愛するが、正直に言ってTさんの本気の取り組みには脱帽した。
私も『遺体』の後の作品に関しては、『蛍の森』をすべて優先して全力を尽くしたつもりだが、Tさんの作品に向き合う熱意と的確な意見には何十回も姿勢を正された。連載終了後から単行本化に至る過程の最後の最後までつづいた。
それは途中から単行本担当として加わってくれたKさんについても同様のことが言える。いつもTさんと二人であれこれと相談をし、意見をぶつけてくれた。それはほぼすべてにわたって驚くほど核心をついていた。
そしてそれは編集者ばかりでない。校閲者も同じだ。

以前私のツイッターで以下のような記事が大反響を呼んだのを覚えているだろうか。ニュースにもなったツイートだ。

http://matome.naver.jp/odai/2136766411643129901

これは『蛍の森』の雑誌連載時の校閲である。
文芸誌という、お世辞にも一般読者にはそれほど読まれない雑誌ではあるが、そこに掲載する一文に、どれだけ編集者や校閲者の情熱がかけられていることか。

私は『蛍の森』を書いている間、ずっとそれを感じさせられ、自分がそうした舞台で仕事をしているありがたさをつくづく感じた。
『蛍の森』を、みなさんがどう読まれるのかはわからない。だが、私にとっても、編集者にとっても、校閲者にとっても、全力で取り組んだということは自信を持っているし、それゆえ私としては読んで頂きたいという気持ちが心からある。

どうかご一読いただけたら嬉しい。


今後はフィクションとノンフィクションを交互にやっていきたいと思っています。
フィクションでは、ノンフィクションとしてはできないが、ノンフィクションとしてやる以上に「真実」を描けるものを常にテーマとしていくつもりです。


『蛍の森』(新潮社)が、本日発売になりました。



■作品内容
その森は国に棄てられた者が集う場所――
四国の山村で発生した謎の老人連続失踪事件。
容疑者となった父親の真実を探るべく、私は現場へと向った。だが、そこに待っていたのは、余りにも凄絶な「人権蹂躙」の闇だった……
いま蘇る、理不尽な差別が横行した六十年前の狂気。
人はどこまで残酷になれるのか。救いなど存在するのか。
長年の構想を結実させた情念の巨編!  ノンフィクションの旗手が挑む慟哭の社会派ミステリー!


本書は、私が10年来温めてきたテーマであり、二年間をかけて全力で取り組んだ本です。
実際、私はこのテーマについて20代のころから取材をしたり、資料集めをしたりしてきましたし、 『小説新潮』での連載が決まってから、つまり『遺体』を書き上げた後の二年間はほぼすべてこれに注力していたといっても過言ではありません。

テーマの詳細については、また追って書き記します。
ただ、なぜこのテーマだったのかについて言及すれば、それが日本史上最大級の「差別」であり、「人権蹂躙」の歴史だからです。
そして、ここで描いた人々が、日本の差別の歴史から抹殺されたかのように語られてこなかった人々だったからです。
なんとか、この人たちの姿を描きたい。このまま歴史に消されるのではなく、形として残したい。いや、残さなくてはならない。
そんな思いがあり、様々な試行錯誤の結果社会派ミステリーという形で描くことにしました。逆に言えばそういう形でしか描けないことが数多くあったからです。
(その詳細については、後日このブログで書いていきたいと思います)

いずれにせよ、これは私にとって全身全霊を傾けた、第二の処女作ともいうべき作品です。
どうか手に取って一読をお願いできれば嬉しいです。

首長族の故郷は、つい一年前まで紛争で立ち入りが禁じられていた。

タイやミャンマーの観光地にいるのは、故郷を離れて難民化した首長族なわけだが、このたびミャンマー政府が村のある州への立ち入りを一部解禁したため、さっそく10年来の現地の友達と首長族の故郷へ行ってきた。

首都ヤンゴンからバス24時間かけて地方の都市へ。そこからバイクでさらに3時間かけ、さらに山をずっと上っていってようやく到着。

さすがに長かった。
が、ひさしぶりに、こういう旅もいいものですな。
しかし、全身南京虫に刺されて、死にそうにかゆい。。。

ちなみに、写真に写っている男性2人は、前にブログで紹介した『物乞う仏陀』の旅で知り合った現地の友人です。



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映画『遺体』のDVD、Blu-rayが発売になりました。
2月〜6月頃まで全国上映された、拙著『遺体―震災、津波の果てに』(新潮社)の映画化作品です。
同時にビデオレンタル店でのレンタルも開始になっていますので、ご関心のある方はご覧いただければ幸いです。





監督の君塚さんとのトークイベントの記事です。
映画化について何を考え、何を持ったのか。以下をご覧いただければ幸いです。

記事
http://eiga.com/news/20130122/4/

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