2007年11月13日

書く方法

読者からメールが来た。で、こんなことを尋ねられた。

「養老さんが毎日新聞で小説風だと評していました。私もそう思います。けど、どうしてそういう文体で書いているのでしょう」

何度かインタビューでも答えているが、たしかに僕は今回小説風の文体で書いた。

これは、書き手が何を意図して筆をとるかと言う問題になってくると思う。
そもそも、書き手というのは、「何を訴えるか」で書き方を変えるものだ。
明確が答えが決まっていて、それを述べたければ、学術論文のように描く。人生全般を描くことでなにかを訴えたければ伝記として描く。一瞬の自分の思いを描きたければエッセイの方法で書く。
つまり、何を書くかによって書く方法は大きく変わるのである。

僕の場合、自分の内面と外部の内面との葛藤や差異を浮き彫りにしたかった。
それがもっとも有効的にできるのが小説風の書き方である。しかし、これは事実の話だ。だからこそ、かつて使われた私小説の書き方を応用して取材のテーマを浮き彫りにした。
それが、小説の文体になっている理由である。

書くという作業は体験(小説の場合は空想)のどこを残してどこを書くかということである。
体験という木をどこまで削って、ひとつの美しい木像にするかということである。

たとえばあなたが結婚式に参加したとしよう。そして、その結婚式について筆をとることになった。
さて、もし、あなたが時間軸にそって出来事だけを追えば、それはレポートになるだろう。
もし、あなたが結婚式にかかるお金について書こうとしたら、研究書になるだろう。
しかし、主人公を新婦にしぼって、最後の涙のシーンをラストとして描けば、それは伝記的な話になる。
また、新婦の父親が新郎に対して最初は嫉妬し、やがては受け入れ、応援する気持ちを描いたら小説風の物語になる。

別の例でたとえてみよう。テレビで想像してみればいい。
たとえば、消防士が火事場から老人を救出したとしよう。これが一つの体験だ。
これをニュースで報じたら「ニュース」になる。
プロジェクトXで番組化したら「物語」になる。
朝まで生テレビの方法論なら「善悪の討論」になる。
どれが良いか悪いかなんてことはない。結局のところ、作り手は何を描こうとするかによって方法論を変えているだけの話なのだ。

改めて言うが、事実(体験)というのは、ひとつの塊にすぎない。
それをどう削って、組み立てるのか、ということが「書く」という作業なのだ。
そして、その作業を行う「彫刻刀」が、文章を書くときの方法論なのである。つまり、それが先述した論文の方法であり、レポートの方法であり、エッセイの方法であり、そして小説の方法なのだ。
書き手は、筆をとる時にテーマを決めている。そのテーマを一番うまく伝えるためにはどういう書き方をすればいいかを熟慮する。そして、最も適しているという方法論を選びだして執筆するのだ。
僕の場合、それが私小説として書き方だった。それだけの話である。

今回メールをくださった方は私の書き方に戸惑ったようだ。
もちろん、そういう人だっているだろう。当たり前だ。
しかし、私はあえて尋ねたい。

もし料理人が林檎の皮を包丁ではなく皮むき器でむいたからといって「これは本物の料理じゃない」という人がいるだろうか?

もし土建屋さんが木材をノコギリでなく、電気ノコギリで切っ家をたてたからといって「これは本物の家じゃない」という人がいるだろうか?

もしラーメンを「手打ち」じゃなく、「機械」で打っただけで、「これは本物のラーメンじゃない」という人がいるだろうか?

頑固な人はそう言うかもしれない。
しかし、作り手からすれば、本来はそんなことはどうだっていいのだ。
作り手は目指しているものをつくるのに一番いい方法を選んで作っているだけだ。
だからこそ、ある人は皮むき器で果物をむくし、ある人は電気ノコギリで木材を切るし、ある人は機械でラーメンを打つ。僕の場合は、体験を小説の方法で体験を再構築した。そうすることによって自分が描きたいテーマをよく鮮明に描こうとしたのだ。すべては、そのテーマによって鑑賞者に何かを訴えかけたいと思っているためである。

kotaism at 03:53│Comments(1)clip!日々のこと 

この記事へのコメント

1. Posted by satomi   2007年11月14日 02:33
作家って、いろんな苦労があるんですね。
読者としては単に面白く読んでいればいいだけですけど(反省)。

重箱のすみをつっつくような読者もいるんでしょうけど、がんばってください!
何よりも石井さんの文章は魅力的だと思っています。
応援しています

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