大統領選挙に関する記事を読むたびに思う人もいるだろう。

一体、なぜあんなに中絶問題がクローズアップされるのだろうか……

ウィリアム・R.ラフルーアという研究者はこうした日米の違いを取り上げて、両国の間には中絶に関する決定的な考え方の違いがあるという。

大方の日本人は、中絶の是非について厳格な意見をもっていないだろう。
大半の人は「必要に迫れれば仕方ないじゃないか」というような認識ではないだろうか。少なくとも僕はそうだ。

が、アメリカでは異なる。いや、ヨーロッパだってそうだ。
キリスト教でも、イスラーム教でも、何かあればすぐに中絶の是非がまるで「〜主義」のように議論のテーマとなる。
これには様々な政治的な問題もたくさん含まれているということもあるだろう。だが、ウィリアム・R.ラフルーアさんは、政治問題は別にしても、やはり欧米人が考える中絶は、日本のそれよりはるかに厳格だというのだ。

たしかに寺院や教会をとって考えてもそうかもしれない。
欧米の教会は断固ととして殺生を禁じて中絶に反対論を示すところも多い。
が、日本の寺は殺生を禁じながら、一方で、水子供養などといって膨大な利益をそこからむさぼっている。

一体、なぜ日本だけが、こんなに特殊なのだろう?

ウィリアム・R.ラフルーアさんによれば、日本は「水子」という独自の概念をつくりだし、それによって中絶という行為を殺生、つまり殺人から切り離しているのだという。このために、日本では中絶に対する寛容さがあるのではないか、と。

たしかに……

日本には、世界でもまれな「水子」というものが存在する。
胎児の霊は「幽霊」でなく「水子の霊」なのである。つまり、人間の霊でなく、あくまでも胎児という人間とは異なるものの霊なのだ。そして、その霊はなぜか地蔵のように神格化してしまうことさえある。
日本人は中絶の問題を考える時、「人を殺している」とはあまり考えない。少なくとも、欧米人よりそういう意識が薄いように思える。それは、水子という概念をつくりだし、「そもそも中絶とは殺人とは別モノ」という立場をとっているからかもしれない。

とはいえ、これは、あくまで文化論的な捉え方にすぎない。
この本の著者は、こうした考え方ゆえに、日本ではかつてすごい数の間引きが行われていたという論を展開している。
ただ、僕はかならずしも、そういう話に直結するものでもないと思う。
たしかに水子という日本特有の概念があるのはたしかだろう。しかし、だからといって、日本の女性とアメリカの女性を比べて、日本の女性の方が罪悪感が薄いなんてことはないように思うのだ。ましてや、罪悪感がないからこそ、たくさんの間引きが行われていたなんて論はナンセンスであるように思う。
僕の回りには何人か中絶手術をうけたことのある人がいるし、むかし僕もそれに付き合ってあげたことがある(念のため言っておくが、僕が孕ませたわけではない)。
その時の話や体験を考えても、比較してどうのこうのということは言えないような気がするのだ。

ともあれ、ウィリアム・R.ラフルーアさんの日本文化論はナカナカ面白い。
今回紹介したような話は、「水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流」という本に載っている。
かなり極端な意見もあるので、学術本としては難点があってあまり話題になっていないようだが、一般読者が外国人が書いた日本文化論を読むという意味ではとてもいい本だと思う。
興味あれば読んでみてください。


水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流
水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流