半年間つづけたHIV取材がとうとう終わりに近づいてきた。
とりあえず、来週中に雑誌掲載用の原稿のゲラを完成にこぎつけてひと段落。
その後は追加取材をしながら、書籍のための原稿を書いていくことになる。が、それとは別に3冊本の企画が同時進行で進んでいるので、一体どうなることやら。
ともあれ、新しい雑誌の創刊ということで、編集長さんが会社側から「今回の雑誌で裁判がかかわりそうなヤバイ原稿はあるか」とたずねられたそうな。編集長さんは「うーん、石井光太という人の原稿がちょっとヤバイかも」と答えたらしい。
そしたら、会社側は「ああ、石井さんね」と答えたそうだ。編集長さんが「知っているんですか」とたずねたら、会社側は「いやー、あの人が光文社で『絶対貧困』を出した時に光文社の担当の人が困っていたよ」と言ったという。。。

どうも、「石井=やばり原稿を書く人」という噂が流れているらしい。
これでは、僕が問題児みたいではないか……

ともあれ、出版社でもテレビでも、差別表現とかそういうことについては神経質なぐらい頭を悩ませている。
一つ例を出せば、「啓蒙活動」という言葉は差別表現であるため、「啓発活動」にしなきゃいけないそうな。
なぜ、これが差別表現なのかわかりますか?
以下が答えである。

「蒙(めしい)を啓(ひら)く」という意味であるだそうです。「蒙」という字そのものに「めしい(=めくら)」という差別的な意味があるそうです。
よくわかっていない人にわからせてあげる、といった、相手を見下したような意味合いがありますね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116685901

まったく、こんなことを言っていたら、日本語なんてほとんどつかえなくなるじゃないか、と思う。

ただ、僕の場合に限っては、あまり大きな問題になったことはない。
たぶん、僕はギリギリのテーマばかり選ぶので、原稿に一々目くじらを立てていたら、それこそ企画の段階からすべて変えなければならないので、無駄だとあきらめてくれるらしい。
(実際、こういうトラブルが嫌いな編集者は絶対に僕に話なんてもってこないと思う)
その中でも、記憶にあるのは、初めて『物乞う仏陀』という本を出す時、文藝春秋から「ハンセン病のことは団体からクレームがくるから書かないほうがいい」なんて馬鹿げた意見がでて一話丸ごと削除されたことがあるぐらいだろうか。ただ、これは文庫本では掲載されている。

二作目の『神の棄てた裸体』では、差別表現云々という話はほとんどなかった。
いまの連載している「レンタルチャイルド」でもそうだけど、新潮社はこういうことに常識的で、とても理解がある。「レンタルチャイルド」の副題は、「不具にされたインドの浮浪児たち」だけど、他の出版社なら「不具」という言葉は絶対にNGだろう。
けど、ここは何の問題もなく「ああ、いいんじゃないっすか」みたいな感じで一発OKだった。こういう出版社の姿勢はとてもありがたい。はっきりいって、一々こういう言葉に対して差別だ何だといわれると、その会社で仕事をするのがイヤになってくる。
新潮社で書くことに居心地の良さを感じるのは、つまらない差別表現を一々気にしないでいてくれるからだろう。少なくとも、僕は今のところこの会社が一番やりやすいし、重要な企画はここにもっていこうと思える。

「レンタルチャイルド」といえば、その前に連載していた『月刊PLAYBOY』の「地を這う裸虫」は運がよかった。
版元である集英社は、この手のことに結構うるさいんだけど、この時は『月刊PLAYBOY』が休刊になることが決定していたので、編集長も「最後だから何でも好きにやってくれ!」みたいな感じで、手足を切断された物乞いの写真を載せたり、全身イボだらけの物乞いの写真を載せたりした。おかげで、かなり反響があり、一年が経った今でもバックナンバーを読んだ人からメールが来るぐらいである。

光文社の『絶対貧困』の時は、ちょっとした問題はあった。
光文社もこの手の話にはうるさいので、会社側から「この表現はマズイのではないか」という横槍が入ったのである。
具体的に言えば、物乞いの儲かるレベルをピラミッドにしたところなどだ(ハンセン病患者が一番稼げる、とかそういうことを書いている箇所である)
出版前、編集長と担当編集者に市ヶ谷の喫茶店に呼ばれていろいろと言われたが、僕はほとんど言うことを聞かなかった。「一々直されるなら出版する意味なんぞない」と駄々をこねて、「『月刊PLAYBOY』ではよくて、光文社でダメということはないだろう」と逆切れして、連載原稿のコピーなどを証拠品として押し付けて、強引に押し切った。
大体、フリーの利点というのは、ブーブー言われたら即別のところへ持っていけるという選択肢があるということだ。もし「この表現はちょっと」と言われれば、「だったら別の出版社へもって行きます」といえる。ここがつよみなのである。(逆に言えば、それ以外につよみはまったくない)
ただ、結果だけ見れば、光文社での仕事は成功した。出版さえしてしまえば、あとは「売れれば官軍」というわけで、今となっては誰もクレームをつける人はおらず、「またうちで本を出してくれ」ということになり、現在連載の企画が着々と進んでいる。「絶対貧困」の海外翻訳版では、カラーの写真掲載を目指しているらしい。結局は、本なんて商品なので、会社側からすれば売れれば全部OKなのである。

が、細かいことでいえば、僕自身いろいろと言われて、嫌な思いをしたことがある。

たとえば、以前こんなことがあった。
ベトナム戦争の時代に「産婆」として働いていた女性を描いたときのことだ。
校正の方から「『産婆』は差別用語なので、『助産師』にしてください」という意見がでた。
正直、ふざけんな、と思った。
ベトナム戦争の時代に、ジャングルの中で泥だらけになりながら、敵も味方も動物も関係なく、出産を手伝ってきた人に対して「助産師」なんて表現があてはまるわけない。日本語では「産婆」としか言い表せない。
これを「助産師」にしろ、というのは、日本語がわかっていない証拠だ。「婆」が差別表現なのかどうか知らないけど、文章表現を仕事にしている人がいうべき言葉じゃないと思う。

そういえば、『絶対貧困』で「エイズ孤児」と書いた時にクレームがでたこともあった。「孤児」が差別用語だというのである。
これまた、馬鹿馬鹿しい。「エイズで親を亡くした子供たち」なんて長ったらしく書けというつもりなのだろうか。
そもそも「エイズ孤児」という言葉は国連でもつかっている言葉で、差別用語でも何でもない。英語にだって「AIDS orphan」という言葉がある。たぶん、校正の人は「孤児」という言葉だけ見て差別だなんだのと言い出したのだろうけど、あまりにも表面だけでものを言い過ぎている。
「エイズ孤児」という言葉が当たり前のようにつかわれていることなんて、調べればすぐにわかるはずなのだ。

むろん、出版社の指摘した人の立場からすれば、「極力問題にならないように」という配慮なのだと思う。また、それが仕事なのだと思う。
それはわかっちゃいるけど、書く人間の立場からすれば、このような指摘は、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。
こっちだって、どのような表現をつかえば、一番読者にわかってもらえるかを頭がおかしくなるぐらい考え抜いて書いているのである。なにも考えずに「産婆」という表現をつかっているわけじゃない。その一言を何時間も考えて書いているのだ。
それをただ単に「婆」という言葉が入っているからという理由だけで「差別用語だから削除しろ」と言われれば、「ふざけんな」と思うのは当然だろう。
アダルトビデオ業界にも、AVのタイトルを「女子高生」とするとビデオの検問機関からクレームがつくため「女子校生」に訂正しているとか、同じく「盗撮」は犯罪を助長すると受け取られかねないので「投撮」に訂正しているという、あまりにも馬鹿馬鹿しい事実があるが、出版社のノンフィクションにまでそれと同じような思考回路で赤字を入れられても困るのである。

また、書く側の思い入れもある。

たとえば、書き手は時々次のようなクレームを受けることがある。
「ノンフィクションの書き手というのは、人の傷口をえぐるようなことばかり聞いて、それを書いて商売している。汚い仕事だ」と。
僕はこの手の意見を聞くと、「何も知らないで好き勝手なこと言いやがって」と思ってしまう。
たぶん、新聞や雑誌の記者だってみんなそうだと思うけど、好きで他人の傷口をえぐるような質問をしているわけじゃない。この種の質問をするのは胸が裂けるほどつらい。
たとえば、餓死寸前の子供を抱いている親がいたとしよう。親に対して「このまま子供が死んでいくことをどう思いますか」とたずねるのがどれだけつらいことかわかるだろうか。
けど、たずねて答えを引き出さなければ、日本の読者に何もつたわらない。だから、心の中で何度も謝りながらたずねるのである。
で、そこでようやく答えを引き出す。
そうしてようやく、その言葉を悩みに悩んで「これしかない」というふうに考えて文章にしているのである。
それを出版社の人に「『婆』は差別表現だからだめ」とか「『孤児』はつかってはいけません」とか言われたらどうだろう。書き手に思い入れがあるぶん「ふざけんな」と思う気持ちもわかってもらえると思う。

とはいえ、こういう問題はずっとありつづけるんだろうな、と思う。
一つの言葉をどうとらえるかは、見方によって全然違ってきてしまう。だからこういう問題があることは当然なのだ。
だから、僕の方でも譲歩できるところはできるだけしている。ただ、「どうしても、ここだけは譲れない」というポイントはある。そんな時にちゃんと話さえ聞いてくれればいいと思っているし、少なくともこれまで僕が出会ってきた人はみんなそこらへんは理解してくれる人なので、とても心強い。
まぁ、最終的には、そうやって出来上がったものが、面白ければいいのである。本が商品である以上、<面白い>ということが揺るがない価値観なのだ。
何をうだうだ言っても、結局はそこにいきつくものだと思う。