職業病なのだろう、ニュースを見て気になると、すぐに名前を検索してみる。

若い人だと、たいていツイッターやフェイスブックをやっている。
なので、顔写真、経歴、友達、そして直前までの投稿がぜんぶみられる。殺人犯なら殺人犯が出てくるし、殺人の被害者なら被害者が出てくる。
それでその内容と事件を考えてみて、記事になりそうな感じがすれば調べ始めるし、そうじゃないと調べない。

麻薬の運び屋なんかのフェイスブックを見ると、たいてい当人がジャンキーか、本当に騙されてやらされたのかはたいていわかる。
たまらないのは、その「友達」「フォロアー」の方だろう。ここから共犯であることがバレたり、関係ないのに疑われたりするに違いない。
ツイッターやフェイスブックには、落とし穴もたくさんある。

しかし、これは自業自得なので仕方がない。
つらいのは、事件の被害者や、津波などの死亡者だ。
たとえば、震災取材の時、どうしても必要だったため、死亡者リストに載ってくる名前をかたっぱしから調べていくのだが、その人の友人のツイッターやフェイスブックを見てみると、必死になって探したりしている。
家族や友人や恋人が「●●が見つかっていません。海辺にいたはずです。お願いですからどなたか情報をください。ほんのわずかな情報でもいいです」などと書いている。
しかし、亡くなった本人のツイッターやフェイスブックは3.11以降まったく更新されていない。
それを見続けるのが本当につらかった。

そうそう、ある人の書き込みに、津波が来ていることを書いているものがあった。
たまたま通信がつながり、そっちに書いたのだろう。だが、それきり書き込みは途切れていた。そして、その書き込みの主は、津波の死亡者リストに名前が載っていた。
きっと書き込んだ後に、津波に呑みこまれて亡くなったにちがいない。
それがずっと文字として残っているのだ。やりきれなかった。

さらに、一年が経ち、一周忌の際に再び検索してみなければならないことがあった。
そうすると、かわいそうなことに、それらの書き込みはまだそのままになっている。登録者が死んでしまっているので、ずっと残り続けてしまっているのだ。

ネットの事業者は、「透明性」とかそういう言葉で自己媒体を肯定する。
もちろん、私もそれは間違っていないと思うし、いいこともたくさんあると思う。

しかし、家族や友人は、それを見てどんな気持ちになるのだろう、と考えてしまう。