今月発売の文芸誌『読楽』(徳間書店)で、松本仁一さんと対談しました。
<完全現場主義>と題して、事実を取材して書くとはどういうことかということを話しています。
編集長と担当編集者の厚意により、全4、5回にわたって、ネットでも少しずつ内容を掲載していきますので、よろしければお読みください。

<完全現場主義>

■マスメディアが伝えないこと

松本 
新作の『津波の墓標』、拝読しました。
東日本大震災関連では前作『遺体』(新潮社)も非常によかったのですが、今作にはより生々しい話がたくさん盛り込まれていて、個人的にはこちらのほうが引き込まれました。

石井 
ありがとうございます。

松本 
印象的だったのは、はじめの部分に書かれていた「津波の臭い」という表現(第一話)。
津波の被害を伝えるとき、われわれは「瓦が礫れきが散らばる」など目で見えるものを真っ先に書いてしまう。
でも、あの瓦礫の山からはひどい臭いがするんです。
瓦礫に臭いがあるということを書いたのは、石井さんがはじめてじゃないかな。
ほかにも、遺体を覆うブルーシートをめくって写真を撮るカメラマン(第五話)や瓦礫をバックに記念撮影をするボランティア(第四話)、自転車に乗って金目のものを漁あさりに来る近隣の少年グループ(第二話)など、マスメディアの報道からは伝わってこない、被災地で起こっていたありのままの現実をちゃんと記録しているのもさすがだと思いました。

石井
テレビや新聞などのマスメディアが伝えないことを書いてこそのノンフィクションですからね。

松本
石井さんが『津波の墓標』で書かれたようなことは、新聞では書けないと思うんです。
というのも、新聞が書いてしまうと、被災地以外の人々に「新聞に書かれているぐらいだから、日常的に行われているんだ」という印象を与える可能性がある。
たとえば被災地で起こっている窃盗の記事を載せたとしたら、なかには「みんながやっているなら、自分も一回ぐらい……」と考える人が出ないとも限らない。
「援助交際」も、今でこそ一般の人にも知られていますが、もともとはアンダーグラウンドで行われているものでした。
ところが、マスメディアが大々的に報道したことで、実際に援助交際をする人が一気に増えたそうです。
大手紙と呼ばれるようなメディアは、世の中への影響の出方が大きいので、書く内容や書き方にかなり気を遣わなければなりません。
ただ、そのことにあまりとらわれすぎると、今度は記者が勝手に自主規制をはじめて、伝えるべきことが伝わらなくなる。
どこに線引きをするかは難しい問題ですが……。

石井 
ノンフィクションの場合は、一冊千五百円、二千円の値段がついているし、そのお金を出して本を読もうという読者はある程度世の中に対する問題意識が高いという面があります。
本の読者というだけでかなり選別されているわけです。だから、出来事をありのままに書いても、読者が「だったら自分も……」という発想に陥るケースは極めて少ないといえます。
ところが、新聞の場合は読んでいる層がかなり広いし、さらにテレビともなれば不特定多数に無料で情報を流している。となると、記事化することにおいて最低限の規制はどうしても必要になってきますよね。

松本
規制は必要ですが、それは「取材しなくていい」ということではありません。
取材は徹底的に、可能な限りしなければならない。現場へ行って、瓦礫の中に放置されている金庫を開けている人たちがいたら、「お前たちは何をやっているんだ」と話を聞かなければならない。
そうした取材で自分の手持ちのカードを増やし、集まったカードをどう表現していくかを考えることが、われわれジャーナリズムの世界で生きている人間の任務だと思います。

石井
たくさんのカードを持つのは非常に重要だと思います。
カードとは多様な価値観や視点を持つことであり、その数が作品の良し悪あしを決めるものになりますから。
震災後間もなく被災地の現場に入り、さまざまな人の話を聞きさまざまな光景を見てきました。
私はそうすることでカードを集めてきました。
そして今回の震災取材では、二冊の性格の異なる本としてまとめることになりました。
『遺体』は遺体安置所に焦点を絞り、そこで奮闘する人々の姿を描いています。
その光景を見ていた「私」という存在は作品から排して、現場で起こっていたことをドキュメントとして描くことに専念しました。
一方『津波の墓標』では、『遺体』では書けなかった、「私」という存在を通して見た震災を描きたかった。自分を媒介することでしか書けないこともあるんです。
今回の本で出てくる幽霊の話(第三話)も、自分を媒介することでしか書けなかった話です。
ある日、被災者数人が、幽霊が出るという噂のある河原に行くというので私も同行しました。
彼らは懐中電灯であたりを照らしながら必死に幽霊を探している。
「津波で死んだ人間の幽霊だったら会いたかったのに」
そんな言葉を聞いて、まだ行方不明の家族に幽霊であってもいいから会いたい、という彼らの気持ちが痛いほど伝わってきました。
その光景を見ながら、私はただ、その場にたたずみ、それを懸命に理解することしかできませんでした。
現実の中にはそんな私を含めて描くことでしか伝えられないことがある。
もし「私」を排除してしまうと、とても冷たいレポートになってしまう。
この物語は「私がどう感じたか」を含めて描かなければならない。
そうした体験を数多くしたので、一冊にまとめておきたかった。

松本
今おっしゃったことは、個人のジャーナリストだからこそできることだと思うんです。
新聞記者のような組織に所属するジャーナリストは、「私は」と書くことを意識的に避けるよう教育を受けて育っています。
というのも、「私は」と書いてしまうと、読者は書かれている内容よりも「私」に感情移入してしまうから。
今回の石井さんの本でいえば、読者は石井光太が被災地で何を考え、どう動いたのかを見ようとする。
でも、新聞のスタンスは違います。
たとえば、私も関わっている朝日新聞の連載記事「プロメテウスの罠」では、各シリーズで主人公を決め、その人物の思いや行動を三人称で書いています。
読者には、主人公の内面にまで入り込んでそこで起こっていたことを追体験してほしいという狙いがあります。
あるシリーズでは福島県双葉町の井戸川克隆町長を取り上げています。
もともと原発推進派でした。ところが三月十二日、福島第一原発一号機で水素爆発が起こった直後、双葉町に放射性物質を含んだぼたん雪のようなものが降りしきる。
原発の建材の破片です。屋外で炊き出しや作業をしていた町民たちはみんな、その「雪」をかぶってしまった。
その瞬間、井戸川町長は「もうこの町は終わりだ」とショックを受け、町民を守るためにも「みんなを連れて逃げなければ」と考えます。
井戸川町長の一連の思いや行動を読者が追体験するためには、「私」という存在はかえって邪魔になります。
だから、「プロメテウスの罠」では、一貫して三人称での記述にこだわっているんです。

(つづく)

出典
「読楽」2013年2月号(徳間書店/2013年1月22日発売)