■現場の生々しさを切り取る


石井
被災地で強く感じたのは、マスメディアの記者は「どこへ行き、何を聞くか」というマニュアルを作っている人が多いということです。
たとえば遺体安置所では、ほとんどの記者が入口にいる市の職員などに立ち話で「何人亡くなりましたか?」「何人運ばれてきていますか?」「今後どうなっていきますか?」などの決まった質問をして、答えを聞くと帰ってしまう。
その取材方法が間違っているということではないんですが、たとえば安置所の中に入って遺体の搬送を手伝うなど、より現場に近いところに身を置くことでまったく違うものも見えてくると思うんです。

松本
そういう取材に対する記者の姿勢は、火災現場などでも顕著に表れます。
火事が起こったとき、記者には消防指令車のところに行く者と、火災現場により入り込んでいく者の二つのタイプに分かれる。
指令車には情報が集まっているので、建物の構造や広さ、世帯主の名前や年齢、けが人の数、出火原因など、火事の概略がわかる。
それらの情報をまとめると「本記」、つまり「いつ、誰が、どこで、何を、どのようにしたか」というニュースの骨格をつくることができる。
火事が大きければ、本記は一面に載ります。ところが、現場に張りついていると、建物の構造も何人焼け出されたのかもわからない。
だから、現場に入り込んだ記者には本記は書けません。
その代わり、現場でしか見られないものがある。

私がある火災現場で見たのは、火の手が上がる建物に飛び込もうとするお母さんの姿でした。
彼女は半狂乱になって「中に子供がいるんです!」と叫び、まわりの人が必死になって押さえていました。
そこにひとりの消防士がやってきて、いきなり建物の中に駆け込んでいったんです。
しかし、すでに炎は燃え盛っており、彼はすぐに出てきてしまった。
すると彼は、ホースを持っている別の消防士に「俺に水をかけろ!」という。
全身に水を浴びて、ふたたび建物の中に飛び込んだ。
そして数分後、子供を抱えて出てきたんです。

石井
現場には必ずそういう生々しい場面がありますよね。

松本
でも、そのシーンを記事にしても本記にはならないし、一面には載りません。
記者は、早く会社に戻って本記を書かなければと考えて、現場ではない場所に行きます。
そして、何世帯に燃え移り何人が焼け出されて大変だったと、いかにも現場に行ってきたかのような記事を書いて、事足れりとしてしまう。
でも、それでいいのかという疑問があるわけです。


■組織と個人

松本
『津波の墓標』で感心したのは、地震が起こった直後、石井さんがほかのすべての仕事をキャンセルして、迷うことなく「被災地の最前線に行く」と決断したことです(第一話)。
そういった判断力こそが、個人のジャーナリストのすごさだなと感じました。
人間という生き物はだいたいが保守的なので、基本的には動きたくないんです。
組織ジャーナリストも然しかり。
すでに決まっている仕事がある状況だと、その当面の仕事を口実にして動かないことの言い訳をする。
でも、石井さんたち個人ジャーナリストの場合には、たとえ仕事を抱えていたとしても、それにとらわれていては取材のチャンスもタイミングも逃してしまうと考えて、すぐに現場に入る判断ができる。
その差は大きいですね。

石井
なぜ組織ジャーナリストの多くは、マニュアル通りの取材しかできなかったり、すぐに現場に入る判断ができないのでしょうか?

松本
組織ゆえに、自分の判断だけで動けないことが大きいと思います。
組織の幹部は基本的に責任を取りたくないんです。
自分の部下が危険な現場に入って、何か事故にでも遭ったら、「上司は何をやっていたんだ」という責任問題に発展してしまう。
それが嫌なんです。
そうすると、前へ出るな、けがをする、となる。
「けがをするな」ということは、上司が「俺にもけがをさせるな」ということであり、組織には必ずそういう発想の人間がいるものです。

個人の場合はそうした制約がないので、迅速かつ自由に動けるという優位性がある。
『津波の墓標』も、まさにそうした個人ジャーナリストの強みが生かされている作品だと思います。

石井 
結局、ノンフィクションがマスメディアに対抗できる部分、個人のジャーナリストの武器になる部分は、そこしかないと思っています。
個人でやっている唯一の特権は、重大な出来事があったときに「あっちに行くから、こっちの仕事はごめんね」とフライングできることです。
ある程度のわがままを許してもらえる。もちろん最低限守ることはあるけど何を優先するかを自らの責任で選ぶことができる。
そしてノンフィクションの中では「今行った」ということが圧倒的なアドバンテージになる。
そこが個人であることの唯一の利点であって、逆にいうとその利点を使わないとどうやってもマスメディアには太刀打ちできません。

ノンフィクションを書く人間として、マスメディアができないこと、やらないことをしようという意識は常にあります。
たとえば、今回の震災にはさまざまな切り口がありますが、僕は原発問題は一切取材しませんでした。爆発事故が起きた瞬間に「これは個人の手には絶対に負えないな」と感じたからです。
もちろん個人で行って見えてくるものもあるでしょうが、政治や経済などさまざまな問題が絡み合っているので、きっと限界があるだろうと。
だから原発はマスメディアに任せて、津波に集中することにしました。
しかもマスメディアが取り上げないだろう、遺体安置所にフォーカスを当てることにしたんです。

松本
その判断は正解かもしれませんね。

石井
逆に、『プロメテウスの罠』を読ませていただいて、やはりあれだけの取材は個人ではできないだろうなと感心しました。

松本
あの連載はすでに一年以上続けていますが、あれほど長期かつ広範囲にわたって取材に行くには、それなりの時間と資金と態勢が必要です。
出版社がフリーのジャーナリストにそれらを提供してくれるかといえば……。

石井 
厳しいでしょうね。

松本
でも、われわれにはそれができるんです。

石井
『プロメテウスの罠』は何人でやっているんですか?

松本
これまでに関わった記者は十四名です。
彼らが所属するのは、主に「特別報道部」という持ち場なしの遊軍部隊。とにかく気になったネタを自由に取材できる態勢になっています。
私はアドバイザーという総監督のような立場です。

石井 
そうしたチームを組める点がまさに組織ジャーナリズムの利点だといえますね。

松本
それからもうひとつ、組織ジャーナリストの利点があります。
二〇〇七年に私は「カラシニコフ」という連載で日本記者クラブ賞をいただいたんですが、その当時インターネット上に「カラシニコフ」に関する匿名の批判記事が上がった。
その記事の書き手は「自分も昔からカラシニコフに関心があり、いつかは取材して本にしたいと思っていた」「でも、会いに行く金もなかったし、名刺もなかったから、のびのびになっていた」「そしたら、朝日のぬるい記者がぬるい取材で本を書いてしまった」「自分だったらもっといい本が書けたはずだ」という。

その批判を読んで「勝った」と思った。
なぜなら、私は朝日新聞のお金と名刺を最大限に利用して、カラシニコフ本人に会いに行き、戦争の現場に行き、記事が書けた。
一方、匿名の彼は会いに行くことさえできず、記事は書けなかった。

大きな組織にいれば、金と名刺が使える。
それが組織ジャーナリストの最大の有利な点です。
大手メディアに属する記者としては、その利点を生かすのが義務なんです。
私は授賞式でこの批判記事のことを披露して、「新聞社の記者は名刺やお金が使えるんだからどんどん使いなさい」「それをやらないと、この匿名の人に負けちゃうよ」と話しました(笑)。



「読楽」2013年2月号(徳間書店/2013年1月22日発売)