■現場主義を貫け


松本
私が今の若い記者に言いたいのは、とにかく現場に行け、ということです。
現場に行かず、自治体や国の記者会見で何かがわかると考えているとしたら、それは思い上がりです。

石井 
現場を見ることによって、現代の世相や社会の構造も浮かび上がってくるし、今という時代が抱えているさまざまな問題も見えてくる。
たとえば、「死体の写真を撮る」というとすごく悪いイメージがある。
悪いカメラマンがとんでもないことをして金を儲けている、みたいな。
しかし現場に行くと、そのカメラマンは会社からの命令で半泣き状態で撮影をして苦しんでいる。
その苦しみこそが現場なんですよね。

あるいは遺体を土葬にするか火葬にするかで揉めた自治体がありましたが(第七話)、現場の状況を知らない人は「昔は土葬だったのに、なんで反対するんだろう?」と考えてしまう。
でも、現場を取材すると土葬予定地とされていた場所が元リサイクルセンターの跡地であることがわかります。
つまり、ペットボトルなどが埋まっている横に遺体を埋めようとしていたのです。
それがわかると、地元の人が土葬に反対することにも納得できます。
さらにこの問題をより深く探っていけば、そんな場所にしか土葬用の土地を用意できなかった自治体の問題も出てくるかもしれない。

現場へ足を運んで入念に取材していけば、それまで見えなかった人間や社会の別の一面が良くも悪くも出てきます。
それを記事や本にして伝えていくことで、読者の中にもまったく違った視点が生まれ、自分たちが生きている世の中について考えるきっかけになってくれると思うんです。

松本
先ほどから話題に上っているように、組織ジャーナリズムの中ではむしろその逆の傾向が出ています。
幹部が「俺に責任を取らせるな」「俺にけがをさせるな」と言いはじめたら、下の記者たちはもう前には出ませんよ。
でも、それじゃ「現場から報道する」というジャーナリストとしての仕事は何もできません。

石井
上の世代の新聞記者はそうじゃなかったですよね。

松本 
ええ。朝日新聞の編集委員だった本多勝一さんは、ベトナム戦争のときには最前線のゲリラ基地に住み込んで取材をして、『戦場の村』(朝日新聞社)を書きました。
あの人は本当に現場以外では書かない人でした。

「朝日ジャーナル」の編集長をやった伊藤正孝さんも、徹底して現場にこだわった人です。
彼は六〇年代後半のビアフラ戦争を取材して『ビアフラ潜入記』(朝日新聞社)を書いていますが、そのときも最後の最後まで現場に残りました。
戦況が激化して各国のジャーナリストがほとんど退去してしまい、最後に残ったのはフリーの記者二人とロイター通信の記者一人、そして伊藤さんの計四人。
その最後の四人は、赤十字の最終チャーター便で脱出します。

身の安全を考えれば適切な判断でした。
伊藤さんたちが乗った赤十字機も、地上からの銃撃を受けて機体の床に穴が開いた、と記事に書いています。
けれど、伊藤さんはあのとき国外に出たことを死ぬまで後悔していました。
なぜなら、記者たちがいなくなったあとも何人かのNGOスタッフが残っていたからです。
NGOが残っていたのに、なぜ俺は出てしまったのか、と伊藤さんは自問を続けていましたね。

石井 
壮絶な話ですね。

松本 
そんな修羅場をいくつも経験してきた伊藤さんが、危険を伴う取材のときに組織がどう対応すべきかについて、実に適切なことを言っています。

「危険かどうかは東京にいてはわからない。現場の人間が一番よく知っている。だったら現場に判断を任せろ。現場の人間が行けると思ったら、行かせればいいじゃないか。それに東京はいちいち口を出すな」
「現場の記者にもし万が一のことがあったとしても、会社は上司に責任を取らせるな。行ったのは現場にいる本人の判断なんだから、その責任を上司が取る必要はない。ただし、遺された記者の家族が生活に困らないよう、保険金などの手配だけはきっちりしておけ」
 
理にかなっていると思いますね。組織ジャーナリズムのあり方として、もっとも正しい方法だと思います。
上司に責任を取らせようとするから、結果として部下も自由に動けなくなるのです。
上司に責任を求めず、現場の人間に判断を任せてくれれば、組織ジャーナリストももっと自由に動けるようになると思いますがね。


■善悪、両方を見つめる

石井 
現場に行くと「片方が善で、片方が悪」という二元論的発想も完全に消えますよね。それも現場を取材することの意義だと思います。
『ノンフィクション新世紀』(河出書房新社)の連続講座で松本さんが話してくれた交通事故の記事のエピソードはその好例でした。

松本 
私が駆け出し記者のころの話ですね。

石井 
ええ。
はじめは記者クラブの黒板に張られている紙だけを見て、「トラック運転手が三歳の女の子をはねて、逮捕された」という記事を書く。
しかし、その記事を見たデスクから「現場に行ったのか? 行ってなければ行ってこい」と言われて、一時間以上かけて現場に行って取材をする。
そこではじめて、加害者であるトラック運転手の話を聞き、被害者の家族の話も聞くんですよね。
そして会社に戻って、改めて事故の記事を書くと、はじめの記事ではトラック運転手の名前が呼び捨てだったのに、書き直した記事には知らず知らずのうちに名前に「さん」がついている、という。

松本 
被害者、加害者両方の立場や気持ちを見てしまったから、どうしたらいいのかわからなくなって、その結果両方に「さん」をつけたんだと思います。
その記事を見たデスクの「現場に行けば何かが違ってくるんだ」という言葉は印象的でした。

石井 
場合によってはそれまで考えられていたこととはまったく異なる現実も見えてきます。
たとえば被災地では、被災者が善良な市民とされている。
しかし、中にはヤクザもいるし、ボランティアにセクハラをする人もいるし、ATM強盗をする人もいる。
その人たちが起こしている問題がたくさんあるのに、「被災者=かわいそうな犠牲者」というイメージの前で注意すらろくにできなくなることもある。
イメージ化というのは二元論化に等しいのではないかという気がします。

松本 
ジャーナリストは本来、いいか悪いかという二元論を超えたところで記事を書かなければなりません。
そのためにも、現場に入って両方を見ることが重要になってきます。
伊藤正孝さんは「人間の目は二つあるんだから、二つの面を見ろよ」と言っていた。
現実は決して一面的なものではなく、常に多面的なものなので、特定の答えを決めつけて書くべきではないし、それをやってしまうと安物の決めつけ報道になってしまう。

石井 
善悪二元論を超えるということでいえば、最近別の媒体で〇五年に起きた自殺サイト殺人事件を取り上げることになり、『殺人者はいかに誕生したか』(新潮社)という本を読みました。
著者の長谷川博一さんは臨床心理士であり、凶悪事件を分析をしていて、そのうちの一人として自殺サイト殺人事件の犯人の話が載っています。

その男は小学生のころから人を窒息させることにある種の興奮を覚える異常な性癖を持っていて、それがどんどんエスカレートして、最終的には自殺サイトで出会った男女三人を窒息死させてしまった。
しかも、ある被害者を殺したあとには、親に対して脅迫文を送って身代金を要求したりしている。
自分の欲望を満たすための殺人、そして遺族への脅迫。
これらのことだけを見れば、この犯人はどう考えても非道な悪人です。
しかし、よく考えてみると、彼の性癖が殺人の動機となっていることはわかりますが、性癖と遺族への脅迫は直接的には結びつかない。
なぜそこまでやったのか。
犯人は取り調べや公判ではそのことについて話していませんでした。

でも、長谷川さんにだけは真実を話すのです。
犯人は、その被害者を殺したあと、彼の持ち物の中から遺書を見つけます。
それを読むと、その被害者が長年にわたって親から虐待を受けていたこと、その虐待を苦にして自殺の決意を固めたことがわかりました。
その事実を知った瞬間、犯人の心には殺した相手の親に対する激しい怒りが燃えさかり、脅迫という行為に至ったのです。
では、なぜ被害者の親に怒りを覚えたのかといえば、実は犯人自身も子供のころに親から虐待を受けていたからではないかという話です。

こうした事実は、警察からもマスメディアの報道からもほとんど出てきません。
もちろん、犯人自身が虐待を受けていたことがわかったからといって、彼の行為が許されるわけではない。
しかし、彼が被害者の親を脅迫した本当の理由が見えてくると、「異常な性癖によって殺人を犯し、その遺族を脅迫した極悪非道な犯人」とは違う人物像が浮かび上がってきます。
そうした別の視点を読者に提供することは非常に重要だと思います。


■割り切れない現実をどう語るか

松本 
今の石井さんのお話はひとりの人間に対する多面的な視点になりますが、同じようなことが社会状況に対してもあてはまります。
たとえば、「プロメテウスの罠」の連載で、除染と瓦礫の引き受けをテーマにしたことがあります。
記者は、瓦礫が積まれたままになっている地域の人たちを取材する一方で、瓦礫の受け入れを拒否する地域の人にも話を聞きにいきました。
前者を取材すると「復興のため一日でも早く瓦礫をどうにかしてほしい」「瓦礫の受け入れ拒否なんて、ひどい!」と訴えてきます。
では、瓦礫の受け入れ拒否をする後者の人々は自分勝手なエゴイストなのかといえば、そうじゃない。
後者の人たちは自分たちの地域を守るために、「除染は本当に効果があるのか」「リスクのある瓦礫をわざわざ分散させて、危険を広げるのは間違っているのではないか」と疑問を投げかけてきます。
両者がそれぞれに自分たちの言い分を必死に語ってくる。
そうなると、どちらが善でどちらが悪、とはいえなくなり、担当記者は困ってしまい、場合によっては書けなくなってしまうこともある。

石井 
そんなとき、松本さんはどんなアドバイスをされるんですか?

松本 
どちらかに答えを決めて書く必要はない、といいます。
両方ともが涙を流して訴えかけてくるんだから、両方が語っている内容をきちんと聞いてきちんと書けばいい。
それぞれの立場に言い分や状況があり、その両方が合わさって全体の現状を作っているんだから、その両方をあるがままに書けばいい。
そうすることによって、読者には「状況が混乱し、さまざまな問題が起きていること」そして「この混乱した状況こそ、津波や原発が引き起こした現実であること」を正しく伝えることができます。

石井 
たしかに、答えなんて、そう易々と出るものではないですからね。
だからこそ取材者は、まずは現場に入って、見たこと、感じたことを、そのまままっすぐに読者にぶつけるしかない。
現場の状況をどのようにまとめればいいのかわからなければ、「自分はここまで取材したけど、やっぱりわからないし、答えも出ません」と正直に書く。
そうすると読者も何かを感じてくれて、「じゃあ、どうすればいいんだろう?」と悩んでくれる。
現実を知ってもらい、一緒に悩んでもらうことにこそ、ジャーナリズムやノンフィクションの真の意義があると僕は思っています。

(終了)


「読楽」2013年2月号(徳間書店/2013年1月22日発売)