『蛍の森』という作品を書くきっかけについて、今日はちょっと書いてみたい。

本書のテーマは、ハンセン病患者の四国遍路である。
患者たちは不治の病であり、国が迫害していたハンセン病の治癒を願い、人目から隠れるようにして密林の中にハンセン病患者だけの遍路道(ヘンド道)をつくり、八十八か所の札所を回り続けた。
この道とそこに生きた人々が本書のテーマである。

きっかけは、ある民俗学の本(これも後日書く)を読んだことだった。
ハンセン病患者に対する迫害は、日本という国が犯してきた史上最大級の差別だと言えるだろう。ハンセン病患者たちはその迫害から逃れるように、しかし希望にすがりつくように人里離れた密林の奥で遍路をつづけた。
しかし、その実態は一部の学者と文学者がほんの数行、もしくは本の数ページ触れるだけで、ほとんど記録されてこなかった。

なぜか。

いくつか理由がある。
ひとつに、ハンセン病患者たちが隠れて密林を巡礼していたため、その事実を明らかにしにづらかったこと。
また、ある研究者がいうように、一部のそうした遍路道が被差別部落と接点があったため、そこまで書くと批判を受ける可能性があったこと。
あるいは、ハンセン病患者自身が迫害されており、その事実を満足に語れなかったり、聞き取りをする人がいなかったりすることだ。

これ以外にもいろんな理由があるが、ハンセン病患者の遍路の実態が明らかにされてこなかったことは確かである。
しかしだからこそ、私はそこに光を当てたいと思ってきた。そこに日本という国が犯した最大級の過ち、人間の残酷さ、被差別者の祈りと希望……ハンセン病患者たちが密林につくった遍路道にはそれらのことが恐縮されていると考えたからである。
そして、その後私は海外の貧困地域を訪ね歩く中で、世界の国々で同様の差別がいまだに行われている事実や、ハンセン病患者たちが日本のそれと同様に神にすがるように巡礼を繰り返している事実を知り、ますます形にしたいという気持ちが膨らんだ。
そして二十代のころから折を見て、資料を発掘したり、ハンセン病患者のもとを訪れて直接話を聞いたりして、過去をたどっていったのである。

それと時を前後して、私は二十代で『物乞う仏陀』(文藝春秋)を出して物書きとしてのスタートを切った。
これはアジア八か国の障害者や物乞いを追ったルポルタージュであり、その後も私はノンフィクションを中心にして二十冊ほどの作品を立て続けに世に出してきた。
なぜノンフィクションだったのか。これはまた別の機会に詳しく書きたいが、簡単に述べれば今自分が書かなければならないテーマがノンフィクションであったこと、ノンフィクションの分野で挑戦をしてみたかったこと、若いうちにしかできない「行動」をしたかったことなどがあげられる。

ただし、私はずっとノンフィクションだけをやり続けるつもりはなかった。それは処女作を出してからすぐに発言してきたことだ。いずれ、フィクションをやりたいと思っていた。
実際、処女作を出した後も、大手出版社からフィクションを書かないかという誘いがかなりあった。だが、私はそれを断った。理由は以下である。

・ノンフィクションの世界で自分はここまではやったと思えるようになってから次のステップへ進みたかった。
・トラウマなど特別な経験や思いがない自分は十年間はノンフィクション畑で、他の誰も経験しない体験をつむことでフィクションでもやっていける「体力」をつけようと思った。

などだ。
そして私は三十代の半ばまで約十年間、フィクションの誘いは基本的には断り、ノンフィクションを中心として活動してきたのである。

そうした気持ちに変化が起きたのは、2011年のことだった。

2011年、それは東日本大震災が起きた年である。
この年の三月から私は被災地に滞在し、取材を続けていた。後日『遺体』として上梓する本の取材である。
この本をまさに書き上げようとしていた夏のある日、「小説新潮」編集部のTさんから連絡を受ける。Tさんとは半年ほど前から小説家・万城目学氏の紹介で仲良くなり、それまで2、3度痛飲したことがあった。

たしか二人きりで会ったのは、この日が初めてだった。
夏の日の夜、西新宿の料理屋に呼ばれ、カウンターで酒を飲みながらひとしきり話をした。ひどく暑い夜だった。
Tさんの話の内容は直球だった。
ご本人は恥ずかしがるかもしれないが、私はその直球さに感銘を受けたので書いておきたい。こういうようなことを言われた。

「ぜひ小説を書いてくれ。全身全霊を込めて書けるテーマなら何でもいい。それやってくれるなら、どんな枚数でも雑誌の連載枠を確保する。自分は小説の編集がどうしてもやりたくて、就職浪人して新潮社に入り、やっと少し前から小説新潮編集部に配属してもらえた。自分はこの仕事を全力でやり遂げたいと思っている。ただし、会社員なのでいつまで小説の編集部にいられるかわからない。だから編集部にいられるうちは必死でやりたい。自分も全力でやるので、石井さんもすべてをかけられるほどのテーマで書いてほしい」

大きな目でまっすぐに見つめられて、力説されたのである。
正直、僕は『遺体』の原稿が佳境に入っていて疲れ切っていた。あの作品は本当に書くのが大変で、三月からずっと悪夢にうなされて睡眠薬中毒になるぐらいだった。
でも、だからこそ、『遺体』を書き上げた後、それに匹敵するぐらい全力でぶつかれるテーマをノンフィクションですぐに見つけるのは難しいとどこかで思っていた。
別のテーマが小さく思えるというわけではない。ただ震災の時ほど全力で向き合えるかと言われれば、どこかで計算できてしまう気がしたのも事実だ。計算できてしまえば、作品はどうしても縮こまってしまう。
このままノンフィクションだけをつづけていても、どこかでむなしさを感じたり、消費されていくだけだったりするのではないか。そんな思いがどこかにあったのである。
だからこそ、Tさんに直球で小説を書けと言われたとき、こう思った。

ノンフィクションをやりつづけようと思った十年はもうすぐ過ぎようとしている。
ならば、新しい挑戦を一からやるべきではないか。
ノンフィクションとフィクションを両方やりながら両者を活力にして次のステージへ進みたい。
Tさんなら信頼にあたる。

そして、その時にいくつかのテーマが頭に浮かんだが、その一つが今回の『蛍の森』であることは言うまでもない。
『蛍の森』は完全なノンフィクションとして描くのは非常に難しい。証言者が少ない、密林にあった遍路道をすべて探し出すことは不可能、証言をそのままノンフィクションとして書いてしまえばハンセン病患者、あるいは上記のような被差別部落の問題も含めて様々な障壁にぶつかってしまう……。
ならば、完全なノンフィクションというより、今まで自分が取材をしたり調べたりしてきたことをもとにしてフィクションの形で描いた方が、ずっと「真実」に迫れるのではないか。

『遺体』を上梓して間もない11月。
私は『新潮45』編集部のWさんと、そして『小説新潮』のTさんの三人で、今度は東新宿の中華料理屋で会った。
そこで話し合った結果、『蛍の森』のテーマで行くことが決まり、Wさんからも資料等で協力してもらえることになり、そして月末にはTさんと二人で四国へ取材旅行のために飛ぶことになった。
(しかも、偶然にもTさんは大学時代に民俗学を勉強しており、四国遍路を何度もしたことがあった!)

こうして取材、物語の構想、そして執筆がはじまったのである。

その詳細については割愛するが、正直に言ってTさんの本気の取り組みには脱帽した。
私も『遺体』の後の作品に関しては、『蛍の森』をすべて優先して全力を尽くしたつもりだが、Tさんの作品に向き合う熱意と的確な意見には何十回も姿勢を正された。連載終了後から単行本化に至る過程の最後の最後までつづいた。
それは途中から単行本担当として加わってくれたKさんについても同様のことが言える。いつもTさんと二人であれこれと相談をし、意見をぶつけてくれた。それはほぼすべてにわたって驚くほど核心をついていた。
そしてそれは編集者ばかりでない。校閲者も同じだ。

以前私のツイッターで以下のような記事が大反響を呼んだのを覚えているだろうか。ニュースにもなったツイートだ。

http://matome.naver.jp/odai/2136766411643129901

これは『蛍の森』の雑誌連載時の校閲である。
文芸誌という、お世辞にも一般読者にはそれほど読まれない雑誌ではあるが、そこに掲載する一文に、どれだけ編集者や校閲者の情熱がかけられていることか。

私は『蛍の森』を書いている間、ずっとそれを感じさせられ、自分がそうした舞台で仕事をしているありがたさをつくづく感じた。
『蛍の森』を、みなさんがどう読まれるのかはわからない。だが、私にとっても、編集者にとっても、校閲者にとっても、全力で取り組んだということは自信を持っているし、それゆえ私としては読んで頂きたいという気持ちが心からある。

どうかご一読いただけたら嬉しい。


今後はフィクションとノンフィクションを交互にやっていきたいと思っています。
フィクションでは、ノンフィクションとしてはできないが、ノンフィクションとしてやる以上に「真実」を描けるものを常にテーマとしていくつもりです。