前回のブログ記事で、『蛍の森』の構想は、学生時代にある本を読んだきっかけで得たと書いた。
今回は、それについてちょっと具体的に書いてみたい。

ある本とは、ご存知の方も多いと思うが、民俗学の名著『忘れられた日本人』である。
昭和の時代に宮本常一が日本各地をまわりながら、そこでの出会いや聞いた話を書き記しているもので、その一つに「土佐寺川夜話」という話がある。
ある日、高知県の寺川にある森を歩いていた。その時、偶然に薄暗い森の向こうからハンセン病患者が現れた。次はそのことを記した一文だ。

「原生林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。
しかし一見してそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を着、肩から腋に風呂敷包を襷にかけておりました。大変なレプラ(ハンセン病)患者なのです。
全くハッとしました。細い一本道です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。
すると相手はこれから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので、陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分からないと答えました。
そのうち少し気持もおちついて来たので、『婆さんはどこから来た』ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ』と聞きとりにくいカスレ声で申します。
老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。私は胸のいたむ思いがしました」

四国の深い森の中に、遍路が通る道とは別に、ハンセン病患者たちが遍路をするための道があるというのだ。
学生だった私はそれが気になって、この歴史を調べるようになった。すると、こうしたハンセン病患者たちがつくった山道は「カッタイ道」と呼ばれていたことがわかった。カッタイとは物乞いやハンセン病を示す差別用語である。現代風にいえば、「物乞いをするハンセン病患者の道」ということになる。

(「ヘンド道」と呼ばれることもあった。ヘンドもまた物乞いを示したり、病気を患った遍路に対する蔑称としてつかわれてきた歴史がある)

あまりにひどい呼び名だが、当時はこれがむしろ自然だった。
国はハンセン病は人に容易に感染するものと誤認して、国家をあげた患者の隔離政策を行っていた。警察や保健所の職員がハンセン病患者をつかまえて、療養所へ閉じ込めていたのである。
一般市民も、病気の症状があまりに悲惨だったこともあって必要以上に恐れ、時には「因果による病気だ」と考え、密告や迫害に手を貸すこともあった。
(これは、戦後の時代までつづいた。隔離政策を許した「らい予防法」が廃止されたのは1996年である)
このような時代背景の中で、ハンセン病患者たちは身を隠しながら、必死に病気の治癒を願って、あるいはより良い来世を願って、森の中を歩いて八十八か所の札所を巡礼していたのだ。

学生だった私は、こうした歴史を探っていくうちに、当事者たちの名前の声を少しでも知りたいと思うようになった。
もちろん、差別の歴史と実態を知りたいという気持ちが基本である。だが、それ以外にもっと立体的に現実を見聞きしたいという思いもあった。
ハンセン病患者とて人間である。差別にさらされた被害者としての一面もあれば、欲を持った人間という一面もあるだろう。あるいは仏にすがることだけを練って巡礼をする者もいれば、途中で何かしらの悪意が芽生える者もいるかもしれない。また、山中を巡って生きていく中では、きれいごとでは済まない状況は多々あったにちがいない。
そうしたことをすべて含めてハンセン病患者の行っていた遍路という「巡礼」の実態に目を向けてみたいと思った。
人間が人間を虐げるとはどういうことなのか。その中で被差別者が生きるということはどういうことなのか。彼らが山中ですがりつこうとした希望というのは何だったのか……。
それで二十代から資料だけでなく、実際にハンセン病患者に会いに行って話を聞いてみたり、海外の同じようなケースを調べてみたりするようになったのだ。

そうやって調べたことをベースにして、新作『蛍の森』は書かれている。
逆に言えば、一部の内容はフィクションという形でしか書けなかったという事情もある。
その部分がどういうところであるか。それについては、各々が本書を通して考えていただけたら嬉しい。
いずれにせよ、十年来私が追ってきたテーマの作品化であることは事実だ。