石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

カテゴリ: 日々のこと

あけましておめでとうございます。

昨年はみなさまのおかげで、ノンフィクション、小説、児童書、そして文庫本とたくさんの本を出すことができました。
心から感謝致します。

今年は、昨年で連載が終了した『世界の産声に耳を澄ます』(本のタイトルは変更する可能性あり)という世界のお産ルポの単行本化をはじめとして、いくつかの本を刊行、また連載企画も複数スタートする予定です。
新連載のノンフィクションだけでいえば、「小児の難病」「難民」「少年事件」「原爆」をテーマにした連載が春頃から次々とスタートする予定です。もちろん、それ以外も複数新しい連載がスタートする予定です。

そして、それとは別に、僕は毎年、何かしらに「挑戦」することにしています。
昨年は児童書のシリーズを3冊同時刊行、海外を舞台にした長編小説の刊行と、新しい試みをしました。
今年も、それに負けじと劣らぬ、そしてまたこれまでとはちがう挑戦をいくつか用意していますので、楽しみにしていただければと思います。
成功しても、失敗しても、全力でそこにぶつかっていくから、何かしらのものが見えてくるし、次につながると確信しています。
良いところも、悪いところもさらけ出し、それでも前に突き進んでいきますので、どうぞあたたかく見守ってください。

そして、ついに、僕も今年で40歳です。
40歳には30歳前後の若々しさはありませんし、5、60歳の円熟味も持ち合わせていません。
しかし、そのぶん、強烈な大砲をいくつも社会に向かって撃ち込める年齢だと思っています。
40代の10年間、僕なりに、やるべきことを全身全霊を込めてやっていきますので、応援のほどをよろしくお願い致します。

最後になりましたが、今年がみなさんにとって最良の年になるよう、心から願っています。



石井光太

12月22日発売の『小説宝石』(1月号)で、ライターの瀧井朝世さん(@asayotakii)による『砂漠の影絵』(光文社)についての著者インタビューが掲載されました。
版元と瀧井さんの了承の上、こちらに転載させていただきます。
なぜイラクの日本人人質事件をテーマに長編小説に挑んだのか。その思いを述べています。


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――石井さんの小説第二作『砂漠の影絵』、もう夢中になって一気に読みました。エンターテインメント小説として見事ですが、題材は実際にあったイラク人質事件です。なぜこのテーマを小説という形で書かれたのでしょう。

イスラム過激派組織による事件って、世界の構造を変えましたよね。
それまでは国家と国家、軍隊と軍隊が戦っていたのが、9・11以降はテロ対国家という構図になり、少数の人がテロや人質を使って国家を動かすようになった。
その歴史のエポックメイキングな変化を何らかの形で表現しておきたかったんです。
でも、ずっとノンフィクションを書いてきたとはいえテロリストに会いに行って人質になるわけにはいかない。
小説だったらテロリストの立場からも、人質の立場からも、それを批判する人たちの立場からも書けると思いました。

――物語の主軸は二〇〇四年、イラクのファルージャで日本人五人が“首切りアリ”が率いる武装組織に拉致された事件の顛末です。実際にあったどの事件が念頭にありましたか。

最初は二〇〇四年の香田証生さんがザルカウィの組織の人質となって殺害された事件をモデルにするつもりでした。
でも集団が捕まる設定のほうがいろんな関係が書けると思い、複数が人質になる話にしました。
二〇〇七年にアフガニスタンで韓国のキリスト教の集団が拉致された事件や、チュニジアでの銃撃事件などが頭にありましたね。

――拉致された五人は一室に監禁され、心理的に追い詰められていく。そこで人間として醜い部分も見せるし、壮絶な場面もあります。

五人のなかにジャーナリストは当然入れるとして、日本の企業の対応が書けるので商社マン、公務員はどう動くのかということで外務省の職員も出しました。
恋人に会いにイラクに来た二十二歳の女性は、香田証生さんの立場に当たります。
韓国人の集団が頭にあったので、クリスチャンでNGO活動をしている看護師の女性も出しました。
いろんな立場を象徴する五人にして、重層的にしたかったんです。
ノンフィクションだと実際の人物の言動をそのまま書くことしかできないけれど、小説上の人物の場合はうんと負荷をかけて、読者に「あなたならどう思うか」を問いかけられますから。

連載第一回を書き、掲載誌の発売まで数日という時にイスラム国に日本人二人が拉致されたというニュースが流れたんです。
それで、単行本にする際にプロローグとして現代の話を書き加えました。
ザルカウィの残党がイスラム国を形成しているので、触れないわけにはいきませんでした。


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――新たに取材はされたのでしょうか。

これまでのノンフィクションの仕事で実際に行ったり、取材して得た知識が基になっています。
たとえば最初のほうでタイ人の人質が殺される場面は、実際に殺されたネパール人がモデルです。
イラク戦争の時のアメリカ基地では、働き手が足りないのでネパールなどから貧しい人を雇っていたんです。
直接雇うことができないので間にインドやサウジアラビア、ドバイなどの会社をいくつも介在させ、給料も天引きしていた。
で、そうした人たちが拉致されたら、彼らは見捨てたんです。
それでネパール国内で反有志連合のデモが起きた。
僕はデモがアメリカ大使館を囲んでいるところに居合わせました。
パキスタンではペシャワールでタリバンと同じ民族の人たちに話を聞きました。
彼らからすれば「ビン・ラディンのやったことはひどいけれどアメリカがやっていることはもっとひどい」。
難民は難民でまた違うことを言うので、それらをまとめたくて、こんなに分厚い本になってしまいました(笑)。

――武装集団の動きが描かれるほか、アリが自らを語る声明も挿入されますね。パレスチナ難民の孤児である彼の生涯の物語も読み応えがありました。

香田さんを殺害したザルカウィをアリのモデルにするのが自然なんでしょうけれど、彼の思想はともかく、ヨルダンで生まれ育ったその人生は、かならずしも中東全体の問題を象徴しているわけではない。
それよりもっとアラブ人一般の考えを象徴する人物にしたかった。

中東の問題の根底にはあるのはパレスチナですよね。
だからアリはレバノンでパレスチナ難民が虐殺された事件の犠牲者の子どもという設定にしました。
後にアフガニスタンに行ったのはザルカウィと同じですが、アリにはアラブ人の多くが持っている反欧米感情をインプットしました。
欧米がバックアップしてイスラエルが入植して以降、アラブ人たちは追い出され、それに対して文句を言うと殺されてきた。
しかもさまざまな利権をイスラエルが持っていってしまう。
欧米はそれを黙認している。アラブの人たちには、そこに対する怒りがあるわけです。

普通に暮らしている人たちは不満を抱えながらも「平和が大切だよね」と言って大ごとにはしていない。
でも社会からあぶれたり、イスラエルに家族を殺されたりした難民や孤児たちは我慢できる範囲を超えてしまい、それがテロに結びついている。
特にパレスチナ難民二世三世が抱いている大きな矛盾は描いておきたかったんです。

――最初は恐ろしい存在だったアリも、生い立ちが分かると生身の人間に見えてくる。ただ、人は互いにとっての正義があまりにも違うから衝突するんだとよく分かります。

そう、それぞれ生まれた土地によって、違う正義を持っているんですよね。
本の中では人質の優樹が「日本もアメリカに叩かれたけれど黙っていた、我慢したから日本は繁栄した」というようなことを言いますよね。
クサイにしてみたら「自分たちも耐えた、だから難民キャンプに行った。
そうしたら虐殺された」ということです。
「黙っていても殺されるんだったら損だ」となる。
日本は運がよかったんです。
パレスチナ難民だってタリバンの人たちだって、みんな最初は黙って我慢していた。
にもかかわらず殺されたから立ち上がるしかなかった。
彼らからするとそれはやむをえないことなんです。

――テロリスト側のパートはアリではなく部下のクサイの視点で描かれますね。また、少年・少女兵たちの存在も強烈でしたが。

アリの視点で書くと客観性がなくなって、アリを慕っている人たちの気持ちが分からなくなってしまう。
クサイの視点にしたほうが、彼らがなぜアリの突拍子もない命令に従うのかが伝わると考えました。
少年兵には以前取材したことがあるんです。
その時に思ったのは、これが日本だったら不良になる程度ですむということ。
日本にはそういう悪のセーフティネットがある。でも彼らの国では社会からこぼれ落ちたら、簡単に少年兵になってしまうんです。
ただ、ここでは可哀相な子どもだけを書くつもりではありませんでした。
取材をしていると、殺人鬼でありつづけるのを願う子もいるんですよ。
捕虜にして更生施設に入れて街に戻しても、施設を出たとたんに武装集団に戻ってしまう。
社会からこぼれ落ちたところにしか自分が活躍できる場所がない、という人っている。
それがこの世界の人間の面白さでもあるのかなとは感じています。

――テロリスト集団にも様々な人がいますよね。アリが率いる集団も一枚岩ではない。物語の最初のうちから副官ユニスが何やら企んでいるふしがあって、不穏ですよね。

たとえば自由シリア軍にも、分派が無数にあるんです。
戦争ってやっぱりきれいごとではなくて、ひとつの集団がひとつの方向に向かっているかというと全然そんなことはないんですよね。
集団の中でも喧嘩したり分裂したり再統合したり何回も名前を変えたりして、入れ替わりも激しい。
武装集団というと考え方が統一されたブラック集団というイメージを持つ人も多いけれど、全然そんなことはないんです。

いろんな考え方や利権争いがあってひとつにまとまらないのは日本政府もそう。
本当なら身代金を払って助けたいのに、なぜ助けないのかというと国際関係があるからです。

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――その日本側のパートに関しては、商社勤務の人質、橋本優樹の夫妻の友人である新聞記者の白木奈々が視点人物になりますね。人質の家族の反応、マスコミの対応、沸き起こる「自己責任論」の騒ぎを彼女は目の当たりにすることになる。

家族の視点だけでは狭くなるので外の目も入れたかったんです。
両者を俯瞰できるのはメディアの人間ですよね。
それと、あの時に自己責任問題が噴出しましたが、どの立場から見たら一番考えさせられるのかを考えました。
家族が犠牲になるのも評論家が文句を言うのも想像つく。
じゃあそれを発信しているメディア側はどう思っているのか。
奈々には過去に取材で人を自殺に追い詰めたことがあり、自身もそれで一回病んでいる。
その罪悪感を抱えながら、知人家族に対し自己責任だと言えるかどうか。言えないならどういう行動に出るのか。

僕は、すべての人間が社会問題と関わり合いがあると思っています。
虐待問題だっていじめ問題だって、同じ社会で生きているという形で関わっている。
でも、「当事者がいけない」と言った瞬間、問題を自分から切り離せるんですよね。
人質事件の時だって、デモをしたり国に訴えたりして活動することはできた。
それが面倒くさい時、「あの人たちの責任でしょ」と言えば自分たちの責任が切り離されたように思えた。自己責任という魔法のアイテムを使うことによって、多くの人は責任回避しているんです。
でも、「誰かのせい」というのはまさしく「自分のせい」ですよ。

――確かに。奈々は責任回避するどころか、なんとかして、どこかから身代金を捻出させようと一計を案じますね。

今のイスラム国もそうですが、フランスやドイツのように身代金を払ったという国がある一方で、日本のように政治的な関係でそれができなかった国もある。
そうしたことを含めて身代金の交渉については書くつもりでした。
ただ、金額の問題だけでなく、テロリスト側のタイミングもあるんですよね。
ここではアリとユニスが対立して状況が変わっていくなかで、彼らが交渉に応じる時もあれば応じない時もある。
本当に紙一重です。運命のいたずらとしかいいようがない。

――でも、もし助かったとしても、殺されしまった人たちへの罪悪感は残りますね…。

遺された人が罪悪感を抱くのは震災だけじゃないんですよね。
こうした事件もそうだし、交通事故ですら遺された人たちは「気を付けて」と言わなかった自分を責める。
そういう重みは絶対ある。香田さんのご両親も、背負っていかなければいけないものがあったと思う。
この物語でも、生き残る人がいるとしたら重いものを背負うことになるのは分かっていました。

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――香田さんの事件は、石井さんにとっても大きなものでしたか。

あの時、ちょうど外国にいたんです。
行く先々で「日本人が亡くなったよ」と言われ、ニュースを見た時に、一歩間違えたらこうなっていたなと、自分を投影しました。
彼は年齢も僕と少ししか違わないし、僕も同じように外国をふらふらしていましたから。
新聞社の記者だったら取材先で死んだことになる。
でも僕や香田さんのような人間は、大志を抱いてそこに行っても、何かあれば自己責任だと言われるんだと思いました。

――もしも自分が捕まったらどう振る舞うだろうか、などと考えますか。

今回、書きながらずっとそれを考えていました。
僕は普段、冗談を言って笑っていたいタイプなので、強がると思う。
それが精神のバランスを保つ方法なので。
それと、伝達手段が限りなくゼロに近いなかで、何をどう残せるかも考えました。
それで、この本にも書きましたが、もしも伝えられる手段があるならば、「彼らを恨まないでくれ」と言い残すだろうと思って。
彼らも悪い人間じゃないなんていう奇麗ごとを言いたいのではなく、自分の死を正当化したいからなんですよ。
自分の死を肯定したい、国際問題の中で意味を持たせたいという気持ちからです。
実際は無駄死にかもしれませんが。

――さて、ここまで密度の濃い小説を書き上げてみて、今の感触は。


小説のほうが達成感がありますね。
ノンフィクションって、書いた後も解決できないと目に見えていることも沢山あるけれども、物語はすぱっと終わらせることができますから。
書き上げた感があります。

――石井さんは書くならノンフィクション、というこだわりがないですよね。今回とても面白かったので、今後完全なフィクションも書かれたらいかがでしょうか。

こだわりはないですね。
いわば人間オタクで、ある状況の中で人間がどう動き、考え、感じるのかを知りたいし、そこにある感動を人に伝えたいんです。
だからノンフィクションでも小説でもいいんです。
でも自分の場合、小説でもある程度事実に基づく題材を求められていますよね。
僕がいきなりSFを書いたって誰も読まない(笑)。
ただ、今後は一年に一本くらいのペースで書いていけたらとは思っています。

(インタビュー:瀧井朝世、初出:「小説宝石 1月号」)


本日、学校司書の方々の前でお話をさせていただきました。
その際に、「僕にお勧めの本を教えてください」と言ったところ、学校司書の方々がいろんな本を勧めてくださった。
それを掲載したいと思います。

ちょっと多いので、わけて紹介しますね。まずは第一弾。(順不同)

『太陽の草原を駆けぬけて』(ウーリー・オルレブ)
『父さんの手紙はぜんぶおぼえた』(タミ・シェム=トヴ)
『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』(タミ・シェム=トヴ)
『MAGNUM CONTACT SHEETS(マグナム・コンタクトシート) 写真家の眼―フィルムに残された生の痕跡』(クリステン・リュッベン)
『科学者と戦争』(池内了)
『16歳の語り部』(雁部那由多、津田穂乃果)
『片手の郵便配達人』(グードルン・パウゼヴァング)
『子どもたちの遺言』(谷川俊太郎)
『ワーキング・ホリデー』(坂木司)
『カインの末裔』(有島武郎)
『生まれいずる悩み』(有島武郎)
『東京會舘とわたし』(辻村深月)
『島はぼくらと』(辻村深月)
『クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々』(ドロシー・バトラー)
『ZOOM』(イシュトバン・バンニャイ)
『水はみどろの宮』(石牟礼道子、 山福朱実)
『郊外少年マリク』(マブルーク・ラシュディ)
『ゲルニカ』(原田マハ)
『みをつくし料理帖』(高田郁)
『きみの膵臓を食べたい』(住野よる)
『NO.6』(あさのあつこ)
『MANZAI』(あさのあつこ)
『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』(高山文彦)
『柄本明「絶望」の授業―課外授業ようこそ先輩』(柄本明)
『図書館ノート―沖縄から「図書館の自由」を考える』(山口真也)

『「鬼畜」の家〜わが子を殺す親たち』が、順調に増刷しています。
以下のようなポスターも作成されました。
児童虐待という問題が、「親=鬼畜」という単純な図式で描かれてほしくないという思いを込めて書いた本なので、それが少しでも広まればと願っています。
(だから、「」で鬼畜というタイトルになっているのです)


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さて、今回は、執筆に当たっての葛藤について書きたいと思います。

本をご覧になった方はおわかりになるかと思いますが、本書の核となっているのは、三件の児童虐待事件の加害者である親が語った次のような言葉です。

「私なりに愛していたけど、殺してしまいました」

拘置所で面会を重ねたりするなかで、この「私なり」というのが、胸にひっかかりました。
我が子を残虐な方法で殺しておいて、愛していたとはどういうことなのだろう。
「私なりの愛」、とは一体何なのか。
私はその答えが、彼らの成育歴にあるのではないかと思う。
そして、虐待家庭の家系を三代にまでさかのぼって、その要因を見つけようと考え、一族への取材をするのです。

詳しくは本書をお読みいただきたいのですが、ここから見えてきたのはあまりに悲しい彼らの人生でした。
そして、そこが本書の一番重要な部分ともなる。

しかし、それと同時に私の中で非常に大きな葛藤が生まれました。

虐待親たちの悲しい人生に目を向ければ、彼らに対する「同情」の感情が芽生える。
正直に言えば、彼らなりにけなげに生きようとする姿に、「いとおしさ」のようなものまで感じてしまうこともありました。

一方で、彼らはあくまでわが子を信じられないような残酷な方法で殺害した殺人者でもあります。
虐待親を擁護するということは、殺されてしまった子供たちの死を肯定することになりはしないか。

それまでは、加害者である親を「鬼畜」と捉えて、批判していれば楽だった。
しかし、加害者である親のことを知れば知るほど、それができなくなり、かといって彼らの行為を認めることもできずにもがき苦しむようになるのです。

通常、本と言うのは、ある程度どちらかの立場に感情移入して書きます。
100%味方につくというわけではありませんが、ある程度意図的にどちらかに感情を込めなければ、物語としてのカタルシスを作り出すことができないのです。

たとえば、難民の女の子が売春していれば、その女の子に感情移入するからこそ、カタルシスが生まれる。
もし、「いや、売る方も売る方だし、買う方も買う方だよ」と言ってしまえば、それで終わってしまう。
著者が自分の名前で売る「本」には、どうしても著者の感情から生まれるカタルシスが必要なのです。

しかし、今回は、加害者の立場になっても、被害者の立場に立っても、見えなくなってしまう事実がたくさんある。
では、どう書けばいいのか。

その結果出した結論は、故意にどちらにも感情移入はしない代わりに、加害者の成育歴を掘り起こせるだけ掘り起こしてみようということでした。
そうやって得た事実を、「ナマの素材」のままどさっと読者にお渡しして、その重みや、においや、悲しみを感じてもらおう。
その戸惑いや葛藤といったものこそが、児童虐待事件の本質であり、それを読者につたえなければ、本当の意味で虐待事件を描くことにはならないのではないか。
そう考えたのです。

そのため、読者のみなさんは、おそらくこの本を読んで、ものすごく重いモノを渡された気持ちになると思います。
そして、事実を知ってカタルシスを得るのではなく、その重いモノとどうやって対峙していくかを問われるはずです。
もっと言ってしまえば、本書を読んで、読者がどう思うのかが問われるのです。

・それでも加害親を「鬼畜」だと考えるのか。
・加害親に同情するのか。
・だとしたら、殺された児童の気持ちをどう考えるのか。
・そして、貴方は、この問題にどう取り組むのか。
・あるいは、貴方は子供にどう接するのか。

こうしたことについて、私個人として考えていることもあります。
その話については、トークイベントや、インタビューなどで、随時語っていければと思っています。


★『「鬼畜」の家』の発売に際して、9月2日、9月11日にトークイベントを行います。
以下をご覧ください。
http://kotaism.livedoor.biz/archives/52024240.html





今回、虐待事件を取材していて、裁判でもメディアでも常に問題となっていたのが次のことでした。

「なぜ、事件は未然に防げなかったのか」

事件が発覚すると、かならずと言っていいほど問われることです。
そして、今回の三件すべてにおいても、一様にこのことが議論になりました。
その結果、児童相談所の判断の甘さ、システムの未整備などが理由として挙げられ、まるで吊し上げのように謝罪を強いられました。

もちろん、児童相談所にまったく落ち度がないとはいいません。
しかし、私が実際取材をしていて感じるのは、児童相談所にしても市にしても、すごくよくやっているということです。
厚木市の齋藤理玖君の事件、そして下田市、足立区の事件においても、すべて事件前に児童相談所や市が介入しています。

では、なぜ未然に防げなかったのか。
某児童相談所の元所長さんは、次のように語っていました。

「事件を起こす家庭の親っていうのは、児童相談所ではマークしながらコントロールできていると思っている人なんです。1〜5までリスクのレベルがあるとしたら、高リスクの4、5の人ではなく、低リスクの1とか2ぐらいの人が事件を起こす。ごく普通で、仕事もしていて、周りからの評判もよく、子どもを愛しているという家庭。それが、私たちには想像もつかない理由で起こすんです」

その時、市役所で福祉の仕事をしている方が、そうそう、と言ってこんな例を紹介してくれました。

Aさんという独居老人がいた。アパート暮らし。
彼女は痴呆もないし、受け答えも立派だし、これまで特に事故を起こしたことがあったわけでもないので安心していた。
ただ、一応、事故を起こさないようにと、コンロをIHに変えるなど様々な予防策をとったうえで、家庭訪問も定期的に行っていた。

ところが、ある日、Aさん家から火があがり火事になってしまう。
住んでいたアパートは全焼。Aさんはかろうじて一命は取り留めた。
あれだけ予防をしたのに、よりによってなぜAさんの家が火事になったのか。

原因を調べてみると、Aさんはこう言った。

「寒かったんです。だから、オーブントースターを布団の中に入れて寝ていたんです。そしたら布団に火がついて火事になりました」

市役所の人は、考えられる範囲ですべての予防策をしたつもりだった。
だが、さすがに寒いからと言って、オーブントースターを布団に入れて寝るようなことをするとは思わず、オーブントースターはそのままにしていた。
それが原因で火事になってしまったのだ。

この例からわかるように、事件の多くは、「想定外」のところから起きます。
児童相談所にしても、市役所にしても、マニュアル通りに動いてきちんと対処している。それでも事故が起きてしまうのは、「想定外」のことが、現実の中に起こるからなのです。

同じことは児童虐待においても当てはまります。
厚木市の事件、下田市の事件、足立区の事件、ともに児童相談所が事件前に介入している。
厚木市の事件、下田市の事件の犯人は、仕事の上では本当にちゃんとやっていて評価の高い人たちだった。
にもかかわらず、事件を未然に防げなかったのは、本書でも述べたように、犯人たちが本当に子供たちを「愛」していて、「想定外」の行動をとったからなのです。

足立区の取材をしていた時、区の某関係者がこう語っていました。

「児童相談所は、事件のあった家にくり返し家庭訪問を行い、県をまたいで追跡をしていた。そういう意味では、本当によくやっていたと思う。けど、まさか犯人があんなふうに子供の死を隠しているとは思いもしませんでした」

読んでいいただいた方はわかると思いますが、まさに「想定外」のことが起きていたのです。
齋藤幸裕の住んでいた家、高野愛の妊娠を否定する驚きの言葉、皆川夫婦が子供を隠すためにしたこと……。
しかし、同時にその「想定外」まで未然に防いでいかなければ、なかなか事件を減らしていくことはできません。
それは、自治体や児童相談所のマニュアルにそった取り組みだけではなかなか難しい。
マニュアルの中には「想定外」まで含まれていないからです。だからこそ、違った考え方での取り組みが大切になってくる。
本書を通して、そうした事実も提示できればと思っています。



★『「鬼畜」の家』の発売に際して、9月2日、9月11日にトークイベントを行います。
以下をご覧ください。
http://kotaism.livedoor.biz/archives/52024240.html




『「鬼畜」の家〜わが子を殺す親たち』の発売に際して、これから何回かにわけて取材の思い出を書いていきます。

最初は、よくインタビューで聞かれる「取材のモチベーション」です。

今回この児童虐待をテーマにしたのには、いくつか理由があります。

まず、親に殺された子供の数が、巷で言われている以上になることを知りました。
警察の発表では、毎年六十人〜百人が殺されているとされますが、日本小児科学会の推計では、一日一人の子供が親に殺されていて、その六割から八割が闇に葬られているとされたのです。
それとほぼ同時期に、「居所不明児童」の問題が日本を席巻しました。行方が分からない子供が日本に百人以上いるということが報じられたのです。

この二つを知ったとき、私はこれまで自分が虐待に対して目をそらしていたことを認めずにいられませんでした。
虐待のニュースは、ほとんど毎週のようにマスメディアを駆け巡っています。そのたびに、私は、「なぜ実の親が子供を殺すのか」ということに疑問を抱いていた。
しかし、同時に「どうせ鬼畜のような親なんだろう」と思って、それ以上深く探ろうとはしませんでした。事実を見るのが怖い。だから、わかった気になって目をそらしていたのです。

ところが、一日一人の子供が殺されていて、多数の児童が行方不明のままになっている。
そのことを知った時、犯人の親を「鬼畜」と考え、問題から目をそらしつづけることに、罪の意識を覚えずにはいられなかったのです。
そして、このテーマに取り組まなくてはと思い、雑誌で連載をはじめることを決めました。

取材開始時点では、事件ルポですからすでに被害者の子供たちは殺害されていました。
そのため、親たちが子供たちを殺すプロセスを明らかにするところからの取材になりました。

正直、犯人と話をしていても、親族と話をしていても、心が引き裂かれるような気持ちの連続でした。

たとえば、厚木市事件の犯人は、齋藤幸裕です。
その長男・齋藤理玖君(三歳)は、二年間も真っ暗な部屋に閉じ込められ、ネグレクトの末に寒さと飢えで死んでいきます。
その時、理玖君は一人でドアに向かってこう叫んでいました。

「パパ、パパ、パパ……」

そして、死体はゴミ屋敷と化したアパートに放置。
七年間も、そのままにされて発覚しなかったのです。

理玖君の気持ちを思うだけでたまらなくなりました。
闇の中で死んで行き、そしてミイラとなった後も、放置されつづけていた理玖君は、何のために生まれてきたのか、と。

でも、だからこそ、私は理玖君のために、彼が生まれてきた意味を見い出してあげたかった。
せめて彼の小さな命の記録を、書物の中に活字として残してあげたかった。
悔しさ、悲しさ、孤独すべて含めて生きた証を記したい。
そういう気持ちから、私は歯を食いしばって取材を進つづけたのです。

やがて、私は事件を追う中で、ある大きなテーマを見つけます。
それは後に本書のテーマとなる、犯人たちが一様に口をそろえて言った言葉です。

「私は子どもを愛していました。宝のように育ててました。それでも、殺してしまったのです」

愛していたのに、殺した……。

信じられない言葉ですが、取材を進めれば進めるほど、その言葉が真実だったということが明らかになってくる。
そして、私はこの言葉の意味を確かめるべく、さらに事件の深淵へ足を踏み入れるのです。





先日、某所で講演会をしたら、中学生の子が小学生の妹と一緒に聞きに来てくれていました。
そのブログが以下。

http://blogpurplepuppycollectorme.tumblr.com/post/134716732720/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%85%89%E5%A4%AA%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E3%82%92%E8%81%9E%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F-part2

この子から、ツイッターでブログを紹介されたので、あえて僕もブログでお返事します。

君は、「今の学校でそれが学べるとは思えない」と書いています。
僕は、それが当然だと思います。これは、学校で教えてもらうのではなく、君が学校へ行って身につけることなのです。

君はこう書いています。

>学校は周囲の空気を読み、婉曲な表現が好まれ、
>暗黙の了解が多く、言語化せず、白黒はっきりつけない方が
>美徳だという精神がある気がする。

きっとほとんどの学校がそうです。昔も今も、たぶんこれからも。
けど、これは何も学校にかぎったことではありません。おそらく、多くの家庭でも、会社でもそうなのです。

だからこそ、君は、いま、自らの言葉で語る力をつけるべきなのです。
学校が変わることを期待してはいけません。学校に教えてもらうことを求めてもいけません。
もし君が本当にそうなりたいのならば、学校という息苦しい空間でそれを身につけなければならないのです。
「空気を読み、婉曲的な表現が好まれ、暗黙の了解が多い」空間だからこそ、君は苦しみながらも、自らの言葉で意思を発せられる力を身につけることができるはずですし、そうしてつけた力だからこそ将来役に立つはずなのです。
もし学校の先生が簡単にその術を教えてくれるだけで身につけられることだったり、学校が自由で何でもものが言える空間であれば、真の力はつかないし、そもそもつける必要もほとんどないでしょう。

なぜ、その力を今身につけなければならないのか。
それは、先ほど書いたように、社会だって学校と同じだからです。つまり、社会だって、「空気を読み、婉曲的な表現が好まれ、暗黙の了解が多い」場所なのです。
君が学生時代のうちにきちんと声を発する力を身につけることができれば、社会に出た時に、その力をもってきっと人生を切り開いていけるはずです。
僕が「学校で自己解決するためのコミニケーションを学ぶべき」と言ったのはそのためなのです。

だからこそ、僕は君に、学校の先生にパッと教えてもらうのではなく、しっかりと自分でもがきながらその力をつけてほしいと思うのです。
もっともすべての人が学生時代にそれを完璧に身につけられるわけではありません。たぶん、社会に出てからも少しずつみがいていく力なのです。
そう受け止めていただければうれしいです。



追記
スラムから抜け出せないで、またもどっていってしまう気持ちを、理解するのは難しいかもしれませんね。
けど、君のお母さんだったらどうでしょう?
君の家族が貧しくてスラムに住んでいたとしましょう。
ある時、君のお母さんがたまたま大金を手にした。それは自分一人だけがスラムから抜け出せる金額だった。さて、お母さんは君をスラムに置き去りにして一人で豊かな暮らしをすると思いますか?
たぶん、そうしないと思います。
そういうことです。


昨年春に起きた以下の事件について、二週間ほど行われた公判が終わり、判決を待つまでとなりました。
後日『新潮45』に事件ルポをまとめますが、せっかくなので、こちらで公判によってわかったことを書き記してみます。
今回は事件の経緯を書きます。

(ニュース記事http://sysj.net/atugi/

事件の容疑者は、斎藤幸裕。
神奈川県内で、三人きょうだいの長男として生まれ育ちます。
小学六年生のとき、母親が統合失調症になり、重い症状が現れるようになります。
ろうそくを部屋にいくつもともして「悪魔が来る」などといってグルグルと回るなどいった異常行動です。
幸裕はそうした母親の姿を見て育ったことによって、自分は「嫌なことをすべて忘れる性格になった」と証言しています。
実際後の裁判で、幸裕は過去のことをまったくといっていいほどおぼえていないような発言を繰り返します。

ちなみに、幸裕のIQは69と低いですが、県立高校の普通科を卒業しています。
高校時代の趣味はバイクで、友人とツーリングなどへよく行ったそうです。
卒業後は自動車関係の専門学校へ進学するも、「遠い」という理由で数カ月で中退。その後、実家に暮らしながら運送会社で仕事をはじめます。(一度ペンキ屋で働いた後に、別の運送会社の正社員となる)

幸裕は20代前半の時、高校2年だったEという女性と知り合います。
前の恋人の友人であり、飲み会で知り合ってお互いほれて付き合うようになったようです。

Eはまもなく高校を中退。その後、一人暮らしをはじめた幸裕と同棲を開始します。
18歳ぐらいで同棲? と思うかもしれません。が、Eの親はかなり教育に熱心で、Eはそれに反抗して家族とぶつかって、家で同然で出てきたといいます。
Eはまもなく妊娠、やがて結婚の約束をします。

妊娠していたこともあって、両家の親からは結婚は認められることになりました。
ただ、Eの父親は家庭でうまく言っておらず、結婚の挨拶の時などで姿を現すことはありませんでした。
(Eの両親は後に離婚)

Eは長男を出産します。
この時生まれたのが、事件の犠牲者である理玖君です。

Eは産後一カ月ほど実家に滞在しました。
その後、二人は理玖君をつれて厚木市のアパートへ引っ越します。

結婚当初、幸裕が働いて生活費を稼ぎ、Eは専業主婦をしていました。
しかし、若い二人の生活はかなり未熟だったようで、Eは料理の方法すらわからなかったようです。

やがて理玖君が一歳になった頃から、Eは幸裕に内緒で仕事をするようになります。
早朝はコンビニでバイトをし、昼から深夜の零時までは厚木の風俗(ヘルス)で仕事をしていました。
ヘルスでありながら「本番行為」もあったとか。
コンビニの仕事の時は、理玖君をアパートに放置、昼から夜までは託児所にあずけていました。

●齋藤理玖君殺人事件は、単行本になりました



Eは風俗で稼いだお金を生活費にするわけではなく、ホストクラブへ行っていました。
また、幸裕が「浪費ぐせが激しかった」と言うように、バッグや服などをブランド物でかためていたそうです。

それでも、Eは裁判で「自分なりにちゃんと育ててた」と主張しています。
が、実態はネグレクトとしか思えないものでした。
たとえば、早朝Eがコンビニで働いている時、1、2歳の理玖君は誰もいないアパートに置き去りにされています。
友人が家に行くと使用済みコンドームなどが散乱するゴミだらけの部屋で一人泣きじゃくっていたといいます。親を求めていたのでしょう。

一方、幸裕は運送業で忙しく、明け方から夜まで仕事でした。
Eのムチャクチャな生活態度などが原因で、夫婦間のいざこざは絶えませんでした。
二人は顔を合わせばケンカをするような状態で、しばしば手を上げることもあったそうです。

幸裕は風俗で働いていることを知るなどして「時々ケンカになってお互いに手を上げることになった」と証言しています。
一方、Eの方は「一方的なDVがあって、結婚生活に耐えられなかった」「毎日レイプのようにセックスをさせられていた」と言っています。
どちらの話にも矛盾はあるのですが、いずれにせよ、二人の関係が破綻していたことは事実なのでしょう。

その後、児童相談所が理玖君を保護するのですが、とある失敗によって保護がうまく行かない状態が起きてしまいます。

次回はそこらへんからお話をつづけたいと思います。

《取材協力者募集》
この事件を、ルポとして『新潮45』に掲載。後に本にする予定です。
現在、事件の関係者への取材をしている最中です。Eや幸裕をご存知の方は、ぜひご連絡下さい。
特にEについては不明点が多いので少しでもお話をお聞かせいただければと思っています。
プライバシーはかならず守ることをお約束いたします。
連絡先
石井光太
メールアドレス kota_ishii@yahoo.co.jp





★★この事件を2016年8月に書籍にしました★★

絶賛発売中 『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』(新潮社、石井光太)






明けましておめでとうございます。

今年も、猪突猛進、ガンガンと全力で進んでいきたいと思います。

まずは春までに単行本一冊、文庫分二冊、児童書一冊を出します。
児童書? と思う方もいるかもしれませんが、実はすでに3冊だしていて、海外で翻訳されていたり、推薦図書や課題図書になっていて評判いいんですよ(笑)。
春に出す児童書は、僕がずっと書きたかったことですお楽しみに。

本以外ですと、腰を据えてスタートするのは、まずは小説から。

1月に「小説宝石」(光文社)で、長編小説の連載が開始されます。
これは3年ほど前からあたためていたテーマで、満を持して全力投球でやっていきます。
イラク戦争における日本人人質事件をテーマに、人質となった日本人、テロリスト、そして彼らを助ける日本人の3つの視点から同時進行で進んでいく壮大なドラマです。

また、同じ1月の「オール読物」(文藝春秋)から、連作小説を3ヶ月おきぐらいに書いていきます。
0年代の上野の風俗を舞台にした連作短編小説。ぼくとしては同じ場所を舞台にした連作小説というのは初めての試みです。
文藝春秋で本格的に仕事をするのは、考えてみれば、処女作以来ですかね。デビューしてから10年以上、文藝春秋とはずっと付き合いがあったし、ちょくちょく雑誌や本の仕事もしていましたけど、同じ文芸出版の新潮社とやってきたせいなのか、なんか大きな仕事をする機会がありませんでした。
が、ここは一丁やりまっせ〜。

今年は文芸誌での仕事が多く、すでに1年前から連載をしている世界のお産のドキュメント「世界の産声に耳を澄ます」(「小説トリッパー」朝日新聞出版)のほか、2つほど文芸誌で単行本前提の原稿を発表していく予定でいます。春ぐらいには詳細をお知らせできると思いますので、お楽しみに。一本は文芸誌ではありますが、「うわっ!」というノンフィクションです。

もちろん、ノンフィクションの雑誌でも書いていく予定です。
今年は『浮浪児1945−』以来一年ぶりに「新潮45」に舞い戻ることになっています。
「新潮45」では初めてとなる事件ルポです。なんの事件かって? それはまだ教えません。でも、事件ルポといえば新潮社。ここで初めて発表する事件ルポなので、気合を十二分に入れて立ち向かっていきます。

と、こんなことを書いていたら、まだまだ出てきます。
(つーか、すでに告知している新宿区の小学校のルポもあった)
が、これ以上告知をしたところで意味がない。書き手の仕事は一つ。黙って書くだけです!

昨年あれこれと仕込んだぶん、今年は様々な雑誌でノンフィクション、フィクション問わず、あらゆるテーマ、あらゆる書き方で一気に作品をつくっていくつもりです。

本年もどうぞ宜しくお願いいたします!

今日の朝、ふと平均寿命が気になった。

世界の平均寿命は、おそろしいほど上昇している。

http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa200001/fb1010001.gif

第二次世界大戦が終わったあたりからの伸びは怖いほどだ。
やがて食糧難の時代がくるというのも、当然だろう。

では、日本はどうか。
日本も順調に伸びているのだが、以下を見ると、急に下がっている年度があることがわかる。95年、05年、11年だ。ほぼ五年おきぐらい。

http://ecodb.net/country/JP/life_expectancy.html

なぜかわかるだろうか。
それは、それぞれの年に起きたことが要因だ。

たとえば95年は、阪神淡路大震災。
05年は、インフルエンザの大流行。
11年は、東日本大震災だ。

一つの国の平均寿命は、かなり外的要因によって左右される。
それでも、ある程度人口が持ち直しているのは、不慮の出来事をなんとか立て直してきたからだろう。

では、立て直せない場合はどうか。
一つの例としてイラクを見てみる。以下が推移だ。

http://ecodb.net/country/IQ/life_expectancy.html

80年代、イラン・イラク戦争が終わった頃から急激に人口は持ち直す。
だが、湾岸戦争によってガクンと下がり、さらにイラク戦争がはじまるとボーンと下がる。
いま少しずつ持ち直そうとしているが、イスラム国の台頭によってどうなるか。

これは統計に過ぎない。
しかし、統計に見えるような形で平均寿命ががくんと下がることの裏には、大勢の人々が想像もできないような悲しみを体験している。

だからなんだということは、各々が考えることだけど、なんとなく選挙の日にふとそんなことを思った。

『地を這う祈り』が徳間書店で単行本をだしてから、実に四年ぶりに新潮文庫となった。

単行本の時は1600円。
カラー写真満載、200ページオーバーだから、この価格は安いと思う。初版も結構刷っているのでなんとかこれぐらいの抑えられたのである。

通常、単行本は発行から2年〜3年で、同じ版元から文庫化する。
そういう契約を結んでいるのではないが、基本的にはそうするというのが業界のルールなのである。売れなければ別だが、売れた本はまず確実にそうなる。

だが、これを徳間文庫で出すのは難しかった。
徳間文庫自体、ガチのノンフィクションがあまりない。
また、文庫が特別につよい会社ではないので、文庫化したらカラー写真のことを考えれば1000円ぐらいになってしまうだろう。
そうなれば、単行本と価格がほとんど変わらず、文庫化する意味がない。

しかし、これが文庫の強い新潮社なら違う。
新潮文庫は発行部数も多い上に、いろいろあって価格が安くできる。
しかも、ノンフィクションのラインナップがそろっているし、すでに僕の本も四冊文庫化されている。
というわけで、新潮文庫に頼んだところ、なんとカラー写真つきで670円という価格にすることができたのである。編集者も「驚いた」というぐらいの価格になったのである。

とはいえ、他社で文庫化するのは、少々心苦しい。
単行本を作った編集者には、やはりその本に対する愛着というものがある。当然だろう。

『地を這う祈り』は、徳間書店のOさんとN君の二人の編集者によるものだ。
4年半前の春、新橋でOさんと夜中の3時、4時ぐらいまで飲んだとき、僕がほろっと「フォトルポルタージュをつくりたい」と言ったそうだ。
それをOさんが泥酔しながらなんとかメモにとって会社に企画を通し、N君とともにつくることになった。

が、これがムチャクチャ大変だった。

僕が海外で撮ってきた写真は、数万枚に及んでいた。しかも、データだけじゃなく、フィルムもある。ぜんぶ未整理。
Oさんも、N君も、僕もフォトルポルタージュをつくるのは初めて。連日連夜ああだこうだ議論するわ、Oさんは泣き出すわ、N君は会社とぶつかって会社をやめるとか言い出すわ、デザイン会社とケンカになるわ、まぁ、超難産で生まれた本なのである。
でも、それだけやりがいがあった。本作りという意味では、僕にとってはエポックメイキングになった本である。

自分で言うのもなんだが、本そのものもかなり評判が良かった。

徹底的に写真で世界の現実をあらゆる角度からたたきつけたのが珍しかったのだろう。
大学で授業をとしてつかってもらったり、高校生からわんさかとメールが着たり、フォトジャーナリストを目指すといって海外へ行ってしまった若者が続出したり。
そうした話を聞くたびに、よかったなー、と思ったし、OさんやN君に報告すると喜んでくれた。むろん、増刷もしている。

だからなのだろう、文庫として徳間書店ではなく、新潮社から出すという事になると、二人の反応は複雑だったようだ。

N君は「新潮文庫になるって聞いたときは良かったと思いましたよ。新潮文庫なら、もっとたくさんの人に読んでもらえますから」と言っていた。
しかし、Oさんは酔っ払って(いつも酔っているが)「光太さん! 『地を這う祈り』が新潮文庫に取られて悲しいっすよ! 広告見たときは破ってやろうかと思いましたよ!」とつっかかってきた。

N君からすれば、旅立つ息子を応援する感じ。
Oさんからすれば、難産で産んだ息子がどこぞやの女性に奪われていく感じだったのかもしれない。

(とはいえ、徳間書店だって僕が小学館を中心に書いていた震災ルポを『津波の墓標』として奪ったりしたのだからお互い様なのだが)

まぁ、読者にとっては文庫化というのは、単に「安くなった」ということだけかもしれない。
しかし本を作る現場にいる人たちにとっては、一冊の本の文庫化にも、いろんな思いがあるのである。
それでも、本は書店やネットを通して多くの人に広まっていき、様々な種となって、将来花を咲かせることになる。

僕も、Oさんも、N君も、そして新潮文庫のYさんも、そうやって一冊ずつ本をつくっている。

文庫の表紙を見かけたとき、ふとそんなことを思ってくれたら嬉しい。



『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』(新潮社)が発売になりました。
発売にあたって、この本ができた経緯を書きたいと思います。

浮浪児の存在は、子供のときから知っていました。
戦後を記録した写真にもでてきますし、『はだしのゲン』のような漫画、あるいは『火垂るの墓』のような作品にも描かれていますから。

ただし、テーマとして浮かんだのは、二十代の終わりでした。
それまで途上国のストリートチルドレンを追いかけていたのですが、アジアやアフリカ諸国が発展するに伴い、突然街頭から彼らの姿が消えたのです。
なぜか。
端的にいえば、国や町が彼らを排除したのです。町は発展にともなって、町の浄化政策を進めました。それによって、戦争や貧困によって浮浪生活を余儀なくされた子供たちが「消された」のです。

(※ここらへんは、拙著『レンタルチャイルド』にも詳しいです)

私はそれを見た時、日本も同じだったのではないかと思いました。
浮浪児の数は、推計で十万人を超えるといわれていますが、それについての記録はほぼ皆無です。
特攻隊、パンパン、被爆者などの資料は山ほどあるのに、同じ戦争の犠牲者である浮浪児だけは歴史から抹殺されてしまっています。

ならば、物書きとしてそのテーマに挑む意味はあるのではないか。
戦争はいかに子供たちの運命を変え、子供たちはその中でいかにして生き抜いたのか。
そのことに目を向けることが戦争の本質を見ることにもつながるのではないか。

こうした思いで、2009年に取材を開始したのです。

ただし、消された歴史を掘り起こすのは至難の業でした。
某出版社の方と手分けしてあらゆる児童福祉施設に問い合わせてみたり、浮浪児の拠点のひとつ上野のお年寄りにひたすら訊いて回ったり、彼らが逃げ込んだであろうお寺や神社を訪ねてみたり……もう思いつくあらゆる手立てをとって一人、二人と当時の生き残りを探していったのですが、なかなかうまくいきませんでした。

一年ほどして当初予定していた出版社からの話が途中で立ち消えになりました。
予算ばかりかかって、発表のめどがつかなかったのが大きいですね。それにあまりに非効率的なので会社が耐えられなかったこともあったでしょう。
しかし、その頃でしょうか、元浮浪児とつながりのある児童養護施設がいくつか見つかったり、関係者が知り合いを紹介してくれたのです。それで点と点がつながりはじめました。

(とはいえ、この会社の編集者には感謝しています。実際ここよりも大きな出版社の編集者に話しをもっていったこともありましたが、みんなめんどくさがってやりませんでしたから。むちゃくちゃな苦労を承知でやってくれたことは感謝してもしきれません)

時を前後して、新潮社との企画の話し合いがありました。
ちょうど『レンタルチャイルド』を出版し、次のテーマだった母体保護法の作品(障害者に対する強制堕胎)が思うように進んでいませんでした。
そこで方向転換するかと相談していたところ、「じゃあ、この際だから浮浪児を『新潮45』で連載しよう」ということになったのです。それで今度は新潮社のバックアップを受けて取材がまた加速するようになりました。

ところが、予期せぬことが起こるのが現実です。

連載開始の直前、東日本大震災が起こったのです。
僕は連載をいったん中止にしてもらい、すぐに東北へ行きました。そして、浮浪児の連載の代わりに『遺体』のもととなるルポルタージュを『新潮45』に発表するのです。

これによって連載までの時間が延びたのは、不幸中の幸いでした。
その後あらたに元浮浪児や関係者が多数見つかったことで、一気に取材内容が充実していったのです。
そして、連載開始を実質一年先延ばしにしてさらに取材を重ねた上で、満を持して『浮浪児1945』を発表したという経緯がありました。

本書は、実際に手に取ると、かなり斬新な装丁になっています。(個人的には大好きです)
それは「戦争を知らない私のような世代にこそ手にとってほしい」という思いがあってのことです。
戦争の本といえば、戦場の悲惨さや、政治的な話だけがクローズアップされます。
しかし、多くの庶民にとっての戦争とは「日常がいきなり切り裂かれ、その後を生きなければならない宿命を背負う」ことなのです。

ある元浮浪児がこう言っていました。

「子供たちにとっての本当の戦争は、戦後の飢餓の時代を生きることだったんだ。犬を食い、ゴミをあさり、餓死する友人を看取り、自殺した中の遺体を片付けた戦後こそが、ぼくにとって戦争だったんだ」

私が『浮浪児1945-』を通して描きたかったのは、そのような「歴史から消されたもう一つの戦後史」だったのです。




今年も一年が終わりますね。

思えば、今年は尼崎の角田美代子事件のルポルタージュを『週刊ポスト』に一挙掲載してから一年がはじまりました。
ちょうど大晦日から正月にかけて執筆していたのですが、同誌の担当編集者K氏が年を越す23時半〜0時半の間にひたすら事件資料を送り続けてくれていたことを思い出します。毎回ながら本当にK氏のやる気には頭がさがります。

その後、東日本大震災のずっと書けなかったことを『津波の墓標』と出して発表。ほとんど同時に『遺体』の続編『「遺体」それからの物語」を電子書籍にて発表。
その後は、<新たなことへの挑戦>を目標だと公言していたことから、『遺体』の映画化、僕が原作を手掛けた漫画『葬送』の出版、あるいは連載漫画『コールドケース』の開始、児童書『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか』、そして長年の構想を結実させたミステリ小説『蛍の森』などを手がけました。

新しいジャンルでの仕事は体験したことのない刺激ばかりでしたね。
すでにブログ<『蛍の森』創作秘話>で書きましたが、新潮社の優秀な編集者Tさん、Kさんとのやりとり。
僕はTさんを「文学の鬼」と称しているのですが、そのとおり作者以上に鬼気迫る感じで作品に取り組む姿勢は圧巻でした。
詳しくはこちらを。

児童書では、ものすごく重要な視点を学びました。
ポプラ社の新書創刊に深〜く携わらせていただいて出版社の内部事情をいろんな形で学ばせてもらった後、『ズッコケ三人組』『かいけつゾロリ』シリーズをつくった伝説の児童書編集者だった坂井前社長、そして担当編集者のMさんから徹底的に<児童書の目線>というものを教えていただきました。
僕が書いていたノンフィクションの目線が大人の目線だとしたら、子供の目線はしゃがみこんでさらに頭を下げて横を向かなければならないようなものです。
はじめはそれが理解を超えた視点でしたが、何度も話し合う中で少しずつそうした視点があることを教えられ、学び、それを身に着けることができました(やはり伝説の児童文学編集者は違いました。本当にすごかった!)。
本の見本が出来上がった時、坂井前社長が目を潤ませて「本当に子供に読ませたい本ができた。ありがとう」と言ってくれたことが、僕にとっての何にも代えがたい体験でした。

映画制作からも多くのことを学びました。
監督の君塚さんからは何度も飲みや観劇に誘っていただき、端々で大切な言葉や姿勢を教わりました。
主演の西田さんからも同様です。
え? それは何だって? 秘密です。それぐらい、僕にとっては大きな言葉でした。
ただ僕にとっては映画は上映がうまくいったということ以上に、釜石の関係者が喜んでくれたことが一番でした。フランスに暮らすフランス語の翻訳者の方々とも交流が始まり、毎月のようにフランスから誰かが訪れているようです。
先日のクリスマス前にフランスの翻訳者や出版社の方々が釜石のみなさんと飲み会をしたとか。僕は中米滞在のせいで参加できませんでしたが、連絡をいただいて本当にうれしかったです。

そうそう、一つ大切な企画が途中でオジャンになったこともありました。
1年以上全力で取り組んでいたテーマだったのですが、ある事情でやむを得ず撤退することに。
あれは悔しかった。死ぬほど悔しかった。そして関係者に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。陰で悔し涙を何度も流しましたが、その思いは別のテーマにぶつけることにします。

その他細かなこともいろいろと印象に残っています。
たまたま西田さんに紹介してもらった女優の熊谷真実さんがうちの父親と交流があることを知って父親と一緒に会いにいったり、ポプラ新書の創刊で鎌田實さんにかわいがってもらっていろんなことをご一緒させていただいたり、対談では水木しげる氏はじめ様々な知識人のほかに関東連合の幹部、青森のイタコ、山口組の元大幹部など普段では会えないような方々と親しくさせてもらったり、アイドルやアナウンサーからネオヒルズ族まで変わった交流が生まれたり、小学校で授業を担当して感動したり、首長族のふるさと、伊豆大島、中南米などいろんなところを飛び回ったり、宗教者数百人の前で講演してお坊さんに間違えられたり……
外から見ると楽しそうに見えるかもしれませんが、やっている本人としては、悔しいこと、挫折感に満ちたことだらけです。99%が悔しいことですね。それでも、一生懸命にやっていれば、それらもまた楽しい思い出になるものなので、連日のように四苦八苦して息を切らしながらも前向きに取り組んでいこうと思います。

さて、来年は何をするんだっけ。

2014年は、1月、2月に文庫(『飢餓浄土』『遺体』)の出版からはじまり、今年連載していた『絶対貧困と相対貧困』を新書にてだし、そして4年にわたって取材執筆を行ってきた『浮浪児1945』(タイトルは変更予定です)を7月に出版。夏以降も小学館の漫画雑誌で連載している作品の単行本化などいろんなものを予定しています。
また、某雑誌にて世界各地の出産現場をルポする新連載をスタート(僕にとっては久々の本格海外ルポ連載です)、あるいは小説の第二弾、第三弾をスタートさせていく予定です。
もちろん、それ以外でも児童書等また新しいことにチャレンジしていきます。年明け早々また伊豆大島や福島にも行かなければなりませんしね。

ともあれ、毎日必死になって仕事に取り組んでいけるのは、本当にみなさんの応援のおかげだと思っています。
僕が取り組んでいることの大半は楽しくスカッとするようなものではなく、むしろ重苦しくトラウマになるようなことばかりです。
それでも、僕はそれを形に残すことが大切だと信じているから無我夢中でやっているのです。それからかならず何かを変えるきっかけになると思っているからです。
2014年もそうした信念は変わりません。もう自分の限界をとうの昔にはるかに超していますが、それでもみなさんに大切なものをひとつでも多く届けたいという気持ちで、最後の一滴まで血と汗を流して全力で取り組んでいきたいと思います。
本年は本当にありがとうございました。
そして新たな年もどうぞよろしくお願いいたします。

前回のブログ記事で、『蛍の森』の構想は、学生時代にある本を読んだきっかけで得たと書いた。
今回は、それについてちょっと具体的に書いてみたい。

ある本とは、ご存知の方も多いと思うが、民俗学の名著『忘れられた日本人』である。
昭和の時代に宮本常一が日本各地をまわりながら、そこでの出会いや聞いた話を書き記しているもので、その一つに「土佐寺川夜話」という話がある。
ある日、高知県の寺川にある森を歩いていた。その時、偶然に薄暗い森の向こうからハンセン病患者が現れた。次はそのことを記した一文だ。

「原生林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。
しかし一見してそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を着、肩から腋に風呂敷包を襷にかけておりました。大変なレプラ(ハンセン病)患者なのです。
全くハッとしました。細い一本道です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。
すると相手はこれから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので、陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分からないと答えました。
そのうち少し気持もおちついて来たので、『婆さんはどこから来た』ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ』と聞きとりにくいカスレ声で申します。
老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。私は胸のいたむ思いがしました」

四国の深い森の中に、遍路が通る道とは別に、ハンセン病患者たちが遍路をするための道があるというのだ。
学生だった私はそれが気になって、この歴史を調べるようになった。すると、こうしたハンセン病患者たちがつくった山道は「カッタイ道」と呼ばれていたことがわかった。カッタイとは物乞いやハンセン病を示す差別用語である。現代風にいえば、「物乞いをするハンセン病患者の道」ということになる。

(「ヘンド道」と呼ばれることもあった。ヘンドもまた物乞いを示したり、病気を患った遍路に対する蔑称としてつかわれてきた歴史がある)

あまりにひどい呼び名だが、当時はこれがむしろ自然だった。
国はハンセン病は人に容易に感染するものと誤認して、国家をあげた患者の隔離政策を行っていた。警察や保健所の職員がハンセン病患者をつかまえて、療養所へ閉じ込めていたのである。
一般市民も、病気の症状があまりに悲惨だったこともあって必要以上に恐れ、時には「因果による病気だ」と考え、密告や迫害に手を貸すこともあった。
(これは、戦後の時代までつづいた。隔離政策を許した「らい予防法」が廃止されたのは1996年である)
このような時代背景の中で、ハンセン病患者たちは身を隠しながら、必死に病気の治癒を願って、あるいはより良い来世を願って、森の中を歩いて八十八か所の札所を巡礼していたのだ。

学生だった私は、こうした歴史を探っていくうちに、当事者たちの名前の声を少しでも知りたいと思うようになった。
もちろん、差別の歴史と実態を知りたいという気持ちが基本である。だが、それ以外にもっと立体的に現実を見聞きしたいという思いもあった。
ハンセン病患者とて人間である。差別にさらされた被害者としての一面もあれば、欲を持った人間という一面もあるだろう。あるいは仏にすがることだけを練って巡礼をする者もいれば、途中で何かしらの悪意が芽生える者もいるかもしれない。また、山中を巡って生きていく中では、きれいごとでは済まない状況は多々あったにちがいない。
そうしたことをすべて含めてハンセン病患者の行っていた遍路という「巡礼」の実態に目を向けてみたいと思った。
人間が人間を虐げるとはどういうことなのか。その中で被差別者が生きるということはどういうことなのか。彼らが山中ですがりつこうとした希望というのは何だったのか……。
それで二十代から資料だけでなく、実際にハンセン病患者に会いに行って話を聞いてみたり、海外の同じようなケースを調べてみたりするようになったのだ。

そうやって調べたことをベースにして、新作『蛍の森』は書かれている。
逆に言えば、一部の内容はフィクションという形でしか書けなかったという事情もある。
その部分がどういうところであるか。それについては、各々が本書を通して考えていただけたら嬉しい。
いずれにせよ、十年来私が追ってきたテーマの作品化であることは事実だ。


『蛍の森』という作品を書くきっかけについて、今日はちょっと書いてみたい。

本書のテーマは、ハンセン病患者の四国遍路である。
患者たちは不治の病であり、国が迫害していたハンセン病の治癒を願い、人目から隠れるようにして密林の中にハンセン病患者だけの遍路道(ヘンド道)をつくり、八十八か所の札所を回り続けた。
この道とそこに生きた人々が本書のテーマである。

きっかけは、ある民俗学の本(これも後日書く)を読んだことだった。
ハンセン病患者に対する迫害は、日本という国が犯してきた史上最大級の差別だと言えるだろう。ハンセン病患者たちはその迫害から逃れるように、しかし希望にすがりつくように人里離れた密林の奥で遍路をつづけた。
しかし、その実態は一部の学者と文学者がほんの数行、もしくは本の数ページ触れるだけで、ほとんど記録されてこなかった。

なぜか。

いくつか理由がある。
ひとつに、ハンセン病患者たちが隠れて密林を巡礼していたため、その事実を明らかにしにづらかったこと。
また、ある研究者がいうように、一部のそうした遍路道が被差別部落と接点があったため、そこまで書くと批判を受ける可能性があったこと。
あるいは、ハンセン病患者自身が迫害されており、その事実を満足に語れなかったり、聞き取りをする人がいなかったりすることだ。

これ以外にもいろんな理由があるが、ハンセン病患者の遍路の実態が明らかにされてこなかったことは確かである。
しかしだからこそ、私はそこに光を当てたいと思ってきた。そこに日本という国が犯した最大級の過ち、人間の残酷さ、被差別者の祈りと希望……ハンセン病患者たちが密林につくった遍路道にはそれらのことが恐縮されていると考えたからである。
そして、その後私は海外の貧困地域を訪ね歩く中で、世界の国々で同様の差別がいまだに行われている事実や、ハンセン病患者たちが日本のそれと同様に神にすがるように巡礼を繰り返している事実を知り、ますます形にしたいという気持ちが膨らんだ。
そして二十代のころから折を見て、資料を発掘したり、ハンセン病患者のもとを訪れて直接話を聞いたりして、過去をたどっていったのである。

それと時を前後して、私は二十代で『物乞う仏陀』(文藝春秋)を出して物書きとしてのスタートを切った。
これはアジア八か国の障害者や物乞いを追ったルポルタージュであり、その後も私はノンフィクションを中心にして二十冊ほどの作品を立て続けに世に出してきた。
なぜノンフィクションだったのか。これはまた別の機会に詳しく書きたいが、簡単に述べれば今自分が書かなければならないテーマがノンフィクションであったこと、ノンフィクションの分野で挑戦をしてみたかったこと、若いうちにしかできない「行動」をしたかったことなどがあげられる。

ただし、私はずっとノンフィクションだけをやり続けるつもりはなかった。それは処女作を出してからすぐに発言してきたことだ。いずれ、フィクションをやりたいと思っていた。
実際、処女作を出した後も、大手出版社からフィクションを書かないかという誘いがかなりあった。だが、私はそれを断った。理由は以下である。

・ノンフィクションの世界で自分はここまではやったと思えるようになってから次のステップへ進みたかった。
・トラウマなど特別な経験や思いがない自分は十年間はノンフィクション畑で、他の誰も経験しない体験をつむことでフィクションでもやっていける「体力」をつけようと思った。

などだ。
そして私は三十代の半ばまで約十年間、フィクションの誘いは基本的には断り、ノンフィクションを中心として活動してきたのである。

そうした気持ちに変化が起きたのは、2011年のことだった。

2011年、それは東日本大震災が起きた年である。
この年の三月から私は被災地に滞在し、取材を続けていた。後日『遺体』として上梓する本の取材である。
この本をまさに書き上げようとしていた夏のある日、「小説新潮」編集部のTさんから連絡を受ける。Tさんとは半年ほど前から小説家・万城目学氏の紹介で仲良くなり、それまで2、3度痛飲したことがあった。

たしか二人きりで会ったのは、この日が初めてだった。
夏の日の夜、西新宿の料理屋に呼ばれ、カウンターで酒を飲みながらひとしきり話をした。ひどく暑い夜だった。
Tさんの話の内容は直球だった。
ご本人は恥ずかしがるかもしれないが、私はその直球さに感銘を受けたので書いておきたい。こういうようなことを言われた。

「ぜひ小説を書いてくれ。全身全霊を込めて書けるテーマなら何でもいい。それやってくれるなら、どんな枚数でも雑誌の連載枠を確保する。自分は小説の編集がどうしてもやりたくて、就職浪人して新潮社に入り、やっと少し前から小説新潮編集部に配属してもらえた。自分はこの仕事を全力でやり遂げたいと思っている。ただし、会社員なのでいつまで小説の編集部にいられるかわからない。だから編集部にいられるうちは必死でやりたい。自分も全力でやるので、石井さんもすべてをかけられるほどのテーマで書いてほしい」

大きな目でまっすぐに見つめられて、力説されたのである。
正直、僕は『遺体』の原稿が佳境に入っていて疲れ切っていた。あの作品は本当に書くのが大変で、三月からずっと悪夢にうなされて睡眠薬中毒になるぐらいだった。
でも、だからこそ、『遺体』を書き上げた後、それに匹敵するぐらい全力でぶつかれるテーマをノンフィクションですぐに見つけるのは難しいとどこかで思っていた。
別のテーマが小さく思えるというわけではない。ただ震災の時ほど全力で向き合えるかと言われれば、どこかで計算できてしまう気がしたのも事実だ。計算できてしまえば、作品はどうしても縮こまってしまう。
このままノンフィクションだけをつづけていても、どこかでむなしさを感じたり、消費されていくだけだったりするのではないか。そんな思いがどこかにあったのである。
だからこそ、Tさんに直球で小説を書けと言われたとき、こう思った。

ノンフィクションをやりつづけようと思った十年はもうすぐ過ぎようとしている。
ならば、新しい挑戦を一からやるべきではないか。
ノンフィクションとフィクションを両方やりながら両者を活力にして次のステージへ進みたい。
Tさんなら信頼にあたる。

そして、その時にいくつかのテーマが頭に浮かんだが、その一つが今回の『蛍の森』であることは言うまでもない。
『蛍の森』は完全なノンフィクションとして描くのは非常に難しい。証言者が少ない、密林にあった遍路道をすべて探し出すことは不可能、証言をそのままノンフィクションとして書いてしまえばハンセン病患者、あるいは上記のような被差別部落の問題も含めて様々な障壁にぶつかってしまう……。
ならば、完全なノンフィクションというより、今まで自分が取材をしたり調べたりしてきたことをもとにしてフィクションの形で描いた方が、ずっと「真実」に迫れるのではないか。

『遺体』を上梓して間もない11月。
私は『新潮45』編集部のWさんと、そして『小説新潮』のTさんの三人で、今度は東新宿の中華料理屋で会った。
そこで話し合った結果、『蛍の森』のテーマで行くことが決まり、Wさんからも資料等で協力してもらえることになり、そして月末にはTさんと二人で四国へ取材旅行のために飛ぶことになった。
(しかも、偶然にもTさんは大学時代に民俗学を勉強しており、四国遍路を何度もしたことがあった!)

こうして取材、物語の構想、そして執筆がはじまったのである。

その詳細については割愛するが、正直に言ってTさんの本気の取り組みには脱帽した。
私も『遺体』の後の作品に関しては、『蛍の森』をすべて優先して全力を尽くしたつもりだが、Tさんの作品に向き合う熱意と的確な意見には何十回も姿勢を正された。連載終了後から単行本化に至る過程の最後の最後までつづいた。
それは途中から単行本担当として加わってくれたKさんについても同様のことが言える。いつもTさんと二人であれこれと相談をし、意見をぶつけてくれた。それはほぼすべてにわたって驚くほど核心をついていた。
そしてそれは編集者ばかりでない。校閲者も同じだ。

以前私のツイッターで以下のような記事が大反響を呼んだのを覚えているだろうか。ニュースにもなったツイートだ。

http://matome.naver.jp/odai/2136766411643129901

これは『蛍の森』の雑誌連載時の校閲である。
文芸誌という、お世辞にも一般読者にはそれほど読まれない雑誌ではあるが、そこに掲載する一文に、どれだけ編集者や校閲者の情熱がかけられていることか。

私は『蛍の森』を書いている間、ずっとそれを感じさせられ、自分がそうした舞台で仕事をしているありがたさをつくづく感じた。
『蛍の森』を、みなさんがどう読まれるのかはわからない。だが、私にとっても、編集者にとっても、校閲者にとっても、全力で取り組んだということは自信を持っているし、それゆえ私としては読んで頂きたいという気持ちが心からある。

どうかご一読いただけたら嬉しい。


今後はフィクションとノンフィクションを交互にやっていきたいと思っています。
フィクションでは、ノンフィクションとしてはできないが、ノンフィクションとしてやる以上に「真実」を描けるものを常にテーマとしていくつもりです。


首長族の故郷は、つい一年前まで紛争で立ち入りが禁じられていた。

タイやミャンマーの観光地にいるのは、故郷を離れて難民化した首長族なわけだが、このたびミャンマー政府が村のある州への立ち入りを一部解禁したため、さっそく10年来の現地の友達と首長族の故郷へ行ってきた。

首都ヤンゴンからバス24時間かけて地方の都市へ。そこからバイクでさらに3時間かけ、さらに山をずっと上っていってようやく到着。

さすがに長かった。
が、ひさしぶりに、こういう旅もいいものですな。
しかし、全身南京虫に刺されて、死にそうにかゆい。。。

ちなみに、写真に写っている男性2人は、前にブログで紹介した『物乞う仏陀』の旅で知り合った現地の友人です。



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先日、文芸誌で企画されたイタコとの対談した際に、「口寄せ」をやっていただきました。

その時の画像。対談内容は、来月22日発売の『読楽』をご覧ください。


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昨日、青森のイタコと対談をした。

イタコというのは、故人の霊をおろす「口寄せ」で知られている。
が、実際はイタコは治療などもする人であり、「口寄せ」はそのうちの一つにしかすぎない。
また、恐山に常駐しているわけでもなく、10月の祭りのときだけやってきて、あとは地元で地元の人たちのために生きているのだ。
今年は来月の10日ごろからあるそう。

とはいせ、せっかくなので、恐山の写真を公開する。

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「霊場アイス」が売っています。あんまりおいしくありませんでした。

毎年、8月の中旬を過ぎると、中高生から本の感想メールがよく届く。
きっと夏休みの間に、課題なり、趣味なり何なりで、本を読んでくれるのだろう。
特に新潮社の夏の100冊に選ばれている本について感想が多いのは、そのためだと思う。

考えてみれば、僕も中学生ぐらいのときは、夏の100冊から面白そうな本を選んで読んでいた。
そこで好きになり、そのあとも読みつけたり、そのときは読まなくても記憶のどこかに残っていて、あとで読んだりしたものだ。
なんにせよ、若い人にできるだけ多く読んでもらいたいと思って常に書いているので、これほど嬉しいことはない。

ただ、日本では、年間400件以上もの書店がつぶれているそうだ。
いろんな事情があるだろうけど、それでもつぶれる店があれば、時代に逆らうように新規に店舗を立ち上げるところもある。

そんな一つが東京堂書店のアトレヴィ東中野だ。
100年以上つづく老舗書店が、去年東中野に新たに新規開店したのである。

この1周年イベントの一つとして、僕がトークイベントをすることになった。
8月30日(金)の夜である。

厳しいご時世に立ち向かう書店様を何とか盛り上げたい。
ぜひお越しください。

申し込みの詳細は以下です。
http://www.tokyodoshoten.co.jp/floor/higashinakano/

いまから10年以上前、『物乞う仏陀』という処女作を書くためにミャンマーへ行った。
僕がまだ20代半ばの時だ。

実は、この旅でミャンマーへは2回行っている。
1回目は途中で雇ったガイドが逃げ出してしまった。ハンセン病患者や路上に座り込む障害のある物乞いなどを訪ねて話を聞くことに耐えられなくなったのだ。
政府が認めた公認の優秀な通訳だったのだが……。

そこで、数カ月別の国を回った後、ミャンマーへ行った。再挑戦である。
今度は、ヤンゴンの路上で偶然出会った10代の青年2人を雇った。名前は、ミンミンとアウンアウン。
2人はガイドになるために独学で一生懸命に日本語を勉強していた。ガイド料はいらないので、とにかく日本語を教えてほしい。そう言ってきたのである。
私は一か八か、2人を雇った。彼らと再挑戦しようと思ったのだ。

若かくてお金もなかった彼らは、一生懸命だった。僕もがむしゃら。
3人で泣きべそをかきながら障害のある物乞いたちに声をかけていった。
そんなこんなで一生懸命に取材した成果が、『物乞う仏陀』の「ハンセン病の村にて」(版元の事情で文庫版のみ収録)の話になる。

早いもので、あれから10年以上が過ぎた。もう彼らも30歳ぐらいだろう。
その後ミャンマーへは『神の棄てた裸体』の旅以降行っていない。その時も2人に手伝ってもらって、大戦の生き残りである老人が一人語りをする「問わず語り」という章の取材をした。以来7、8年になるだろうか。

さきほどそのミンミンからフェイスブックで友達申請が来た。
懐かしい。まったく変わっていない。彼のフェイスブックの友達のところには日本人の名前がずらり。あれから10数年、一生懸命に働いて、ガイドとして自立したのだろうな。

今年の秋、ミャンマーへ行こうかと思う。


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「いま、被災地はどうなっていますか」

ここ一カ月ぐらい、インタビューを受ける度に訊かれる質問です。

よく「癒える」という言葉を使う方がいます。
しかし、「癒える」ということなどあるのでしょうか。
考えてみてください。自分の肉親が不慮の死を遂げたとして、二十年、三十年経って思い出して悲しくないわけないですよね? 人間というのはずっと傷を抱えて生きていくものなのです。

「新潮45」に書いたルポ「『遺体』それからの物語」でも書きましたが、ご遺族の胸にはまだ悲しみがたくさん残っています。
普通に主婦として暮らしている方でも、数カ月に一度イタコのようなおがみ屋のところへ通って、未だに行方不明の父親の霊を下してきてもらっています。そうやって行方不明の父と話をしているのです。
また、別の主婦はご両親のご遺体は見つかったにもかかわらず、夜になると遺体安置所で目にした数々の遺体になり代わって、その人たちの無念をしゃべりつづけています。
どちらも、現在進行形で起きていることです。
みなさん、一見すれば普通に暮らしているのですが、胸には一生背負って行かなければならない悲しみを抱えたままなのです。

人は、「被災地に対してどうすればいいだろう」という疑問を抱きます。
私は何より大切なことは、一番の犠牲者、つまりご遺族の気持ちに立って何ができるかを考えることだと思っています。

数カ月に一度おがみ屋さんに行っている主婦に対して何をすべきか。
それは「おがみ屋なんかに行っても意味がないよ」ということではなく、彼女の心情を理解して「おがみ屋さんの口を借りてお父さんがしゃべっていることは、その通りなのかもしれないね」と言ってあげることなのです。
あるいは、毎晩亡くなった人になり代わって無念をしゃべる女性にすべきことは、「PTSDだよ。病院へ行けば」と言うことではありません。あの日彼女が何を見て何を感じてきたのかを理解し、その思いを共有して彼女を理解することなのです。

原発を何とかする、政治を何とかする、瓦礫を何とかする。
もちろん、それらは大切なことです。やらなければなりません。
しかし、それ以前に、そこに住んでいる犠牲者の気持ちを理解することが重要なのです。
彼らなくしては、いくら建物がもとにもどって、原発がなくなったからといって、町が前に進んでいくことなんてないのです。

私は自分にできることは何かと考えた時、作家という立場から「あの日起きたこと」「今起きていること」「これから起きること」を書きつづけることだと思っています。
現実を知らなければ、そこに生きる人たちを理解することはえきない。ならば、その理解するきっかけを、文章という形で残しておきたい。
それが私の役割だと思っています。

今年も3月11日が来ました。

二年が経ち、少しずつ震災を考えることも少なくなってきていると思います。
それは決して悪いことではありません。人間には必要なことです。
しかし、日本には何十万人という東日本大震災のご遺族がいます。この先、何十年も彼らはあの日の体験を背負って生きていくのです。

私としては、みなさんに一年に一回でもいいですから、今もあの災害を体験している人が生きていること思い出してほしいと思います。
そのために、私はそれを知るきっかけだけは作りつづけていきます。
それが回り回って、日本各地に暮らしているご遺族や、亡くなった方々のためになればと願っています。
きっとそれはこれからの日本を支えることにもつながるのですから。



追記
上記「新潮45」の「『遺体』それからの物語」については以下の電子書籍にも掲載しています。拙著『遺体』のその後の物語です。

『遺体』それからの物語―新潮45eBooklet
『遺体』それからの物語―新潮45eBooklet [Kindle版]





映画版『遺体』が23日から全国公開となっています。

いろいろなところでお話ししてきましたが、映画化は僕のルポルタージュ『遺体』(新潮社)がでた1カ月後ぐらいに話がありました。
新潮社の会議室で監督やプロデューサーと話をしたとき、僕がお願いしたのは以下の一つでした。

「被災地に行って、ご遺族や遺体安置所の関係者に会っていただけませんか」

現実を作品にするということは、そこにいた大勢の人々の思いを背負うことです。それなしにはつくることはできません。
君塚良一監督はその場で「わかりました」と言ってくださり、翌月には僕といっしょに岩手県釜石市へ行きました。
そしてそれから数カ月、大勢のご遺族や関係者から話を聞き、一人ひとりと信頼関係を築き、さらに映画化の承諾を得て作品をつくったのです。
モデルになった方が一人でも反対すればつくるのはよそうと考えたそうですが、最終的に反対意見が出ることはありませんでした。

君塚さんは映画化とはいえ、事実にできるだけ忠実に描いてくださいました。
初めて作品を見た時、君塚さんや俳優さん、そしてスタッフの方々が良心をかけてつくってくれたのだと思いました。
それはご覧になった方ならきっと感じ取ってくださるでしょう。

今でも覚えている光景があります。
映画の撮影現場を訪れた時、遺体安置所のセットが作られている体育館の入り口に、ご焼香できるスペースが設けられていたのです。
監督、俳優、スタッフ、みなさん一人ひとりがセットであるにもかかわらず、しっかりと手を合わせてから中に入り、映画の撮影を進めていたのです。
僕はそれを見た時、みなさんの良心を感じ、思わず心の中で「ありがとうございます」と言ったほどでした。

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スタッフの方々がつくった焼香所










映画が完成した後、西田敏行さんとお話しする機会が何度かありました。
西田さんは実際に撮影に入る前に、主人公のモデルとなった千葉さんに会っています。
そして、映画の撮影の時を振り返ってこう言っています。

「あの映画は特別なんですよ。演技じゃないんです。あの場にいたら演技なんてできないんです。西田敏行という一人の人間として、遺体安置所で何ができるかを考えて自然に出たものなんです。安置所に入るときに靴を脱ぐシーンだって、シナリオにはなかったですけど、自分なら決して土足であがれないと思って脱いだんです」

他にも酒井若菜さんなど出演された方々に対談などで会ってお話しを聞きましたが、同じようなことを語っていました。
演じるのではなく、自分だったらどう遺体や遺族と向き合うかと考えて動く。そうした思いが良心に満ちた映画をつくったのだと思っています。

最後に、映画のモデルとなった実際に安置所で働いていた人々が映画を見て「こういう映画を作ってくれてありがとう」とおっしゃってくれたことが、何より安心しました。

この映画が、あの日被災地にいなかった人々に「何か」を伝えられるものになったのだとしたら、原作のルポルタージュを書き、映画化に微力ながら協力させていただいた僕としては、一つ役割を果たせたのかなと思います。


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実際の遺体安置所「旧二中」

■現場主義を貫け


松本
私が今の若い記者に言いたいのは、とにかく現場に行け、ということです。
現場に行かず、自治体や国の記者会見で何かがわかると考えているとしたら、それは思い上がりです。

石井 
現場を見ることによって、現代の世相や社会の構造も浮かび上がってくるし、今という時代が抱えているさまざまな問題も見えてくる。
たとえば、「死体の写真を撮る」というとすごく悪いイメージがある。
悪いカメラマンがとんでもないことをして金を儲けている、みたいな。
しかし現場に行くと、そのカメラマンは会社からの命令で半泣き状態で撮影をして苦しんでいる。
その苦しみこそが現場なんですよね。

あるいは遺体を土葬にするか火葬にするかで揉めた自治体がありましたが(第七話)、現場の状況を知らない人は「昔は土葬だったのに、なんで反対するんだろう?」と考えてしまう。
でも、現場を取材すると土葬予定地とされていた場所が元リサイクルセンターの跡地であることがわかります。
つまり、ペットボトルなどが埋まっている横に遺体を埋めようとしていたのです。
それがわかると、地元の人が土葬に反対することにも納得できます。
さらにこの問題をより深く探っていけば、そんな場所にしか土葬用の土地を用意できなかった自治体の問題も出てくるかもしれない。

現場へ足を運んで入念に取材していけば、それまで見えなかった人間や社会の別の一面が良くも悪くも出てきます。
それを記事や本にして伝えていくことで、読者の中にもまったく違った視点が生まれ、自分たちが生きている世の中について考えるきっかけになってくれると思うんです。

松本
先ほどから話題に上っているように、組織ジャーナリズムの中ではむしろその逆の傾向が出ています。
幹部が「俺に責任を取らせるな」「俺にけがをさせるな」と言いはじめたら、下の記者たちはもう前には出ませんよ。
でも、それじゃ「現場から報道する」というジャーナリストとしての仕事は何もできません。

石井
上の世代の新聞記者はそうじゃなかったですよね。

松本 
ええ。朝日新聞の編集委員だった本多勝一さんは、ベトナム戦争のときには最前線のゲリラ基地に住み込んで取材をして、『戦場の村』(朝日新聞社)を書きました。
あの人は本当に現場以外では書かない人でした。

「朝日ジャーナル」の編集長をやった伊藤正孝さんも、徹底して現場にこだわった人です。
彼は六〇年代後半のビアフラ戦争を取材して『ビアフラ潜入記』(朝日新聞社)を書いていますが、そのときも最後の最後まで現場に残りました。
戦況が激化して各国のジャーナリストがほとんど退去してしまい、最後に残ったのはフリーの記者二人とロイター通信の記者一人、そして伊藤さんの計四人。
その最後の四人は、赤十字の最終チャーター便で脱出します。

身の安全を考えれば適切な判断でした。
伊藤さんたちが乗った赤十字機も、地上からの銃撃を受けて機体の床に穴が開いた、と記事に書いています。
けれど、伊藤さんはあのとき国外に出たことを死ぬまで後悔していました。
なぜなら、記者たちがいなくなったあとも何人かのNGOスタッフが残っていたからです。
NGOが残っていたのに、なぜ俺は出てしまったのか、と伊藤さんは自問を続けていましたね。

石井 
壮絶な話ですね。

松本 
そんな修羅場をいくつも経験してきた伊藤さんが、危険を伴う取材のときに組織がどう対応すべきかについて、実に適切なことを言っています。

「危険かどうかは東京にいてはわからない。現場の人間が一番よく知っている。だったら現場に判断を任せろ。現場の人間が行けると思ったら、行かせればいいじゃないか。それに東京はいちいち口を出すな」
「現場の記者にもし万が一のことがあったとしても、会社は上司に責任を取らせるな。行ったのは現場にいる本人の判断なんだから、その責任を上司が取る必要はない。ただし、遺された記者の家族が生活に困らないよう、保険金などの手配だけはきっちりしておけ」
 
理にかなっていると思いますね。組織ジャーナリズムのあり方として、もっとも正しい方法だと思います。
上司に責任を取らせようとするから、結果として部下も自由に動けなくなるのです。
上司に責任を求めず、現場の人間に判断を任せてくれれば、組織ジャーナリストももっと自由に動けるようになると思いますがね。


■善悪、両方を見つめる

石井 
現場に行くと「片方が善で、片方が悪」という二元論的発想も完全に消えますよね。それも現場を取材することの意義だと思います。
『ノンフィクション新世紀』(河出書房新社)の連続講座で松本さんが話してくれた交通事故の記事のエピソードはその好例でした。

松本 
私が駆け出し記者のころの話ですね。

石井 
ええ。
はじめは記者クラブの黒板に張られている紙だけを見て、「トラック運転手が三歳の女の子をはねて、逮捕された」という記事を書く。
しかし、その記事を見たデスクから「現場に行ったのか? 行ってなければ行ってこい」と言われて、一時間以上かけて現場に行って取材をする。
そこではじめて、加害者であるトラック運転手の話を聞き、被害者の家族の話も聞くんですよね。
そして会社に戻って、改めて事故の記事を書くと、はじめの記事ではトラック運転手の名前が呼び捨てだったのに、書き直した記事には知らず知らずのうちに名前に「さん」がついている、という。

松本 
被害者、加害者両方の立場や気持ちを見てしまったから、どうしたらいいのかわからなくなって、その結果両方に「さん」をつけたんだと思います。
その記事を見たデスクの「現場に行けば何かが違ってくるんだ」という言葉は印象的でした。

石井 
場合によってはそれまで考えられていたこととはまったく異なる現実も見えてきます。
たとえば被災地では、被災者が善良な市民とされている。
しかし、中にはヤクザもいるし、ボランティアにセクハラをする人もいるし、ATM強盗をする人もいる。
その人たちが起こしている問題がたくさんあるのに、「被災者=かわいそうな犠牲者」というイメージの前で注意すらろくにできなくなることもある。
イメージ化というのは二元論化に等しいのではないかという気がします。

松本 
ジャーナリストは本来、いいか悪いかという二元論を超えたところで記事を書かなければなりません。
そのためにも、現場に入って両方を見ることが重要になってきます。
伊藤正孝さんは「人間の目は二つあるんだから、二つの面を見ろよ」と言っていた。
現実は決して一面的なものではなく、常に多面的なものなので、特定の答えを決めつけて書くべきではないし、それをやってしまうと安物の決めつけ報道になってしまう。

石井 
善悪二元論を超えるということでいえば、最近別の媒体で〇五年に起きた自殺サイト殺人事件を取り上げることになり、『殺人者はいかに誕生したか』(新潮社)という本を読みました。
著者の長谷川博一さんは臨床心理士であり、凶悪事件を分析をしていて、そのうちの一人として自殺サイト殺人事件の犯人の話が載っています。

その男は小学生のころから人を窒息させることにある種の興奮を覚える異常な性癖を持っていて、それがどんどんエスカレートして、最終的には自殺サイトで出会った男女三人を窒息死させてしまった。
しかも、ある被害者を殺したあとには、親に対して脅迫文を送って身代金を要求したりしている。
自分の欲望を満たすための殺人、そして遺族への脅迫。
これらのことだけを見れば、この犯人はどう考えても非道な悪人です。
しかし、よく考えてみると、彼の性癖が殺人の動機となっていることはわかりますが、性癖と遺族への脅迫は直接的には結びつかない。
なぜそこまでやったのか。
犯人は取り調べや公判ではそのことについて話していませんでした。

でも、長谷川さんにだけは真実を話すのです。
犯人は、その被害者を殺したあと、彼の持ち物の中から遺書を見つけます。
それを読むと、その被害者が長年にわたって親から虐待を受けていたこと、その虐待を苦にして自殺の決意を固めたことがわかりました。
その事実を知った瞬間、犯人の心には殺した相手の親に対する激しい怒りが燃えさかり、脅迫という行為に至ったのです。
では、なぜ被害者の親に怒りを覚えたのかといえば、実は犯人自身も子供のころに親から虐待を受けていたからではないかという話です。

こうした事実は、警察からもマスメディアの報道からもほとんど出てきません。
もちろん、犯人自身が虐待を受けていたことがわかったからといって、彼の行為が許されるわけではない。
しかし、彼が被害者の親を脅迫した本当の理由が見えてくると、「異常な性癖によって殺人を犯し、その遺族を脅迫した極悪非道な犯人」とは違う人物像が浮かび上がってきます。
そうした別の視点を読者に提供することは非常に重要だと思います。


■割り切れない現実をどう語るか

松本 
今の石井さんのお話はひとりの人間に対する多面的な視点になりますが、同じようなことが社会状況に対してもあてはまります。
たとえば、「プロメテウスの罠」の連載で、除染と瓦礫の引き受けをテーマにしたことがあります。
記者は、瓦礫が積まれたままになっている地域の人たちを取材する一方で、瓦礫の受け入れを拒否する地域の人にも話を聞きにいきました。
前者を取材すると「復興のため一日でも早く瓦礫をどうにかしてほしい」「瓦礫の受け入れ拒否なんて、ひどい!」と訴えてきます。
では、瓦礫の受け入れ拒否をする後者の人々は自分勝手なエゴイストなのかといえば、そうじゃない。
後者の人たちは自分たちの地域を守るために、「除染は本当に効果があるのか」「リスクのある瓦礫をわざわざ分散させて、危険を広げるのは間違っているのではないか」と疑問を投げかけてきます。
両者がそれぞれに自分たちの言い分を必死に語ってくる。
そうなると、どちらが善でどちらが悪、とはいえなくなり、担当記者は困ってしまい、場合によっては書けなくなってしまうこともある。

石井 
そんなとき、松本さんはどんなアドバイスをされるんですか?

松本 
どちらかに答えを決めて書く必要はない、といいます。
両方ともが涙を流して訴えかけてくるんだから、両方が語っている内容をきちんと聞いてきちんと書けばいい。
それぞれの立場に言い分や状況があり、その両方が合わさって全体の現状を作っているんだから、その両方をあるがままに書けばいい。
そうすることによって、読者には「状況が混乱し、さまざまな問題が起きていること」そして「この混乱した状況こそ、津波や原発が引き起こした現実であること」を正しく伝えることができます。

石井 
たしかに、答えなんて、そう易々と出るものではないですからね。
だからこそ取材者は、まずは現場に入って、見たこと、感じたことを、そのまままっすぐに読者にぶつけるしかない。
現場の状況をどのようにまとめればいいのかわからなければ、「自分はここまで取材したけど、やっぱりわからないし、答えも出ません」と正直に書く。
そうすると読者も何かを感じてくれて、「じゃあ、どうすればいいんだろう?」と悩んでくれる。
現実を知ってもらい、一緒に悩んでもらうことにこそ、ジャーナリズムやノンフィクションの真の意義があると僕は思っています。

(終了)


「読楽」2013年2月号(徳間書店/2013年1月22日発売)

■現場の生々しさを切り取る


石井
被災地で強く感じたのは、マスメディアの記者は「どこへ行き、何を聞くか」というマニュアルを作っている人が多いということです。
たとえば遺体安置所では、ほとんどの記者が入口にいる市の職員などに立ち話で「何人亡くなりましたか?」「何人運ばれてきていますか?」「今後どうなっていきますか?」などの決まった質問をして、答えを聞くと帰ってしまう。
その取材方法が間違っているということではないんですが、たとえば安置所の中に入って遺体の搬送を手伝うなど、より現場に近いところに身を置くことでまったく違うものも見えてくると思うんです。

松本
そういう取材に対する記者の姿勢は、火災現場などでも顕著に表れます。
火事が起こったとき、記者には消防指令車のところに行く者と、火災現場により入り込んでいく者の二つのタイプに分かれる。
指令車には情報が集まっているので、建物の構造や広さ、世帯主の名前や年齢、けが人の数、出火原因など、火事の概略がわかる。
それらの情報をまとめると「本記」、つまり「いつ、誰が、どこで、何を、どのようにしたか」というニュースの骨格をつくることができる。
火事が大きければ、本記は一面に載ります。ところが、現場に張りついていると、建物の構造も何人焼け出されたのかもわからない。
だから、現場に入り込んだ記者には本記は書けません。
その代わり、現場でしか見られないものがある。

私がある火災現場で見たのは、火の手が上がる建物に飛び込もうとするお母さんの姿でした。
彼女は半狂乱になって「中に子供がいるんです!」と叫び、まわりの人が必死になって押さえていました。
そこにひとりの消防士がやってきて、いきなり建物の中に駆け込んでいったんです。
しかし、すでに炎は燃え盛っており、彼はすぐに出てきてしまった。
すると彼は、ホースを持っている別の消防士に「俺に水をかけろ!」という。
全身に水を浴びて、ふたたび建物の中に飛び込んだ。
そして数分後、子供を抱えて出てきたんです。

石井
現場には必ずそういう生々しい場面がありますよね。

松本
でも、そのシーンを記事にしても本記にはならないし、一面には載りません。
記者は、早く会社に戻って本記を書かなければと考えて、現場ではない場所に行きます。
そして、何世帯に燃え移り何人が焼け出されて大変だったと、いかにも現場に行ってきたかのような記事を書いて、事足れりとしてしまう。
でも、それでいいのかという疑問があるわけです。


■組織と個人

松本
『津波の墓標』で感心したのは、地震が起こった直後、石井さんがほかのすべての仕事をキャンセルして、迷うことなく「被災地の最前線に行く」と決断したことです(第一話)。
そういった判断力こそが、個人のジャーナリストのすごさだなと感じました。
人間という生き物はだいたいが保守的なので、基本的には動きたくないんです。
組織ジャーナリストも然しかり。
すでに決まっている仕事がある状況だと、その当面の仕事を口実にして動かないことの言い訳をする。
でも、石井さんたち個人ジャーナリストの場合には、たとえ仕事を抱えていたとしても、それにとらわれていては取材のチャンスもタイミングも逃してしまうと考えて、すぐに現場に入る判断ができる。
その差は大きいですね。

石井
なぜ組織ジャーナリストの多くは、マニュアル通りの取材しかできなかったり、すぐに現場に入る判断ができないのでしょうか?

松本
組織ゆえに、自分の判断だけで動けないことが大きいと思います。
組織の幹部は基本的に責任を取りたくないんです。
自分の部下が危険な現場に入って、何か事故にでも遭ったら、「上司は何をやっていたんだ」という責任問題に発展してしまう。
それが嫌なんです。
そうすると、前へ出るな、けがをする、となる。
「けがをするな」ということは、上司が「俺にもけがをさせるな」ということであり、組織には必ずそういう発想の人間がいるものです。

個人の場合はそうした制約がないので、迅速かつ自由に動けるという優位性がある。
『津波の墓標』も、まさにそうした個人ジャーナリストの強みが生かされている作品だと思います。

石井 
結局、ノンフィクションがマスメディアに対抗できる部分、個人のジャーナリストの武器になる部分は、そこしかないと思っています。
個人でやっている唯一の特権は、重大な出来事があったときに「あっちに行くから、こっちの仕事はごめんね」とフライングできることです。
ある程度のわがままを許してもらえる。もちろん最低限守ることはあるけど何を優先するかを自らの責任で選ぶことができる。
そしてノンフィクションの中では「今行った」ということが圧倒的なアドバンテージになる。
そこが個人であることの唯一の利点であって、逆にいうとその利点を使わないとどうやってもマスメディアには太刀打ちできません。

ノンフィクションを書く人間として、マスメディアができないこと、やらないことをしようという意識は常にあります。
たとえば、今回の震災にはさまざまな切り口がありますが、僕は原発問題は一切取材しませんでした。爆発事故が起きた瞬間に「これは個人の手には絶対に負えないな」と感じたからです。
もちろん個人で行って見えてくるものもあるでしょうが、政治や経済などさまざまな問題が絡み合っているので、きっと限界があるだろうと。
だから原発はマスメディアに任せて、津波に集中することにしました。
しかもマスメディアが取り上げないだろう、遺体安置所にフォーカスを当てることにしたんです。

松本
その判断は正解かもしれませんね。

石井
逆に、『プロメテウスの罠』を読ませていただいて、やはりあれだけの取材は個人ではできないだろうなと感心しました。

松本
あの連載はすでに一年以上続けていますが、あれほど長期かつ広範囲にわたって取材に行くには、それなりの時間と資金と態勢が必要です。
出版社がフリーのジャーナリストにそれらを提供してくれるかといえば……。

石井 
厳しいでしょうね。

松本
でも、われわれにはそれができるんです。

石井
『プロメテウスの罠』は何人でやっているんですか?

松本
これまでに関わった記者は十四名です。
彼らが所属するのは、主に「特別報道部」という持ち場なしの遊軍部隊。とにかく気になったネタを自由に取材できる態勢になっています。
私はアドバイザーという総監督のような立場です。

石井 
そうしたチームを組める点がまさに組織ジャーナリズムの利点だといえますね。

松本
それからもうひとつ、組織ジャーナリストの利点があります。
二〇〇七年に私は「カラシニコフ」という連載で日本記者クラブ賞をいただいたんですが、その当時インターネット上に「カラシニコフ」に関する匿名の批判記事が上がった。
その記事の書き手は「自分も昔からカラシニコフに関心があり、いつかは取材して本にしたいと思っていた」「でも、会いに行く金もなかったし、名刺もなかったから、のびのびになっていた」「そしたら、朝日のぬるい記者がぬるい取材で本を書いてしまった」「自分だったらもっといい本が書けたはずだ」という。

その批判を読んで「勝った」と思った。
なぜなら、私は朝日新聞のお金と名刺を最大限に利用して、カラシニコフ本人に会いに行き、戦争の現場に行き、記事が書けた。
一方、匿名の彼は会いに行くことさえできず、記事は書けなかった。

大きな組織にいれば、金と名刺が使える。
それが組織ジャーナリストの最大の有利な点です。
大手メディアに属する記者としては、その利点を生かすのが義務なんです。
私は授賞式でこの批判記事のことを披露して、「新聞社の記者は名刺やお金が使えるんだからどんどん使いなさい」「それをやらないと、この匿名の人に負けちゃうよ」と話しました(笑)。



「読楽」2013年2月号(徳間書店/2013年1月22日発売)

今月発売の文芸誌『読楽』(徳間書店)で、松本仁一さんと対談しました。
<完全現場主義>と題して、事実を取材して書くとはどういうことかということを話しています。
編集長と担当編集者の厚意により、全4、5回にわたって、ネットでも少しずつ内容を掲載していきますので、よろしければお読みください。

<完全現場主義>

■マスメディアが伝えないこと

松本 
新作の『津波の墓標』、拝読しました。
東日本大震災関連では前作『遺体』(新潮社)も非常によかったのですが、今作にはより生々しい話がたくさん盛り込まれていて、個人的にはこちらのほうが引き込まれました。

石井 
ありがとうございます。

松本 
印象的だったのは、はじめの部分に書かれていた「津波の臭い」という表現(第一話)。
津波の被害を伝えるとき、われわれは「瓦が礫れきが散らばる」など目で見えるものを真っ先に書いてしまう。
でも、あの瓦礫の山からはひどい臭いがするんです。
瓦礫に臭いがあるということを書いたのは、石井さんがはじめてじゃないかな。
ほかにも、遺体を覆うブルーシートをめくって写真を撮るカメラマン(第五話)や瓦礫をバックに記念撮影をするボランティア(第四話)、自転車に乗って金目のものを漁あさりに来る近隣の少年グループ(第二話)など、マスメディアの報道からは伝わってこない、被災地で起こっていたありのままの現実をちゃんと記録しているのもさすがだと思いました。

石井
テレビや新聞などのマスメディアが伝えないことを書いてこそのノンフィクションですからね。

松本
石井さんが『津波の墓標』で書かれたようなことは、新聞では書けないと思うんです。
というのも、新聞が書いてしまうと、被災地以外の人々に「新聞に書かれているぐらいだから、日常的に行われているんだ」という印象を与える可能性がある。
たとえば被災地で起こっている窃盗の記事を載せたとしたら、なかには「みんながやっているなら、自分も一回ぐらい……」と考える人が出ないとも限らない。
「援助交際」も、今でこそ一般の人にも知られていますが、もともとはアンダーグラウンドで行われているものでした。
ところが、マスメディアが大々的に報道したことで、実際に援助交際をする人が一気に増えたそうです。
大手紙と呼ばれるようなメディアは、世の中への影響の出方が大きいので、書く内容や書き方にかなり気を遣わなければなりません。
ただ、そのことにあまりとらわれすぎると、今度は記者が勝手に自主規制をはじめて、伝えるべきことが伝わらなくなる。
どこに線引きをするかは難しい問題ですが……。

石井 
ノンフィクションの場合は、一冊千五百円、二千円の値段がついているし、そのお金を出して本を読もうという読者はある程度世の中に対する問題意識が高いという面があります。
本の読者というだけでかなり選別されているわけです。だから、出来事をありのままに書いても、読者が「だったら自分も……」という発想に陥るケースは極めて少ないといえます。
ところが、新聞の場合は読んでいる層がかなり広いし、さらにテレビともなれば不特定多数に無料で情報を流している。となると、記事化することにおいて最低限の規制はどうしても必要になってきますよね。

松本
規制は必要ですが、それは「取材しなくていい」ということではありません。
取材は徹底的に、可能な限りしなければならない。現場へ行って、瓦礫の中に放置されている金庫を開けている人たちがいたら、「お前たちは何をやっているんだ」と話を聞かなければならない。
そうした取材で自分の手持ちのカードを増やし、集まったカードをどう表現していくかを考えることが、われわれジャーナリズムの世界で生きている人間の任務だと思います。

石井
たくさんのカードを持つのは非常に重要だと思います。
カードとは多様な価値観や視点を持つことであり、その数が作品の良し悪あしを決めるものになりますから。
震災後間もなく被災地の現場に入り、さまざまな人の話を聞きさまざまな光景を見てきました。
私はそうすることでカードを集めてきました。
そして今回の震災取材では、二冊の性格の異なる本としてまとめることになりました。
『遺体』は遺体安置所に焦点を絞り、そこで奮闘する人々の姿を描いています。
その光景を見ていた「私」という存在は作品から排して、現場で起こっていたことをドキュメントとして描くことに専念しました。
一方『津波の墓標』では、『遺体』では書けなかった、「私」という存在を通して見た震災を描きたかった。自分を媒介することでしか書けないこともあるんです。
今回の本で出てくる幽霊の話(第三話)も、自分を媒介することでしか書けなかった話です。
ある日、被災者数人が、幽霊が出るという噂のある河原に行くというので私も同行しました。
彼らは懐中電灯であたりを照らしながら必死に幽霊を探している。
「津波で死んだ人間の幽霊だったら会いたかったのに」
そんな言葉を聞いて、まだ行方不明の家族に幽霊であってもいいから会いたい、という彼らの気持ちが痛いほど伝わってきました。
その光景を見ながら、私はただ、その場にたたずみ、それを懸命に理解することしかできませんでした。
現実の中にはそんな私を含めて描くことでしか伝えられないことがある。
もし「私」を排除してしまうと、とても冷たいレポートになってしまう。
この物語は「私がどう感じたか」を含めて描かなければならない。
そうした体験を数多くしたので、一冊にまとめておきたかった。

松本
今おっしゃったことは、個人のジャーナリストだからこそできることだと思うんです。
新聞記者のような組織に所属するジャーナリストは、「私は」と書くことを意識的に避けるよう教育を受けて育っています。
というのも、「私は」と書いてしまうと、読者は書かれている内容よりも「私」に感情移入してしまうから。
今回の石井さんの本でいえば、読者は石井光太が被災地で何を考え、どう動いたのかを見ようとする。
でも、新聞のスタンスは違います。
たとえば、私も関わっている朝日新聞の連載記事「プロメテウスの罠」では、各シリーズで主人公を決め、その人物の思いや行動を三人称で書いています。
読者には、主人公の内面にまで入り込んでそこで起こっていたことを追体験してほしいという狙いがあります。
あるシリーズでは福島県双葉町の井戸川克隆町長を取り上げています。
もともと原発推進派でした。ところが三月十二日、福島第一原発一号機で水素爆発が起こった直後、双葉町に放射性物質を含んだぼたん雪のようなものが降りしきる。
原発の建材の破片です。屋外で炊き出しや作業をしていた町民たちはみんな、その「雪」をかぶってしまった。
その瞬間、井戸川町長は「もうこの町は終わりだ」とショックを受け、町民を守るためにも「みんなを連れて逃げなければ」と考えます。
井戸川町長の一連の思いや行動を読者が追体験するためには、「私」という存在はかえって邪魔になります。
だから、「プロメテウスの罠」では、一貫して三人称での記述にこだわっているんです。

(つづく)

出典
「読楽」2013年2月号(徳間書店/2013年1月22日発売)

昨日、小学校の同窓会があった。
24年ぶりである。僕はパーティーの類は基本的に参加しないのだが、このような同窓会が今回の1回限りだったらもう二度と会わない人もいるんだろうなー、と思い、行ってみることにした。

京王プラザホテルの会場にいくと、懐かしい顔がたくさんあった。
約40人ぐらいが参加したらしい。1学年4クラスだったから1クラス分ということになる。仲良くしていた人がたくさんいたので、昔の話やら今の話やらで盛り上がった。

今日の朝、実家に寄ったついでに同窓会のことをチラッと話した。
親は喜んでいたが、一言こんなことをつぶやいた。

「同窓会に来る人って、社会でうまくいっている人とか、学生時代に良い思い出があった人に限られちゃうかもしれない」

それを聞いてふと思ったのが、2、3年前に大学のゼミの人たちで集まった時のことだ。
担当教授を挟んで何人かで飲んだのだが、一人男の子が終わる直前になってフラッと現れた。閉店間際だったので15分ほど飲んでほとんど会話もできなかった。
その後、彼は帰りの方向が同じということで教授と一緒に帰ったのだが、あとで教授から聞いたところによれば、彼は帰路にこんなことをつぶやいていたらしい。

「自分はいまだに定職につけずにフラフラしているので、同級生と顔を合わせる勇気がなく、ずっと一人で別の店で酒を飲んでいた。それで終わる直前に勇気を出して来たんです」

僕はそれを聞いて、あることを後悔した。
彼が遅くにやってきた時、私は何も考えずに「いま、何やっているの?」と訊いてしまったのだ。
彼はあまりはっきりとしたことは言わなかった。きっと言い出せなかったのだろう。
もし彼の気持ちをわかっていれば、訊かなかったにちがいない。

同窓会に来られない理由というのは、人によって様々だと思う。
上記のような人もいれば、単に忙しいという人だっているだろうし、同級生に嫌な思い出しかない人だっているだろう。
来られる人には来られる人の物語があり、来られない人には来られない人の物語がある。
そして、その時々によって両者が逆転することもある。

僕が卒業した小学校は、世田谷区にある公立だった。
卒業年は昭和64年。
昭和最後の年だ。

きっと何度同窓会を開いても、その度に来る人は変わるのだろう。
それが時の流れなのだ。

ただ、その流れを思うと、やはり卒業というのは悲しくも切ないものだとつい感傷にひたってしまう。

あまりに心のこもったコメントだったので、こちらに掲載してご返答します。

こんにちは、ぴるむと申します。
石井光太さんの「遺体」映画化しましたね。
私は釜石市民として悲惨だったあの頃を映画にするのは初めはどうかと思いました。
震災直後の何もない釜石を、家族を失った悲しみからまだ立ち直れていない人をたくさん見てきた中で、この映画は悲しくなる一方ではないかとばかり思っていました。
しかし、西田敏行さんを初め、たくさんの豪華な方たちが本気でこの映画に取り組んでいる姿を拝見し、涙が止まりませんでした。
実際、私は祖母と叔母を震災で失い、何度も遺体安置所へ行きました。
釜石第二中学校や大槌などに行き、沢山のご遺体を見てきましたが、今でも見つかっていません。
当時、中学二年生だった私は何が起こっているのか分かりませんでした。
このような悲しみを味わった人は釜石にまだたくさんいます。
そんな人たちの思いを届けてくれたこの映画を本当に嬉しく思います。

12月15日に釜石高校で映画を見てきました。
被災者の実際の生の声を生かしてくれている嬉しさとあの頃の自分に思いを重ねてしまい悲しみがあふれ出てきたことを今でも思い出します。

釜石はまだ震災の爪痕がくっきりと残っています。
その釜石を私たち子供が将来作っていく役目を背負っていると思います。
私たちに今でも支援をしてくださる心優しい方々の思いを無駄にしないよう精一杯頑張っていきたいと思います。
そして、復興した釜石を皆様に見せられるようにしたいと思います。
どうか、震災のことを被災した方もそうでない方にも忘れないでください。


中学二年生であの現場にいらっしゃったんですね。
震災の直後に、釜石など被災地へ行った時のことは忘れられません。
あの時、私の胸にあったのは、「被災地はこんな状態なのに自分が住む東京はほとんど無傷」ということに対する罪悪感と、だからこそ自分に出来ることを何か一つでもやらなければ、という気持ちでした。
結果として、それが『遺体』という作品を描くことにつながりました。

それは、きっと映画の君塚監督や出演者の方々も同じ気持ちだったと思います。
みなさん一人ひとりが「自分の出来ること」として考え、あの映画をつくりあげてくださったのだと思います。
私自身、映画製作の最初の段階から関わらせていただいていたので、出来あがった作品を観た時は、その気持ちをストレートに感じ、本当にここまで丁寧につくってくれたんだ、という思いで涙が出てきました。

私たち作り手にとって、なによりも大切なのは当事者の方々がどう感じるかという点です。
そういう意味では、あなたがこのようなメッセージを寄せてくださったことは、何にも勝る喜びです。
本が出版され、映画の公開が終わっても、あなたはずっと釜石の人であり、釜石と関わりながら生きていくことと思います。
もしかしたら、いつか「釜石のことが忘れられているのではないか」とか「自分に出来ることに限界がある」と感じることもあるかもしれません。
そんな時は、いつでも声をかけて下さい。
本はいつか書店からなくなりますし、映画の公開も終わりますが、僕自身はあなたと同じようにずっとあの日の記憶を持ちつづけていますし、微力ですが何かしらできることがあるかもしれません。

いつかそんな形で、成長したあなたとお会いできれば嬉しいです。

昨日は「情熱大陸」の放送日だった。
たしか最初に依頼が来たのは、今年の初めだった。プロデューサーと2回ぐらい飲みにいって提案され、承諾したんだと思う。
番組については、僕がコメントするべきではなく、ご覧になった方々が自由にいろんなことを感じるべきだと思う。だから、今ここで書けるのは、「ありがとうございました」ということだ。

「情熱大陸」は、その人の仕事にかける「情熱」を追う番組だ。
僕は自分のことはよくわからないが、とにかく人を感動させたいという気持ちは人の何千倍もあると思っている。
番組にもあったけど、僕は子供のころからこの仕事がやりたくてやりたくて仕方がなかった。文章によって人の心を揺り動かしたくて仕方がなかった。文章によって世界を豊かにしたかった。
それは自分が文章によってすさまじい感動を受けたことがあり、それがどれだけ素晴らしいことかを知っているからだ。だからこそ、僕自身がその衝撃を人に与えたいと思った。

だから、いまそれができるのがこれ以上ないぐらい幸せだと思っている。
また、やらせてくれているまわりの方々に心から感謝しているし、期待に一つでも応えたい。
そのためには何を犠牲にしたっていい。まったく眠らなくてもいいし、24時間書き続けてもいいし、実際にそうしている。
1作でも多く、1行でも多く文章を書いて、人の心を動かして、世界を豊饒なものにしていきたい。

そんな僕だが、文章以外にも夢を持っている。
その一つが、「世界の貧困を再現する博物館をつくる」ということだ。
建物、トイレ、遊び、お酒、料理、水の浄水、性生活、結婚、出産、埋葬何もかも再現したい。実際にそこで密造酒をつくるなんてことだってできる(飲んだらNGだが→笑)

大学一年生の時に初めてアフガニスタンの難民キャンプを目にして、心を突き動かされて、世界各国を舞台にして文章を書いてきた。
文章でできることは徹底的にやりながら、一方で「博物館(期間限定のイベントでも)」という小学生でも見れて、触れて、心を動かされるものをつくりたい。
そうすることで、まったく違う形で人の心を動かすことができると思っているからだ。
もちろん、展示の内容は、海外の難民キャンプやスラムだけでなく、日本の戦後の浮浪児が暮らしていた地下鉄やバラック、あるいは近年の日本をテーマにしてもいい。
貧困世界の暮らしがどういうものであるかということを五感で理解できる空間をつくりたい。

もちろん、とても大きなプロジェクトである。
ただ、できるだけ早く実現したいと思っているので、もし具体的にお力を貸していただける方がいれば、メール等でご連絡をいただければと思っています。
kota_ishii@yahoo.co.jp

とにもかくにも、番組では本当にいろんな方にお世話になりました。
心よりお礼を申し上げます。

これからも、全身全霊を込めて文章を書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。



追記
ノンフィクションの題材は常に募集しています。
「こういう情報を持っているが文章にして告発してくれないか」「こういう人間(会社)を紹介するので、評伝を書いてくれないか」「こういう問題があるので目を向けてくれないか」などいつでも募集中です。
お気軽にメールをください。アドレスは上記と同じです。

職業病なのだろう、ニュースを見て気になると、すぐに名前を検索してみる。

若い人だと、たいていツイッターやフェイスブックをやっている。
なので、顔写真、経歴、友達、そして直前までの投稿がぜんぶみられる。殺人犯なら殺人犯が出てくるし、殺人の被害者なら被害者が出てくる。
それでその内容と事件を考えてみて、記事になりそうな感じがすれば調べ始めるし、そうじゃないと調べない。

麻薬の運び屋なんかのフェイスブックを見ると、たいてい当人がジャンキーか、本当に騙されてやらされたのかはたいていわかる。
たまらないのは、その「友達」「フォロアー」の方だろう。ここから共犯であることがバレたり、関係ないのに疑われたりするに違いない。
ツイッターやフェイスブックには、落とし穴もたくさんある。

しかし、これは自業自得なので仕方がない。
つらいのは、事件の被害者や、津波などの死亡者だ。
たとえば、震災取材の時、どうしても必要だったため、死亡者リストに載ってくる名前をかたっぱしから調べていくのだが、その人の友人のツイッターやフェイスブックを見てみると、必死になって探したりしている。
家族や友人や恋人が「●●が見つかっていません。海辺にいたはずです。お願いですからどなたか情報をください。ほんのわずかな情報でもいいです」などと書いている。
しかし、亡くなった本人のツイッターやフェイスブックは3.11以降まったく更新されていない。
それを見続けるのが本当につらかった。

そうそう、ある人の書き込みに、津波が来ていることを書いているものがあった。
たまたま通信がつながり、そっちに書いたのだろう。だが、それきり書き込みは途切れていた。そして、その書き込みの主は、津波の死亡者リストに名前が載っていた。
きっと書き込んだ後に、津波に呑みこまれて亡くなったにちがいない。
それがずっと文字として残っているのだ。やりきれなかった。

さらに、一年が経ち、一周忌の際に再び検索してみなければならないことがあった。
そうすると、かわいそうなことに、それらの書き込みはまだそのままになっている。登録者が死んでしまっているので、ずっと残り続けてしまっているのだ。

ネットの事業者は、「透明性」とかそういう言葉で自己媒体を肯定する。
もちろん、私もそれは間違っていないと思うし、いいこともたくさんあると思う。

しかし、家族や友人は、それを見てどんな気持ちになるのだろう、と考えてしまう。


春の朝日カルチャーセンターの最終講座のあと、飲み会をやりました。
講座は4、50人でやり、飲み会の参加者はその半分ぐらいだったかな。講座の終了時間が8時過ぎだっため、9時スタートの飲み会になってしまったことは、ちょっと申し訳なく思っています。

次回のカルチャーセンターは7月です。
7月も希望者がいればやりますので、初回の時に申し出てください。
(僕からは企画しませんので。ちなみに、申し出た人に幹事をしていただきます)
7月の講座は内容に意見交換をたくさんいれていくので、今回の半分の25名の定員としていますので、ご了承ください。

※詳細は、以下。
http://kotaism.livedoor.biz/archives/2012-05.html#20120525

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