石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

カテゴリ: 日々のこと

最近、「正論」を振りかざす人間がやたらと多い。多すぎる。

インターネットの書き込みなんかでは、「正論」がまかり通る。
「正論」をいう人間が正しく、そうじゃない人間はエチケットもモラルもない奴だとなる。

しかし、だ。

世の中、いつでもどこでも「正論」が通じるわけがない。
いや、むしろ「正論」なんてつうじなかったり、言ったって仕方がない部分があまりに多い。

昔から、「若いうちに経験をつめ」といわれる。
それは現実の世界では必ずしも「正論」が通じないことを体験を通して知り、その中で自分はどう生きていくかを考える力を持て、ということ。
「正論」が通じない現実で何をどうすべきかは、現実と対峙しなければわからないわけで、その経験をできるだけ多くつまなければ、現実を生きることにならないということだ。

にもかかわらず、現実を見つめず、「正論」ばかり語る人間が多すぎる。
きっと現実と対峙して傷つくことが怖いのだろう。だからこそ、現実を避け、「正論」という鎧で必死に弱い自分を守ろうとする。
そして、そんな連中ばかりで群れて、お互いの「正論」をほめたたえあう。

正直、最近そういう人たちにうんざりしている。

最近、なぜか動画がよくつくられる。そういう風潮なのだろうか。
先日渋谷の書店で行った蔵前仁一さんとの新刊イベントの動画(NHK出版主催)がUPされた。
ちょっと長いですが、暇なときに見ていただけたらと思います。
ちなみに、この日は風邪をひいていて無理に声をだしてしゃべっていたら、翌日にまったく声が出なくなった。。。




この動画は1/5です。
つづきを見たい方は以下をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=6YT-NECR7-8&feature=player_detailpage&list=UL6YT-NECR7-8

あけましておめでとうございます。

去年は、めまぐるしく一年が過ぎ去りました。
ざっくり書くと……

1月にコロンビアでの子供兵の取材から帰国。
すぐに絵本『おかえり、また会えたね』(東京書籍)を出版。そして、コロンビアの子供兵の原稿を書き終え、『飢餓浄土』(河出書房新社)の発売日を迎えたと思ったら、その日に東日本大震災発生。
小学館週刊ポストの後押しを受けてすぐに現地入り。そこから約2か月半被災地に滞在しながら、週刊誌、月刊誌にルポを書き、そのさなかの4月に新作『ルポ 餓死現場で生きる』(ちくま新書)を発売。
取材が終わって東京に戻ってきたら、その月に『絶対貧困』(新潮文庫)の文庫版を発売。
そこから2カ月で『遺体』(新潮社)を書き上げ、10月に発売。
書き終わったその月から、『ニッポン異国紀行』(NHK新書)『アジアにこぼれた涙』(旅行人)と徳間書店の新雑誌『読楽』での新連載「津波の墓標」を執筆。
で、12月下旬からは『新潮45』の新連載(タイトル未定)、幻冬社Webマガジンでの連載(タイトル未定)の準備……。
(上記、雑誌やムックなどの仕事については割愛。書籍のみ)

という感じでした。
ふり返ってみて、一番印象に残ったのは当然のことながら東日本大震災でした。

年末にテレビを見ていたら、ある歌手が「震災の後、歌うことしかできない自分自身に対して、『こんなことをしていていいのか』と思った」と言っていました。
(ちょうど来年春にスタート予定の連載<戦後の浮浪児>の取材ノートを整理していたこともあり、「美空ひばりもそんな思いを抱きながら歌っていたのかもなー、なんて思いました)
これは、書いている人間も同じで、あの震災の直後現場に身を置いている間、ずっと「こんなことをしていていいのか」と思っていたはずです。
僕自身も遺体安置所で働いている人たちに話を聞いている時、被災地で遺体捜索をしている人たちを追いかけている時、遺族の家にお邪魔して話を聞かせてもらっている時、ずっと「こんなことをしていていいのか」と思っていました。

この疑問は、震災に限らず、すべてのノンフィクション取材において当てはまります。
そして、取材を終え、執筆を終え、本を出したとしても、「取材対象者がこれを読んでどう思うか。傷つけることになりはしないか」という後ろめたさとして残ります。
ノンフィクションを書く、あるいは「現実」の中で仕事をするという仕事は、そうした罪を背負うことと同義なのです。

(だからこそ、本を書いてほめられたとしても心から嬉しいと思ったことは一度もありません。賞賛されたり罵倒されたりして感じる喜怒哀楽より、取材対象者が読んでどう思うかという不安の方が圧倒的に大きいのです)

今回は日本を舞台にすることで、あらためてそのことを教えられた気が気がします。

とはいえ、僕としては文章を書いて生きていくと決めた時点でそうした「書くことの原罪」を背負うことを覚悟しています。
なので、とにかく今は、一つ一つの仕事に全身全霊を込めて向かっていくことしかできません。
それは、今年も同じです。
2012年に何が起こるかはまったくわかりませんが、とにかくズンズンまい進し、僕にしかできないことを全身全霊を込めてやり遂げていきたいと思っています。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。



追記
1月14日に『遺体』の舞台となった釜石市でトークイベントを行うことになりました。よろしければお越し下さい。
http://www.shinchosha.co.jp/event/#20120114_01

『遺体―震災、津波の果てに』について、重要なお知らせがあります。
現在本書は6刷が決まっていますが、来週早々にも刷り上がる予定の5刷から本文に登場する名前が一部変わります。
その経緯について、以下ご説明いたします。

先日、私のもとに一通のメールが届きました。
釜石市に暮らす小野寺さんという30代の男性でした。
そのメールには、「『遺体』の中で津波で死亡したと書かれている赤ちゃんは自分の子供かもしれない」とありました。
大まかに言えば、やりとりした内容は次のようなものでした。

<本文中で書かれている「生後100日で死亡した相太君」は、私の息子だと思います。

本に書かれているように、3月11日、津波が襲ってきた日、妻は生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて逃げようとしました。
けれど、途中で妻は津波にのまれて赤ちゃんは手から離れてしまった。そして、母親だけが助かったのです。

私が勤務先から帰ることができたのが翌日でした。
生まれて間もない赤ちゃんが津波にのまれたと聞いて、必死に捜し回りました。
すると、瓦礫の中に、赤ちゃんの遺体を見つけたのです。
私は号泣しながら自分の手で抱き上げ、家で遺体の顔などについた泥をお湯で洗いました。

その後、私は勤務先に行かなければならず、家を離れました。
その間に、自衛隊の方がやってきて、息子の遺体は祖父母とともに安置所に運ばれました。
そして、本文に書いてあるように、医師の小泉先生に検案書を書いてもらい、管理人の千葉さんなどに声をかけてもらったのです。

こうした経緯は、『遺体』に書かれている<相太君>の話とほとんど同じです。
当時、生後間もない赤ちゃんの遺体は、うちの息子以外に安置所にいませんでした。そのことを考えても、<相太君>はうちの子供だと思います。

息子の本当の名前は「雄飛」という名前です。
本のあとがきには、「故人については仮名で記している」と書かれているので、おそらく、「雄飛」を「相太」にしているのだと思います。

ただ、もし本当に私の子供だとしたら、その記録が本に載るのならばありがたいと思っています。
そこで以下のお願いを聞いてくれませんか。

1、仮名ではなく、本名の「雄飛」にしてもらうことは可能でしょうか。
(こちらは、私がメールを読んでそう望んでいるのだと考えてご提案し、小野寺さんの方からも「本文中の表記を「雄飛」に直していただけるなら、私たち夫婦にとってこんなに嬉しいことはないです」とのことでした)

2、息子は「生後100日」ではなく、「生後54日」でした。こちらも訂正することは可能でしょうか

よろしくお願いいたします>


本書のあとがきにも書きましたが、私は『遺体』を書くにあたってプライバシー保護のため登場する故人の名前はすべて仮名にいたしました。「相太」というのも仮名でした。
しかし、小野寺さんとしては、亡くなった赤ちゃんが本に記録として書き残されるのは「ありがたい」し、「本名」で書いてもらった方がいい、ということだったのでしょう。
それで確認も含めてメールを送ってこられたのです。

ただ、メールをもらった時点では、私はこの赤ちゃんが本当に小野寺さんのお子さんかどうか断言できませんでした。
というのも、赤ちゃんは自衛隊とともに祖父母の手によって安置所に運ばれてきたのですが、その時私は現場に立ちあっておらず、運ばれてきた時の詳細については後日管理人の千葉さんやその他数名の安置所の関係者からインタビューによって聞き取ったことだったからです。

安置所の関係者は、赤ちゃんのことをよく覚えていました。
それは、生まれたばかりの赤ちゃんだったということと、ご両親が毎日会いにやってきて遺体の前で涙を流していたことが印象的だったのでしょう。
お母さんは安置所にやってきては、遺体に向かって「助けることができなくてごめんね、ごめんね」と泣いて謝っていました。
管理人の千葉さんはお母さんに「毎日会いに来てあげてください。きっとお子さんも喜んでいますから」と慰めました。
そこにいた人々には忘れられない光景だったのです。

ただ、震災発生後間もない混乱状態での出来事だったので、あとから聞いても関係者は赤ちゃんの本名を憶えていませんでした。
数百の遺体を扱わなければならなかったから、仕方のないことです。
そこで、私はこれらのインタビューをまとめて「相太」という仮名で本の一部で描いたのです。

本当に、「相太」君は「雄飛」君なのか。
私は新潮社の担当編集者にメールの内容をつたえた上で、相談して調査してみることにしました。
できれば、小野寺さんのご希望に対してできるだけのことをしたい。
それが私と編集者の思いでした。
それで手分けして、釜石市の役所や安置所の関係者に再度取材をしてみることにしました。

その結果、「相太」君は「雄飛」君であると断定してよいだろうという結論に達しました。
以下が理由です。

・釜石市で同時期に「0歳」で亡くなったのは1名しかいなかった。(市の回答)
・関係者からも「おそらく、そういう名前だったと思う」という回答を得られた。
・私が所持する火葬リスト表の名前や火葬日もそれらと一致する。

こうしたことから、私は編集者と話し合い、そして再度小野寺さんに了解を取った上で、5刷から「相太」を「雄飛」君という本名に書きかえることにしました。

一方、<生後100日>の件については、本当に悩みました。
小野寺さんとしては、<生後100日>と<生後54日>は意味合いがまったく違います。
もし、54日でなく、100日生きることができたら、どんなにかよかったでしょう。それが父親の思いなのです。
そうした無念さをつたえるためにも、小野寺さんは54日に変えてほしいと願うのは当然のことです。

しかし、私は編集者と深く話し合った結果、<生後100日>の文章はそのままにすることにしました。
それはノンフィクションとしてどうしても変えられない以下の事情があったためです。

私がインタビューした関係者は、間違いなく「生後100日というメモがあった」と証言していました。これは複数の人が証言しています。
私も本書では「赤ちゃんが生後100日だった」と書いているわけではなく、「赤ちゃんの遺体に生後100日というメモが貼ってあった」と書いています。

小野寺さんはこうしたメモはなかったとおっしゃっていました。
しかし、遺体が安置所に運ばれてきた時、小野寺さんはいませんでした。小野寺さんが安置所へ行ったのは勤務先からもどってきた翌日以降のことです。
つまり、安置所の関係者たちが目にした時の日にちと、小野寺さんが見た日にちにズレがあるのです。

これは、小野寺さんが勤務先に行っていた間に、<生後100日>という過ったメモが貼ってあった可能性があることを示します。
だとしたら、「ノンフィクション作品」である限り、「<生後100日>というメモが貼ってあった」という記述は正しいということになり、そこを書き換えるわけにはいかなくなるのです。
そこを書き換えたら、「関係者の証言で構成したノンフィクション作品」であるという前提が崩れてしまうのです。

私は編集者と相談し、この作品を関係者の証言で構成している以上、関係者の証言通り描き記すのが道義ではないかと判断し、小野寺さんに了解を取ってそのままにすることにしました。
小野寺さんもご理解くださいました。

とはいえ、先にも書いたように、小野寺さんにとっては、100日と54日には大きな差があります。
わずか46日の違いとはいえ、雄飛君にとっては倍の人生を送れたことになり、親御さんは倍の時間子供とともに過ごせたのです。
その思いを考えると、「生後100日のメモがあった」と書いたままにしておくことが、小野寺さんの心に傷を残すことになりはしないかと懸念いたしました。
そうしたことを考慮した上で、本の記述を変えることはできないものの、このブログでその経緯と実情をすべて明かすことにしたのです。

このブログをアップするまで、私は小野寺さんと何度もメールのやりとりをして、当時の状況を詳しく聞きました。
生後一カ月半の「雄飛」の写真も見せていただきました。
あの日からの日記も読ませていただきました。
雄飛君の笑顔は、写真を見ただけでも赤ちゃんの温かさや香りがつたわってくるようなかわいらしいものでした。

お母さんは、雄飛君をどんなにか守りたかったことでしょう。
津波に流されて、雄飛君が自分の腕から離れてしまった時、どんなことを思ったでしょう。
父親である小野寺さんは、瓦礫の中で自分の息子の遺体を発見した時、どんな気持ちだったでしょう。
その後、何を考えながら赤ちゃんの顔についた汚れをお湯で洗ったのでしょう。
そして、ご夫婦が安置所へ毎日訪れ「助けてあげられなくてごめんね」と謝りつづけた時の気持ちはいかばかりだったでしょう。

小野寺さんから体験談を聞く度に、私は津波の被害を受けた人たちの胸の内を考えました。
小野寺さんだけでなく、被災した人の数だけこうした経験があり、それぞれの苦悩を背負っているのです。

私としては、そうした小さな個人の思いや物語を大切にして記録したいと思い、『遺体』を書き上げました。

おそらく今年の末、そして来年の1周忌には、メディアはある程度大きく津波を取り上げるでしょう。
しかし、それを過ぎてしまえばメディアに津波の映像が登場することは少なくなり、人々の記憶から津波のことは急速に薄れていくはずです。

しかし、忘れないでいただきたいのは、『遺体』で書いたことはすべて事実だということです。
そして、小野寺さんのようなご遺族は他にも何万人とおり、それぞれが小野寺さんのようなつらい過去を背負いながら生きているのです。
その生きている場所は、私たちが暮らしている同じ日本なのです。

私は小野寺さんからメールをいただき、雄飛君の本名を載せてほしいと言われた時、小野寺さんの二つの思いを聞いたような気がしました。

一つが、雄飛君が生きた証を残してあげたいということ。
そして、もう一つが、こうした現実があったことを、多くの人の記憶に知ってもらいたいということでした。

前者はかなえられましたが、後者は定かではありません。
この本がどれだけ多くの方に読んでいただけるかわかりませんし、いつかは絶版になるのが本の宿命です。関心が薄れていけば次第に読まれることも減っていくでしょう。
しかし、もしみなさんが『遺体』あるいはこのブログを読んで何か一つでも感じたことがあれば、それを津波を経験した人たちのためにも、語りついでいただければと願っています。

それが被災した小野寺さんをはじめとした、大勢の人たちの願いをかなえることになるのですから。

『遺体―震災、津波の果てに』を読んで下さった方々から、よく「なぜメディアは遺体を隠したんですか」と尋ねられる。
時にはインタビューを受けていて、記者本人から訊かれることもある。

実際、3.11の直後から取材をしていて、メディアが「隠している」というのは感じていた。
ある雑誌のカメラマンは当日に被災地に派遣されたとき、「とにかく遺体の写真を撮ってこい」と命じられたにもかかわらず、発売直前になって方針転換して遺体の写真以外のものを数多く撮ることを命じられていた。
あるテレビ局の関係者は、ひたらすら被災地の映像に遺体が映っていないかどうか何十回も調べさせられ、「絶対にない」というものだけを放送していた。
いろんなメディアでそうしたことが多かれ少なかれあったのだ。

とはいえ、僕自身、大手メディアが遺体を映す必要はなかったと思っている。
今回の災害は「天災」であり、「人災」ではない。戦争のような人災ならば「人間ってこんなひどいことをしているんだ」ということを知らせるために遺体を映す必要はあるかもしれない。
しかし、誰が悪いわけでもない天災において、個人や遺族のプライバシーを犠牲にしてまで遺体を大手メディアが流すべきではないと思う。

マスメディアは良くも悪くも情報を垂れ流しにする媒体だ。
これが高い料金設定の単行本や映画とは違う点だ。
マスメディアは読者、視聴者がもし「見たくない」と思っていても、見せてしまう。そういう性質をもったメディアなのだ。

かつて情報の発信源がマスメディアしかなかった時代においては、「現実をつたえる」という意味ですべてをありのままに流す必要はあっただろう。
しかし、現在はネットなど様々なメディアがあり、そこが好き放題いろんな情報を流している。遺体の写真だって探せばたくさんある。
そういう状況にもかかわらず、マスメディアが故人や遺族のプライバシーを踏みにじってまで遺体の映像を流す必要はないと僕は思っている。
「現実」を見たい人はマスメディアに頼るのではなく、自分で探して自分の選択で見るべきだ。
少なくとも、僕はそういう時代になっていると思う。

しかし、マスメディアは実際にそこまで考えて取材をしていただろうか。
そうだったらいい。ところが、僕はなかなかそうは思えない。

テレビはすべて横一列に同じ規制をかけて、同じようなニュースしか流さなかった。
新聞だって同じだ。深いちゃんとした記事がどれほどあったか。

たとえば、3月12日〜20日ぐらいまでは、ガソリン不足から遺体安置所へいけない家族が大勢いた。
そのおかげで、家族の中には遺体が悪くなっていくにもかかわらず、探しに行くことさえできずにいる人たちもいた。悔し涙を流す遺族に何人も会ったことがある。
(大体20日ぐらいから自治体が遺体安置所を巡る巡回バスを出した)
この時、いち早く、メディアが遺体安置所状況をつたえて「どうにかすべきだ!」と言えたはずではないか。

あるいは、火葬だって同様だ。
火葬ができなかったため、3月の末になっても安置所に放ったらかしになっていた遺体がたくさんあった。どんどん悪くなっていっていた。
この時、メディアは「感動の復興秘話」ばかり伝えるのではなく、「遺体がこんな状態になっている。ほかの自治体も全力で力を合わせてどうにかできないのか!」と訴えられたはずではないか。

遺体捜索をしていた人たちの問題だってある。
遺体捜索をしている人の中には、あまりに無残な遺体を目にして夜逃げ同然にいなくなってしまった人もいた。精神を病んだ人も大勢いた。
メディアは「現場では遺体がこんな状況になっていて、一般市民が捜索に駆り出されてこんな事態に追い詰められている。誰かもっと何かできないか」と言えたはずではないか。

私は、遺体を映せとか、残酷な現実を伝えろ、と言いたいのではない。
すべてのメディアが一律に「こうすれば問題ないだろう」という考えのもとで物事に規制をかけていくのではなく、一つ一つのメディアが「今はこうするべきだ」と考えて情報を発信していくことが必要ではないか、と考えるのだ。
もし全部が「こうすれば問題ないだろう」で行うのならば、極端な話NHKだけあればいいという話にもなりかねない。
にもかかわらず、マスメディアの人たちと話をしていると、まるで決まったセリフのようにこう愚痴を漏らす。

「ウチじゃ、そもそも無理だから」
「そういうのやりたいなら、自分で立ち上げてやるしかないよね」
「マスメディアってそういうのはできないからね」

あんたの所が無理なら他にどこがやるっていうんだ? と言いたくなるが、基本的にはすべてこの態度である。
それがサラリーマンだとか、会社組織の限界だとか言われれば、それまでだし、就職をしたことのない僕には口をはさむ資格はなくなってしまうのだが、ただ一つ言えることは以下だ。

「だから、人は君たちのメディアに魅力を感じないのだ。当然、そうなれば人はどんどんメディアから離れていく。結果として、世界はどんどん狭まっていくし、君たちに対する規制もどんどんきつくなっていく。それが現在のマスメディアじゃないの?」

そりゃ、内部にいれば「大人の事情」なんていくらでもある。
しかし、時と場合によっては、そうした「こうすれば問題ないだろう」ではなく、「今こうすることの方が大切なのではないか」と各々が自分たちの頭で考えて行動することが必要になるのだ。
特に、今回のような大災害の時はそれが当てはまる。
何度もくり返すが、遺体や残酷な情報を流せばいいということではない。僕自身は流すべきではなかったと思っている。
しかし、重要なのはそんな議論ではなく、「こうすれば問題ないだろう」という方針で一律に報じるべき事実をとらえてしまうのではなく、個々が「これこそが重要だからどう報じるか」と判断していくことなのだ。

だが、ほとんどの人はそうしなかった。みんな平時と同じように、大人ぶって物わかりのいいふりをしているだけだった。
「遺体は映すな」「残酷なところの情報は流すな」といった姿勢だけで報道を行っていた。
僕は遺体云々ではなく、そのことが何より情けなく思う。


★★『遺体』情報★★
以下、最近の情報です。ありがとうございます。

★ラジオ
TBSラジオ「キラ☆キラ」で小島慶子さんが『遺体』をご紹介してくださいました。
http://podcast.tbsradio.jp/kirakira/files/20111108_op.mp3

★日刊サイゾー
『遺体』がニュース配信されました。
http://news.livedoor.com/article/detail/6008508/

★「王様のブランチ」で文芸ランク2位になりました。
1位 謎解きはディナーのあとで
2位 遺体
3位 ジェノサイド
4位 かわいそうだね?
5位 舟を編む

★読売新聞(11月13日)の朝刊で紹介されました。
http://www.yomiuri.co.jp/book/raiten/20111114-OYT8T00640.htm?from=tw

ここ数週間、うれしいニュースが続々と入ってくる。
いや、僕のことではない。僕の友達のことだ。友達たちから「うまくいった!」という報が次々に入ってくるのだ。


■ある医師の場合

村上君という医師がいる。
会ったときはまだ医学生だった。
僕がまだ処女作を出す前、ミャンマー難民の取材をしていた時に出会ったのだ。

彼は夏休みを利用して一人きりでミャンマー難民の病院に寝泊まりし、教科書片手に難民の治療をしていた。
この顛末は、『飢餓浄土』(河出書房新社)という本に詳しく書いたので読んでいただきたいが、ともかく当時僕は本を書くために世界中を歩き回っている得体のしれないガキ。彼は単なる医学生でしかなかった。
で、夜な夜な屋台へ行っては将来の夢について語ったのだが、その時彼がこんなことを言った。

「僕の夢はアフガニスタンで医者をやることなんです。なぜアフガニスタンかって? なんだか、あの岩山に囲まれた荒野の風景が忘れられないんです」

もちろん、こんなことを言う人はゴマンといる。はき捨てるほどいる。しかし、99パーセントはならない。
医者になってそれなりの経験と待遇を得た後に、それをすててアフガニスタンで医者になるやつなんてふつうはいないのである。
村上君には悪いが、僕は心の底では「ま、口だけだろうなー」と思っていた。

ところが、村上君からその後もちょくちょく連絡がきて、留学を考えているとか、いろんな相談を受けた。
僕も気が付けば本を出したりしていた。

で、今回の震災から数日経った日、突然、村上君から連絡があり、こういわれた。

「石井さんですか。僕、いま震災で被害を受けた気仙沼に入っているんです。けど、あと一週間で、ここを離れてタイへ半年間留学するんですよ。それが終わったら、そのままアフガニスタンへ行きます」

で、彼は僕に気仙沼の医者を紹介した後、本当に被災地を離れてタイへ留学してしまった。
そして先日電話があり、突然こういわれたのだ。

「タイの留学が終わりました。アフガニスタンへ明日から行ってきます。石井さんと約束した通り、アフガンへ行くことになったでしょ。帰ってきたら、また飯でも食いに行きましょうー」

いま、村上君は世界一治安の悪い国アフガニスタンの空の下で医師として大活躍中である。
何年越しの夢だろう。最初に会ったのが僕がまだ25歳か26歳ぐらいの時だったから、かれこれ十年越しだろうか。
電話をもらった時、こんなことがあるんだなー、とうれしくなった。


■ある女子大生の場合

今年の冬だったろうか。防衛大にいた女子大生から相談を受けることがあった。

「私は防衛大を卒業します。しかし、本当にこのまま自衛隊に入るのがいいのかわからなくなりました」

で、彼女とたまたま会う機会があった。
たしか3.11の後、僕がたった1日だけ東京に戻ってきた日の夜だったと思う。
対談やら取材やらをこなした後、徳間書店の編集者と某女優さんとそのマネージャーと飲みにいくことになっていたのだが、そのとき彼女がわざわざ僕に会いに東京に出てくるというので誘ったのだ。たしか、防衛大の卒業式の数日後とかそんな感じだったと思う。

話を聞くと、彼女は僕のような仕事をしたいという。
しかし、僕のような仕事は非常にリスクがある。9割以上の人はろくに食べていくこともできない。成功する人なんてほんと一握りだ。
彼女はこのまま防衛大から自衛隊に入れば、信じられないぐらいのエリートコースを進める上、将来もかたい。それを捨てていいのか。

僕は言った。

「自衛隊なんてやめっちまいないよ。わざわざここまで来て僕に意見を聞きに来てるんなら辞めたいんだろ。さっさとやめちゃいな。で、5年以内に僕と一緒に仕事しようぜー。その代り、絶対約束をかなえろよ」

むろん、編集者からは「石井さん、変なこと言わないで下さいよー。彼女の人生を狂わせちゃまずいですよー」と言われた。
しかし、僕はたきつけて「やめろ」の一点張り。
そしたら、半年後、彼女は本当にやめてしまった。

で、就職活動。

最初はまったくうまくいかなかったらしい。
一般企業に勤めると言い出したり、大学院に行くと言い出したりした。しかし、僕はそのたびに「逃げないで目標に向かって進めよ」と言い続けた。
その間も編集者やら作家やらいろんな人を紹介してあげた。そういえば、蔵前仁一さんにも会わせたっけ。

そしたら、数日前、その女性から連絡が入った。

「某社(大手マスコミ)に受かりました! 5年以内に石井さんと仕事をするという約束が励みになっています」

うれしいことではないか。
思わず、夜中にもかかわらず、すぐに電話して「おめでとう!」と叫んでしまった。
たぶん、彼女はがんばるだろう。で、きっと5年以内(すでに1年過ぎたので4年以内だな)に、僕といっしょに仕事をすることになるだろう。
正直、早くその日が来ないかと待ち遠しく思う。


■別の女子大生の場合

これはたしか1年半ぐらい前だろうか。
僕の知り合いの女子高の教師をしている女性から連絡があり、こういわれた。

「うちの元生徒で大学四年の子がいるんですが、どうしても光太君に会いたがっている子がいるのでお願いします」

で、会うことになった。
その日、池袋でトークイベントがあった。
その前に初めて筑摩書房の橋本君(『ルポ餓死現場で生きる』の編集者)と会って打ち合わせをした後、その橋本君を誘ってその女子大生に会って一時間ほど話をした。

彼女は「私、途上国でフェアトレードができるカフェを開くのが夢なんです。けど、これから就職活動をしなきゃいけないという現実があって。どうすればいいでしょう」という。

僕はこういった。

「だったら、就職活動なんてすんなよ。今からアフリカへ行けよ。で、夢だとかいうカフェを開けよ。その代り、アフリカでも一番ひどい国へ行けよ。英語もまったく通じない国。そこで一人で必死になってやったら成功すると思うよ」

いつも通り、たきつけたのである。
そしたら、その後彼女は本当に就職活動を投げ捨てて、アフリカのルワンダへ行ってしまった。
またまた、このことを知った編集者からは非難の嵐である。橋本君はあきれ返り、その後紹介した徳間書店の大久保さんは「人の人生狂わせすぎですよ」を連発する。NHKの福田さんは「はぁ……」と声にならない声を発する。

ところが、またまた先日メールが来た。

「ルワンダでの生活がうまくいっており、夢だったカフェオープンを進行中。来年の三月には完成させる予定」とのこと。

万歳である。
彼女がカフェを開いたら、さっそくルワンダへ遊びに行こうと思う。


そんなこんなで、これ以外にもいろんな友達の「成功話」が舞い込んできた。
みんな考えうる一番厳しい道を選んで、それでちゃんとそこを歩いて行っている。こんな素晴らしいことはない!
こうした報告を受けるたびに、なんつーか、自分の子供が受験に受かったような純粋なうれしさがこみ上げる。



なぜ、こんなことを書いたのか。
先日の神戸のトークイベントが印象的だったからである。

神戸の書店で『遺体』のトークイベントをやったのだが、最後の質疑応答の際に、中学生が手を挙げて震えながら質問をしてきた。高校生からも質問を受けた。
僕は彼らの質問について、できるだけ丁寧に答えてあげた。僕は高校や大学でよく講演をやるので特に珍しい感じはしなかった。

しかし、トークイベントが終わり、打ち上げをしている最中、編集者や協力してくれた方々がその中学生や高校生たちのことを思い出してずっと語っていた。しみじみとこう言うのである。

「あの子たちにとって今日のイベントが本当に一生の思い出になるはず。これから先、本当にうまくいってほしい」と。

みんな、まるでその中学生や高校生の親みたいな顔である。
その時、何気なく僕が自分の携帯からPCのメールを見ると、驚いたことにトークイベントの際に質問をしてきた高校生からメールが来ている。
そのメールを以下に紹介する。


石井さんこんばんわ。突然のメール失礼致しますm(_ _)m
今日の海文堂でのトーク&サイン会に参加させて貰いました高校生です。

僕が始めて読んだ石井さんの著作は、『地を這う祈り』だったのですが、強烈な写真と文で僕の知らない世界が次々に開かれて行きました。同時に描かれている世界と石井さんに対して凄く興味が湧き、今日は参加させて貰いました!

少しの時間だったのでまだまだ石井さんの話を聞きたいので、ブログで過去にあったトークイベントの後の交流会にも機会があれば、参加させて貰いたいです。


大人になって石井さんと仕事が出来るぐらいになるように、日々自分を磨いていきます!
今日は本当にありがとうございました。



僕は常々、中学生、高校生、大学生に夢を与えられるような仕事をしたいという一心でやっている。
だからこそ、正直、これほどうれしいことはない。
あー、神戸に来てよかったなー、と純粋に思った。

きっと彼が就職して仕事が軌道に乗る頃、僕は50歳ぐらいになっているだろう。
けど、彼が突然目の前に現れて「あの時の高校生です。一緒に仕事をしましょう」と言ってもらいたい。だからこそ、ずっとがんばりつづけたいと思う。
そんな日が来たらどんなにうれしいことか。

そんな妄想を抱きながら、今日も僕はせっせと原稿を書き続けるのである。

若人よ、成せば成る!




★★『遺体』関連情報★★

★TBSラジオにて、荻上チキさんが『遺体』を紹介してくださっています。
<11月2日(水)「DigTag コラム・チキチキ塾」>のところで放送を聞くことができます。
http://www.tbsradio.jp/dig/sample.html

★『遺体』の感想がツイッターで上がっています。ライター&編集者の青山ゆみこさんがまとめて下さっています。
http://togetter.com/li/208220

明日、岩手県の釜石市へ行ってくる。

一足早く新作『遺体』の見本ができたので、本に登場する人たち約20人に届けてくるのだ。
(本というのは、発売の一週前に見本が出来上がり、先に関係者やメディアに配れるようになっている)

久々の釜石である。
たぶん、これでしばらく行かなくなるんだなと思うとちょっとさびしい。と、同時にあの激動の日々を思い出すと、いろんな人の涙が思い出されて胸が締め付けられる。
正直、胸が詰まるので、あまり行きたくないというのが本音だ。まぁ、いつも通り元気にふるまうだろうけど、どうにもいろいろ思い出してダメなんだよな。
被災した後も、あそこで暮らし続けている人は本当にすごいと思う。

釜石を取材の舞台にしたのは本当に偶然だった。
最初は小学館の週刊誌の取材で宮城県を中心に取材をしていた。震災が起きた段階から「遺体」をテーマにして本の執筆をやることは決まっていたのだが、その舞台をどこにするかはまったく決めていなかった。

そんな時、たまたま東松島の野蒜という被災地にいたところ、知り合いから電話がかかってきた。
僕の身を案じて電話をしてきてくれたのだが、その時にその人が何かの話のついでに「母親の同級生の旦那さんが釜石で歯科医をやっていて、なにか遺体にかかわる仕事をしているらしい。みんな大変だよねー」ということをボソッと言った。
僕はそれを聞いた瞬間に、「歯科医が遺体にかかわっているのならば、絶対に安置所での検死に違いない!」と思ってすぐさまその歯科医に連絡を取ってもらうように頼んだ。
そしたらその予想があたり、その人経由で安置所で働く方々を紹介してもらえた。それで、小学館の取材が終わってすぐに新潮社の取材に切り替え、編集者とともに釜石市の遺体安置所を取材することにしたのだ。

ノンフィクションの仕事をしていると、それぞれ思い出の地ができる。
取材者とあった場所とか、ずっと追っていた人が生まれ育った場所とか、何かに巻き込まれた場所とか。
僕は海外取材が長かったものだから、世界中にそういう場所があるのだが、正直な話あまりその場所に行きたくない。なぜならば、当時を思い出してつらい気持ちになるからだ。
たとえば、『レンタルチャイルド』で舞台にしたムンバイの町、『感染宣告』で感染者と一緒にいった新橋のマンション、『神の棄てた裸体』で行ったバングラデシュの公園や駅……。実は、なんとなく行きたくない。
何十年か経って死ぬ間際に回ってみられたらいいな、と思うけど、あまり早い時期に足を踏み入れたくない。まだ思い出がなかなましすぎるし、そこが大きく変わっているのを見るのが怖い。

少し前に、戦後上野駅の地下道で暮らしていた元浮浪児に話を聞いた際、「上野駅へは行きたくない。あの当時のことを思い出すし、変わっている上野を見たくないから」と言っていた。
上野が新しくなって、昔を知らない若い人たちが楽しそうに笑っているのを見ると、腹が立って仕方がなくなるらしい。
たぶん、程度の差こそあれ、似たようなことなのだと思う。自分の知っていた場所が変わっているのを感じ、当時の感情がフラッシュバックするのだ。
で、胸が締め付けられる。
その土地に住んでいれば変化をゆっくりと受け入れられるがけど、遠く離れたところにいると突然<変化>だけを見せつけられるのでなかなか受け入れられないのだろう。

僕は子供のころ、こういう戦争体験のある年寄りのことを「ガンコじいさん」と思っていた。
でも、今は僕がそうなりつつあるのかもしれない。

ただ、あの土地で巡り合った様々な人に再会できるのは、本当に楽しみだ。
わずか半年ぐらいしか経っていないんだけど、いろんなことを話したし、聞いたし、飲み食いもした。十年ぐらい住んでいたほど思い出がある。

そういえば、ミシマ社でインタビューを受けたとき「これからも釜石をずっと取材しつづけてほしい」と言われた。
取材をするかどうかは別にして、5年おきぐらいに通い続けたいかな。きっと当時、遺体安置所で必死になって働いていた人たちの子供が大きくなって開業していたり、結婚していたり、消防団員になって町を守っていたりするんだろう。
そういうのを見られるというのは幸せかもしれない。

今日、某新聞社のインタビューを受けた際、「電子書籍になれば活字文化は復興するか」と言われた。

僕は、まったくそんなことを思わない。
たぶん、電子書籍化されたら、ますます離れていくだろう。
同じハードで、ゲームやネットやユーチューブができるのに、わざわざ金を払って活字を読む人が増えるとは思わない。

では、どうやれば活字文化が復興するのか。

小難しい意見はたくさんあるが、それらはさておいて、僕は「クール」という側面からこの問題を考えてみたい。
きっと活字文化が盛り上がるかどうかは、以下の二つの「クール」があるかどうかだ。

「読書をすることがカッコいいと思わせる環境をつくれるか」
「本を書いている人がかっこよく、憧れの的になれるか」

たぶん、この二点なのだ。

たとえば、僕が子供の時、電車の中で漫画を読んだり、ゲームをすることは恥ずかしいことだった。
本を読んでいれば、頭がよく見えたし、なんとなく格好がついたし、先生や両親からほめてもらえた。女性にもちょっとはかっこよく映ったかもしれない。
本が面白いかどうかという以前に、本がかっこうつける一種のアイテムだったのだ。
まずはそこから入り、その中で自分なりの面白い本を探し、自分なりの「感動」をさぐっていった。

これは、アイポッドだって同じだったはずだ。
アイポッドはウォークマンと比べて、特別「使い方が簡単」なわけでもなかったし、「音質がいい」わけでもなかった。
しかしなぜみんな買ったかと言えば、クールだったのである。持っていることがクールであり、それがいつしか全体的に持とうという空気になり、さらにそれが「持つことがいいこと」となったのだ。そして、それをきっかけに、それぞれの「感動」を見つけていった。

しかし、日本のメーカーは、「音質」やら「著作権」やらにこだわってアイポッドをつくれなかった。
既存の価値に執着して、クールであるものをつくらなかったためだ。人はクールであることを求めていたのに、まったく違うところに価値を置いてしまった。

たぶん、本の世界も同じなのである。
クールな読書という環境づくりをせず、「文学的価値」とか「歴史的意義」とかいって読者の求めているものとは違うところにばかり価値を置いて猛進してきた。
それゆえ、いつしか電車の中で本を読んだり、部屋に本を飾ったり、本の話をしたりすることがクールでなくなってしまった。

読書は特別な文化ではない。相撲のように国から保護されているわけでもない。
ゲームやネットや映画やケータイと変わらないものだ。つまり、絶対的な市場の中で、ある種の「感動」を与えて勝ち残るものだ。
しかし、その「感動」というのは必ずしも「文学的価値」「ゲーム的価値」「ネット的価値」にあるのではない。それに触れることがクールであるという環境があり、その中でクールである自分に酔いしれながらそれぞれの「感動」を発見していくことなのである。
その環境がなければ、人々が「感動」を探すことも、感じることも、人に言ったり自慢したりすることもなくなる。

そういう意味では、活字離れというのは、「読書=クール」という環境づくりをまったく無視してきた出版業界の責任も大きいと思う。

とはいえ、出版業界だけの問題ではないのも当たり前だ。
同じぐらい重要なのが「本を書いている人がクール」かどうかだ。
昔の作家は本当にかっこよかった。

ベトナム戦争時に、すべてを捨ててベトナムへ飛んだ開高健。
田中角栄という権力と真正面から戦った立花隆。
未開のインドを放浪して人間を食らう犬を取った藤原新也。

昔は、やっぱり憧れのヒーローがいたのだ。
だからこそ、読む人はその人についていこうとしたし、真似をしようとしたし、同じものを書いてやろうと思った。それがその世界を盛り上げてきたのである。

しかし、今はどうだろう。
イラク戦争が起きた時、若手作家が何をしたか。
東日本大震災が起きた時、若手作家が何をしたか。
ほとんどが東京の自宅にへばりついて、マスメディアと同じことを言うか、その反対意見を得意げに叫んだだけだ。
そんな人たちに憧れる子供がいると思うだろうか? いるわけがない。少なくとも僕が子供だったら、そんな大人になろうとは思わない。
そういう意味では、活字離れなんて当たり前の話なのだ。

もちろん、活字文化が衰退する原因はたくさんある。
しかし、小難しい話より、やはり多くの人は「クール」であることを求めるのだ。文化が力を持つには「クール」だと思わせているかどうかが一番大きなことなのだ。
別に本当に「クール」でなくてもいい。「クール」に見せればいい。そのためにやるべきこととは何なのか。
それは文学賞ばかり気にしたり、作家を先生扱いしてバカみたいな料理や酒をおごったり、発行点数を気にしてくだらない本をだしまくったりすることじゃない。

カッコよくない文化というのは、かならず滅びる。
しかし、カッコいい文化は、かならず盛り上がる。

それが世の鉄則ではないか。

まぁ、まったく格好よくない僕ではあるが、偉そうにそんなことを思ってみたりもするのである。

武器の輸出条件を緩和させようという動きがあるらしい。
今後、武器市場にはロボット技術がかなり導入されるだろうし、その技術は今の所日本が一番。
八方ふさがりの経済状況のなかで、軍需産業の進出が「復興」の足がかりになるかもしれない、と考えているのだろうか。

が、僕は、ほんと、これだけはダメなのである。

日本にいると、武器を輸出することがどういうことか想像できない。
しかし、戦争している国に訪れると、それが痛いほどわかる。

以前、コンゴでゲリラ兵に話を聞いたことがあった。
戦争で捕虜として捕えられたゲリラ兵に塀の中で話を聞いたのだ。
そのゲリラ兵は、僕が日本人だと名乗ると、「日本製は素晴らしい」と言った。
何が素晴らしいのかと尋ねてみると、車が素晴らしいと思う。よく言われることなので、とりあえず「ありがとう」と答えておいた。
すると、その兵士はニッと笑ってこう言った。

「日本車じゃないと、人間をすりつぶせないのだ」と。

耳を疑った。どういうことだろうか?
詳しく尋ねると、こう言うのである。

「人を殺す時に、できるだけ銃を使いたくない。弾がもったいないから。そのため、ナイフで殺すのだが、やっているこっちが気持ち悪い。そこでよくつかまえた人間を車で轢いて殺した。何度も何度も轢いて粉々にするのだ。しかし、韓国製の安い車だと人間が絡まってすぐに動かなくなってしまう。その点、日本製の車は何度轢いても、タイヤに人間の破片が挟まっても、ちゃんと動くから問題ないのだ。それ以来、人間を轢いて殺す時は『トヨタをやろう』というのが合言葉になった」

僕はこれを聞いた時、現地の人たちは日本製の車にどんな印象を抱いているだろうと思った。
海外では、「TOYOTA」などのマークがバカでかく書いてある。一文字がナンバープレートぐらいの大きさで6文字並んでいるのだ。誰がどう見てもTOYOTAだと一目でわかる。
村の人たちが自分たちの仲間や家族がその車に何度も轢かれてすりつぶされるようにして殺されるのを見た時、あるいは「TOYOTAをやろうぜ」という言葉を聞いた時、何を思うだろうか。
そして、日本に対してどんな印象を抱いているだろうか。

これは民需品が軍需用につかわれた例だ。
だから日本が悪いわけでも、TOYOTAが悪いわけでもない。
しかし、僕はこの時ほど「日本人」であることが恥ずかしく思ったことはなかった。とにかく恥ずかしく、国を出るまで一度も日本人だと名乗れなかった。
こんな体験、中国にある南京大虐殺記念館(中国政府の大げさなプロパガンダだとかいう人もいるが、僕はあそこで沸き起こる日本人であることの羞恥心というのは、そういう問題じゃないと思う)を見に行った時以来だった。

ただの自動車でコレである。もし日本製の地雷、銃、ミサイルが輸出されたらどういう光景が繰り広げられるのか。
もちろん、日本が軍需品を輸出しなくたって、他の国はするだろうし、戦争だって虐殺だってテロだってなくなるわけがない。
僕は「ラブ&ピース」を地でいくような理想主義者ではないので、大声で世界平和を訴えるようなことをするつもりはまったくない。
しかし、将来自分が海外へ行った時に日本製の武器で人が殺されている現実を目の当たりにしたいと思うだろうか。
あるいは、自分の子どもが大きくなって夢を抱いて海外へ行った時にそれに直面したいと思うだろうか。
日本製の武器でボロ雑巾のように殺された人の遺族に会ってどんな言い訳ができるというのだろうか。
国家がやっているというのは自分がやっているのと同じことなのだ。

僕は思う。
人間って、あるところでプライドを持たなくてはならないのではないか、と。

仕事をしていれば、「これをやれば儲かるし、注目される」というのは多々ある。
たとえば、震災の取材の時に遺体の顔が映ったむごたらしい写真を本や雑誌に載せれば、好奇心で買う人が少なからずいただろう。
メディアによっては、それでガツンと儲けられたかもしれない。しかし、遺族の気持ちも考えず、自然災害で死んだ人をそういうふうに扱ったら「人間終わり」である。だから、ほとんどそうしたことは行われなかった。
普段エログロ雑誌を出しているようなところだって、そんな馬鹿な真似はしなかった。倒産寸前の出版社だってそんなことはしなかった。これは、ある種の「プライド」だと思う。

これは何の世界だって同じことがいえると思う。
社会人として生きていれば、どこかで「これをやったらうまくいくだろうけど、その代わり人間終わり」という瞬間がある。
セールスにおいて老人をだますことも、スポーツにおける薬物も、口説く際に睡眠薬をつかうことだってそうだ。
普段どれだけバカなことをやっても、ふざけたことをやっても、そういう瞬間だけはプライドを持って一歩ひかなくてはならないことがあるのだ。

僕は国家における武器輸出の問題ってそれだと思うのだ。
たしかに武器を輸出することで利益がでるかもしれない。国としての力も上がるかもしれない。アメリカがほめてくれるかもしれない。つよい外交カードが持てようになるかもしれない。
しかし、これこそ「これをやったらうまくいくだろうけど、その代わり人間(国家)終わり」なのである。

僕は政治に文句を言ったり、誰かを批判したりするのは大嫌いであまりやりたくないのだが、あえて言いたい。

「人としての、あるいは国家としてのプライドを持て」と。

そんなプライドすら持てない人間が、復興だの、教育だの、未来だのと言う資格はない。

先日、東日本大震災に関する本のタイトルが決まったと書いたが、変更になった。
以下で、最終決定。

「遺体 ~ 震災、津波の果てに」
発売日 10月27日
版元 新潮社


もともとは「遺体安置所」というタイトルだったのだが、まぁ、いろいろあって変更した方が良いとなり、「遺体」というタイトルになった。
結果的にはこっちの方がしっくりくる感じもする。

今回の震災でもっとも「見えなかったもの」というのが<遺体>だった。
それを追ったルポも少なかったし、テレビなどでは流さなかったし、雑誌もほとんど載せていない。
この本では、遺体安置所と遺体捜索にスポットを当てて徹底的にこの「遺体」について描く。一瞬のうちに約三万人という未曾有の遺体が出た時、人間はどうその現実と対峙していくのか。それが本書のテーマだ。
そういうこともあり、タイトルをそのままズバリ「遺体」とすることになったのだ。

ともあれ、タイトルというのは結構最後まで悩む。
読んでくれている人は、すべて僕が決めていると思っているようだけど、意外に違うのだ。
著者にもよるだろうけど、ぼくはタイトルを考えずに書き始める。タイトルを先に決めることで、描く範囲をせばめたくないのだ(タイトルをはじめに決めると、どうしてもそれ以上話が膨らまなくなってしまう)。
だから、まったくタイトルを考えずに最後まで書き通す。
で、ひと段落つくのが初校ゲラが終わるころ。つまり発売の二カ月ぐらい前。通常、このときまでにタイトルを決めなければならないのだが、この頃、僕の頭の中は原稿の内容のことでいっぱいなので、タイトルを考えている余裕がない。
自然と、編集者を巻き込んで、あたふたとしはじめる。

僕自身の本でいえば、たとえば一番初めの本「物乞う仏陀」のタイトルは僕が考えた。
ただ、はじめは「物乞う仏陀 異形のシヴァ」という案があり、最終的には最後の部分を削ったのだ。

二作目の「神の棄てた裸体」は、これは僕が考えたわけではない。
たしか、これは編集の足立さんが決めたんじゃなかったっけな。いくつか案があり、その中から「これにしよう」と話し合って決めたんだと思う。

三作目の「絶対貧困」は、半分僕で、半分編集者。
もともとは現在サブタイトル(文庫版)になっている「世界リアル貧困学講義」だった。
ただ、直前になって、これじゃ教科書っぽい、ということになり、編集担当、編集長、僕の三人で市ヶ谷のルノアールでさんざんぱら考えた末に、本の中にあった「絶対貧困」という言葉をそのままタイトルにすることに決めた。
本が出た時に、ちょうど「貧困ブーム」になり、タイトルのせいもあって結構売れた。

四作目の「日本人だけが知らない日本人のうわさ」は光文社の編集長が決めた。
はじめは「世界ニッポン都市伝説」とかそういうタイトルだったと思う。正直、ノリで話したテーマがそのまま通ってしまって、半分ヤケになって書いたのだが、なんだかんだ結構売れたなー。

五作目「レンタルチャイルド」は、いろいろあった。
「月刊プレイボーイ」に連載していたときは「地を這う裸虫」だった。編集担当の中込氏と一緒に何度も明け方まで考えて苦し紛れにこうなった。
しかし、途中から「新潮45」に連載媒体が移った時、どうもこのタイトルが苦手だったので「レンタルチャイルド」に変えた。
で、単行本のときは編集の足立さんから「タイトルを変えよう」と言われて、何十個もタイトルを考えたのだが、あまりいいのがなく、最終的には「レンタルチャイルドという言葉を世に広めるぐらいの勢いで、そのままタイトルにしよう」ということで連載時のタイトルをつかうことで決定。
ただ、僕は今でもそうなのだが、カタカナが嫌いなのだ。文章を書くときも極力カタカナはつかわない。
(日本語を書くことを職業としている人間が容易にカタカナをつかうのは愚かだと思っている。日本語でいかにうまく表現するかが「腕」だろう。時々、校正や校閲でわざわざカタカナで直してくる担当者がいるけど、あれは止めた方がいい)
たとえば、「キスする」とは書かない。「濡れた唇を重ね合わせる」と書く。あるいは、「ハグする」とは書かない。「腕で腰のあたりを強く抱きよせる」と書く。
これはタイトルも同じで、カタカナが非常に嫌だった。しかし、この作品はカタカナにするしかないな、とのことで「レンタルチャイルド」にしたのだ。

「地を這う祈り」は、これは誰だっけな。編集担当の大久保さん&野間君コンビか、その上の編集長が決めたっけ?
最初は大久保さん&野間君コンビがだしてきた「むきだし」というタイトルだったのだが、これは僕が「変だよ。止めた方がいいんじゃねぇ?」と言って却下にした。編集部でも却下されたんじゃないかな(笑)。
で、いくつかの候補の中から「地を這う祈り」になったのだ。
ところが、後日談がある。
去年の秋、大久保さん&野間君コンビが、長野にあるうちの別宅に遊びに来た。深夜、寝ていたら、リビングルームで大久保さん(女)が一人メソメソしている声が聞こえる。なんだ? と思ってリビングルームに出て行ったら、泣きそうな声でこう言う。

「本棚にあった『月刊プレイボーイ』を見たら、連載タイトルが『地を這う裸虫』じゃないですか! 私、これ知らないで『地を這う祈り』というタイトルにしたんです。でも、以前そういう連載タイトルがあったんだとしたら、私がパクったみたいじゃないですか!」

僕としては「え? 知らなかったの?」って感じである。
てっきり知っていて、そこからタイトルを取ったのかと思っていた。ところが、彼女としては、まったく知らずに「地を這う祈り」というタイトルをつけて、あとで『レンタルチャイルド』が「地を這う裸虫」というタイトルだったことを知り、ショックを受けたようだ。
うーむ。編集者の乙女心は難しい。
まぁ、僕としては「気にすんな」と言ってさっさと眠ったが。

他は、どうだったっけな~。
「感染宣告」は、『g2』という雑誌に掲載する際に編集長が決めた。本にする時、最後の最後に担当者が「文芸的なタイトルにしよう」と言いはじめたけど、残り数時間しかなく、時間切れ。
絵本「おかえり、またあえたね」は東京書籍の担当編集者。
「飢餓浄土」「ルポ 餓死現場で生きる」は僕が決めた。年末から来年頭にだす「ニッポン異国紀行」は僕が決め、「アジアにこぼれた涙」は蔵前仁一さんが決めた。
そんな感じ?

ともあれ、本のタイトルというのは、かならずしも著者が決めているものではない、ということだ。
これがいい、と思っても、「会社的にダメ」とか「営業的に無理」ということもある。あるいは編集部の編集長が「タイトル付けの名人」みたいになっていて、基本的にその人がぜんぶ考える、ということもある。
(以前、ある新書編集部の本のほとんどすべてはそこの編集長がつけている、と訊いたことがあるなー。こういうことも、普通にあるのだ)
ちなみに、週刊誌とかだとほとんど編集部でタイトルを考える。週刊誌の場合「インパクト」がなければならないし、タイトルの付けたがが雑誌によって変わっていて特徴があるためだ。(月刊誌は違うけど)たぶん、僕がこれまで週刊誌に書いたルポで自分でタイトルをつけた経験は一度もないと思う。

ただ、今回の「遺体~震災、津波の果てに」というタイトルは、個人的には内容とドンピシャだと思う。
あとは、発売まで二カ月弱、最後の追い込みをやって終わりである。

今回の作品の編集担当は、「神の棄てた裸体」「レンタルチャイルド」を一緒に作った足立さん。
僕が二十代のころから付き合っている数少ない編集者の一人だ。処女作を出した直後に連絡をくれて、いきなり「新潮社から二作目を出さないか」と言ってくれ、あれこれ世話をしてくれた。なんだかんだ7年ぐらい一緒にやっている。
僕が出会った編集者のなかでもっとも優秀なうちの一人だ。僕は出版の世界でいろんな幸運に恵まれているけど、二作目でこの人に出会えたのはものすごく大きいし、勉強になった。僕はこの足立さんに全幅の信頼を寄せて、「自分にとっての傑作をつくる」という心構えでいる。
なんで、今回もこの企画を最初にお願いして通してもらった(毎度ながら、アッという間に通してくれた。足立さんに頼むと、とにかく話が早いし、一瞬でもっともやりやすい環境を整えてくれる)。あとは最後まで全力投球でやるだけだ。

ニュースを見ていたら、サッカー選手のGK川島永嗣が、ベルギーリーグの試合に出場中に「フクシマ、フクシマ」とからかわれて審判に猛抗議。試合後に涙を流した、と書いてあった。

サッカーにしても、野球にしても、最近は海外へ出る人が多くなっている。
それにともなって、こうしたこともどんどん増えているし、さらに増えていくだろう。

が、こうしたことは、何も日本人に限ったことではない。
黒人が欧米へいけば猿のまねをされるし、中国人がいけば「中国人、中国人」と馬鹿にされる。アメリカ人だって別の国にいけば、「世界の独裁者」と考えられて嫌われまくる。

もちろん、こうしたことはすべて偏見が生み出すわけで、偏見がいいわけがない。
しかし、偏見というのは人間なら誰もが持っているわけで、どんな時代でも「外へ出る」ということは、その偏見にさらされることなのだ。
日本にいる限りは、そういう体験をすることがない。しかし、一歩外に出れば、かならずそういう罵声を浴びせられる。

一般的には、こうしたことは「いけない」とされる。
しかし、僕は、これこそが外へ出た時に得られる一番の宝物だと思う。
異国の地で、たった一人こういう偏見を全身で浴びて、悔し涙を流さなければ、わからないことというのは山ほどある。
自分の価値観が崩れて、そこからいろんなものを再構築していこうとする。それは半端なことではない。逃げ場のないところで、死に物狂いで新しい価値観や考え方をつくる。
そうしたことでしか成長できない「人間性」というのは山ほどある。

この体験は、たった一人で海外で死ぬ思いで頑張らなければ、なかなか得られない。
ちょっとした留学やら、ちょっとした海外旅行でも、もちろんそれを感じることはできるが、より「逃げ場のない状況」に追い込んだ方がもっと大きなものをつかめる。
「逃げ場がない」というのがミソなのである。
偏見にさらされて悔し涙を流して、価値観が全部崩壊しても、逃げ込んだり、泣きついたりする相手がいないからこそ、それだけ必死になって新しい価値観や考え方を自分でつくっていく。
その積み重ねが、はじめて「人間」や「価値観」というものをつくっていく。

私事でまことに恐縮だが、僕は自分がそれをやれたことは本当によかったと思っている。
20代の前半。何もかも捨てて「作家になれなきゃ帰らない」と決めて、途上国のスラムやら難民キャンプやらを寝泊まりした。偏見だらけ、罵倒されまくり、つーか、いつ殺されるかわからない、という状況に自分を追い込んだ。
たぶん、今持っている自分の価値観の9割以上はそうやって積み上げてきたものだ。
もし僕が二度目の人生を送ることになったとしても、同じことをすると思う。

留学やら、インターンやら、研修やら、最近はいろんな制度がよくある。
夜のスタバにいけば、若い子たちが一生懸命に英語を勉強している。それはそれで非常によろしい。
しかし、僕からすれば、若いうちに海外へいくなら、決められた制度の枠組みでやるより、より大きな志をもって引き返せない状況をつくり、そこでビシビシ偏見に身をさらしなさいと思う。
理不尽なことをいわれ、罵倒され、中傷され、時には殴られ、時には盗まれ、時にはだまされる。しかし、逃げることができない。だからこそ、そこで別の自分自身を作り上げていかなければならない。
そういうところへ、自分を追い込んでみなさいと思う。

たぶん「大志を抱く」というのは、必然的にそうなることではないか。
大志を抱いて、本気で何かをやろうとすれば、そういう状況に身を置かなければならない。
学問だって、スポーツだってそうだろう。本を書いたり、映画を撮ったりということだって同じだ。
本気でやろうと思えば思うほど、自分を逃げ場のないところへ追い込み、偏見やら非難やらにさらされる。
その時は悔しくてしかたないが、10年経てば、その経験こそが「その人たらしめる経験」になるはずなのだ。

もちろん、外国人が日本人を「フクシマ」と呼ぶのは、いいことではない。
しかし、僕なんかは逆にそう言う馬鹿な外国人がいてくれた方が、海外にいる日本人はずっと伸びるのではないかと思う。
良いか悪いかではなく、そういう偏見が渦巻くのが世界の現実なのだ。私たちが暮らす日本だって、外国人からすれば偏見がうずまく誹謗中傷の世界に違いない。
だからこそ、外国へ単身わたって、そうした四面楚歌を「実際」に体験するということは、とても大きなことなのだ。
アメリカ人に「フクシマ」と言われながら原子力研究をすればいい。ソマリアの子供に「フクシマ」と言われながら国際開発をすればいい。中国人に「フクシマ」と言われながら通訳をやればいい。
その時はいろんなことに悩むだろうけど、10年後から考えれば、悩みから生まれた価値観、世界観というのは何にも代えがたいものになるはずだ。

なので、偏見やら非難やらはどんどん受けろと思う。
その代わり、逃げ道を作って、そこへ駆け込み、自分のくだらない価値観を守るようなことはするなかれ。
携帯電話で日本の友達に電話をして泣きついたり、日本語でブログを書いて同情のコメントを求めたりすることなかれ。
「日本人をフクシマなんて呼ぶ外国人は差別主義者だよねー」なんて同情をもらおうとするな。
差別を全身であびて、それこそが現実なのだと思い知った上で、じゃあ自分がそこから何をするかということを死ぬ思いで自分ひとりで考えてみろと言いたい。
そこにこそ、本当の意味でその人自身にしか持ちえない現実の価値観・世界観が生まれるのだ。

なので、冒頭に書いたニュースを見ると、僕なんかは「メディアが必死になって川島を擁護しなくてもいいんじゃない? むしろ、現実なんてそんなものなんだから、川島いい経験してんなー、がんばれー、ぐらいの目で見れば?」とか思ってしまう。
少なくとも、大志をもって世界に出て行っていこうとする人にとっては中傷されたり、差別されたり、理不尽な現実をつきつけられたりするということは、逆に有意義なことでもあるのだ。

ここ数カ月、東北震災の津波に関する本を書いていた。
今月末でひと段落し、10月26日ごろに発売といった流れである。
(本というのは、原稿が完成した後も、校正や印刷で2カ月ぐらいかかる)

題して

「遺体安置所〜震災と津波の果てに」

3.11から二カ月ぐらいの期間の安置所で起きた出来事を徹底的に描いていく作品だ。

しかし、こりゃ、疲れた。死ぬかと思った。(まだ終わってないが)
ノンフィクションというのは、取材によって悲しみとか現実の重さをめいいっぱい自分の中に取り込んで、それを作品という形に消化して、ズドンと大砲のようにぶっ放す。
当然題材が重たければ重たいほど、著者に負担がかかるのだが、今回は舞台が「遺体安置所」というだけあって、とんでもなくヘビーなものだった。
部屋の中には遺体安置所の写真、資料、死亡者リスト、火葬リスト、検死資料などが山積み。何週間も誰にも会わず、部屋から一歩も出ず、一日二十時間パソコンに向かっているという状態。
つまり、起きている時間ずっと「この死体の描写をどうしよう」「この遺族の嘆きをどう書こう」ということだけを考え続けて、何十回も書き直すのである。
僕はまともな精神の持ち主なので、さすがにこういう作業をつづけていたらぶっ壊れそうになった。

作品によって、作り手にかかるダメージはまったく違う。
たとえば、僕の作品でいえば「絶対貧困」なんかは小手先の技術でサクサクッと書けるものだ。
しかし、「レンタルチャイルド」なんかはまったく違う。なんつーか、全身全霊こめて死ぬ気でやらなければできない。
どっちが売れるかどうかは結果論だけど、作り方が根本から違うものなのだ。
たとえていえば、インターネットのコメント欄で中傷合戦のケンカをするのと、自分の腹を切って内臓をつかみだして、それを投げ合ってケンカをするのとぐらい違う。
今回の「遺体安置所」は後者にあたる作品であり、しかも2カ月で書かなければならず、まぁ、ノックダウンしたわけだ。

まぁ、何の仕事もつらいわけだから、僕の大変さなんてどうでもいいのだけど、今まだ僕の書斎には遺体安置所に関する資料が山のように積まれている。
今でも毎日目に止まるのが、遺体安置所の管理人が残したメモである。毎日遺体が安置所に運ばれてくるたびに、管理人がA4の紙の裏に記していた「遺体の配置図」のメモだ。
そこには次のようなことが記されている。

どこにどういう遺体があるか。
それは何番(遺体にはかならず番号が振られていた)。
名前が分かっているのは誰か。

メモを見ていると、同じ苗字の遺体が並んでいたりする。これは家族が全員死んでしまったケースだ。本来遺体は番号順に並べられていなければならないのだが、よく見るとそれだけは番号順に並んでいない。それが意味するのは、管理人が家族同士で並べてあげたいと思い、番号を無視して家族の遺体をまとめてあげているということだ。
あるいは、女性の名前の横に(妊婦9カ月)とか(生後100日)とか書いてある。管理人としては遺体のふくらみが腐敗によるガスではなく、妊娠によるものであることを忘れまいとして書いたのだろうし、赤ちゃんの死体が「100日生きた人間なのだ」ということを覚えておくために書いたのだろう。
こういう「ナマ」のメモというのは、本当にいろんなことを考えさせられる。一つのメモから何十個もの様々なことを考えさせてくれる。

メディアはこぞって「被災者の感動の作文」とか「思い出の写真」ということばかり言っているけど、遺体安置所のメモみたいなものを集めたっていいのではないか、と思う。
モノによっては、作文なんかより、ずっと色んなことを考えさせてくれるものかもしれない。

ふと思ったけど、こういう資料を集めて展示会なんかやっても有意義かも。
本の発売に合わせて書店なんかで展開してもらおうかな。もし「やってもOK」というところがあれば、ご連絡くださいませ。
あるいは関係者で「こういう資料があるけど提供してもいいよ」というものがあれば、どうかお願いします。

数年前から、20代前半の若い人からこういう相談をよく受けるようになった。

「NGOをつくって、世界のために貢献したいのですが、どうすればいいのでしょうか」

そういえば、昔海外旅行をしている大学生には、ギラギラの野心に溢れた人が多かった。
作家になりたい、写真家になりたい、起業したい、教授になりたい、金と女を手に入れたい……。けど、5年ぐらい前から大きくかわった。NGOをやりたいと言う人が多くなったのだ。

僕は貧困をテーマにした本を何冊も書いているためか、頻繁にそういう相談を受ける。
つまり、世界の子供たちのために(あるいは平和のために)、自分の人生を捧げたいのですが、どうしたらいいですか、と。

こんなとき、僕は次のように答えることにしている。

「僕はNGOに入ったことがないし、真剣に考えたことがないのでわからない。ただ一つ言えるのは、もしあなたが本当にしたいと思っていて、将来それをなしとげるのであれば、おそらく僕なんかにアドバイスを求める前に自分で決めて行動しているはずだと思う。もし悩んだり、することがわからないのであれば、今はしない方がいいかもしれない。それでも、もしやりたいのならば、自分で答えを見つけた方がいい。人から与えられた答えで成功するわけがないから」

なぜこんなにNGOが人気がでたのかわからない。
たぶん、不安なんだと思う。NGO活動が悪いわけではない。もちろん、大志をもって世界を変えていく人は大勢いるはずだ。
しかし、あまりにみんながみんな「NGO」と口をそろえ過ぎる(特に高学歴で就職しない人)。たぶん、大方の人は大志でやっているというより、今の自分が不安だからやっているというのが本当なんじゃないかな。
NGO活動をしている限り、世の中では「立派」だと認めてもらえる。たとえ、一流企業に就職できなくても、あるいは血眼になってお金をかせがなくても、とりあえずはそこにいる限り「立派」だと言ってもらえて、安心感を得られる。
日本のタレントやロックンローラーが売れなくなった瞬間に慈善活動を始めるのは、その表れだと思う。
全部が全部そうだというつもりは毛頭ないが、一部の人にとっては「NGOは簡単に自分が認められる安心の地」なのではないか。

ただ、僕はあえていうけど、人に「NGOをやりたいけど、どうすればいいか」と尋ねるぐらいなら、まず社会に出て必死になって稼でみろ、と思う。
社会で泥だらけになって働く人間がいるからこそ、NGO活動なんて「美しい」ことができるわけであって、それを初めからパスして美しいことだけをやるのは、正直ズルイと思う。
まずは自分の力で泥だらけになってお金を稼ぎ、人から寄付金を募るのではなく、自分で稼いだお金で何かをやればいいと思う。
そうしなければ、本当の意味で国際貢献の重要さがわかるわけがないし、貢献できるわけがないと思う。

社会で100円稼ぐのがどれだけ大変なことか。
本当の世界の「現実」と向き合うことがどれだけ大変なことか。
その「現実」に対して自分が死ぬ思いで稼いだ100円を投資して何かを変えることがどれだけ大変なことか。

それを苦しみながら体験しなければ、「人のために」なんていう資格はない。
少なくとも、僕は20代の若い人から「NGOをやりたいが、どうすればいいか」と問われれば、かならずそう答えることにしている。
そんなことをする前に、あなたがまったく必要とされない世界に身を置いて、そこから這い上がって自分のポジションを勝ち取って、そこで1億円なり、10億円なり稼ぎ、そのお金をすべて投げうって行動をしてみなさい、と。

そうやってはじめて、何かを変えていくことができるのだと思う。

少なくとも、そういう世界で成功している人で、初めから他人に援助を求めようとしたり、現場にたった一人裸同然で立ちすくんだ経験がない人を、僕は聞いたことがない。


※もちろん、「休日だけちょっとボランティアをしたみたい」という人は別です。それはそれで、短い経験を通していろんなものを学んでいけばいい。これは、あくまでも「NGOで生きていきたい、世界を変えたい」という人に対して。

3.11から丸1ヶ月が経った。
直後から取材をはじめ、1カ月のうち約3週間被災地を歩き回っていたことになる。立ち話的な取材も含めれば、何百人という数の人の話を聞いたことになる。

この1カ月で被災地の様子は大きく変わった。
津波の直後はきれいだった遺体は、現在黒い腐敗した肉片となって瓦礫の下から見つかるようになった。
避難所や病院ではみんな新聞紙の上に便をして丸めて捨てていたのに、いまは仮設のトイレが常設されるようになった。
当初はマスコミと被災者しかいなかったホテルは、支援団体でいっぱいになり、ホテルというホテルが満室である。
地元のラジオはひたすら「尋ね人」や「メッセージ」だけを連呼していたのに、今は音楽やバラエティーもやるようになった。
被災地の瓦礫はかなり撤去され(それでも初めて見た人はびっくりするが)、かなりきれいになり、水も引いた。

いい意味でも、悪い意味でも、いろんなものが変わっていると思う。

ただ、それに伴って色んな問題が出てくると思う。
今日話をきいた人もそうだ。彼は高い建物の屋上に避難して、津波に巻き込まれずに済んだ。
(津波はその建物の3Fにまで達し、付近の一軒家をすべて飲み込んだ)
彼は避難していた屋上から一眼レフで津波が町を襲う状況を撮影していた。
すると、知り合いの男性が流れてきた屋根の上に立っているのが見えた。
彼はその男性の写真を撮った。屋根の上の男性はスーツを着たままじっとカメラのほうを向いていた。恐怖のどん底にありながらなんとか一命を取り留めたかもしれない、という表情だった。
だが、予期せぬことが起きた。数秒後、この男性が建っていた屋根が引き始めた波によって流されだしたのだ。そして、瞬く間に沖へと消えていってしまった。
数週間経って、その男性の死体が見つかったのだそうだ。

この写真を撮った人は、この男性の「最後の写真」を遺族に見せることができるだろうか?

遺族としては見たいという気持ちがあるかもしれない。
しかし、私もその写真をみたが、非常につらいものがあった。写真を撮られた屋根の上の男性の表情に、「助かるかもしれない」という感情と、「このまま暗い沖に流されて、死んでしまうかもしれない」という感情が入り混じっているのである。
おそらく彼は生きたまま沖に流され、やがて屋根が沈んだと同時に一寸先も見えない真っ暗闇の冷たい海水に放り込まれ、凍死したか、溺死したはずだ。決して楽な死ではなかったはずである。遺体だって魚に食われて原型を留めていなかっただろう。
それらすべての現実を思い描かせる写真を遺族に「最後の写真」として渡すことができるのか。

時がたつというのは、かならずしもいいことばかりではない。
それはそれなりに、複雑で悲しい物語がたくさん生まれるのである。
こうした物語はなかなか表にでてこないし、人は見ようとしないだろう。
だが、その物語は決して無視してはならないものであるような気がしてならない。

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●取材から二週間経って

津波の取材をはじめてから、ツイッター(http://twitter.com/#!/kotaism)で見てきた光景をずっと書いてきた。

現地にいて思うのは、メディアが描く世界と、被災地にいる人々との<落差>だ。

たとえば、メディアはがれきの山の中におちているアルバムを保管する人のことを映しても、父親が死んだ息子のポルノ雑誌を見つけ出して涙する光景は報じられない。

見渡す限り廃墟となった町を映し出すことはあっても、そこに漂うヘドロや腐臭や下水の臭いなどについて説明することはない。

人を救う消防士や自衛隊が脚光を浴びても、物陰で嘔吐してながら遺体捜査をつづける彼らの姿が報じられることはない。

東京にもどって講演をしたり、インタビューを受けてそういう人たちのことを話すと、たいていその場にいる人たちから「聞いていて気持ち悪くなった」といわれる。
しかし、大切なことを忘れてはいないか。
気持ちのいい津波なんて存在しないのである。膨大な数の死者がでて、無差別に町が破壊され、人々が嘆いている。
そこに「気持ちのいいこと」なんかあるわけがない。

だが、そのなかで、人々は懸命に生きようとしている。
たとえば、嘔吐しながら遺体捜査をしてくれる人たちがいなければどうなるのだろう。
検死をしてくれる医者や歯科医がいなければどうなるのか。
彼らは決して光の当たらないところで苦しみながらも何とか津波の後片付けをしようとしている。そこから立ち上がる土台をつくろうとしているのだ。
僕は、そういう人たちが「気持ち悪い」といわれて目をそらされる世の中は異常だと思っている。
こういう人たちにこそ、光があたり、、どんな状況や思いのなかで津波の「負」を背負っているのかということを知られるべきだと思う。

これはツイッターに書いた光景についてもすべてそう思う。

真夜中の公園で下着を洗う女の子、がれきのなかで下痢に苦しむ人、転がっている使い古された生理用品。
こういう苦しみにこそ、津波の本当の姿があるように思うのだ。

むろん、全員が全員それを直視する必要はないと思う。
人間が生きるために「気持ちの悪いこと」から目をそらし、「気持ちのいいこと」に目を向けるのは当然のことだ。

だが、それだけではいけない。

やはり、本当の部分を知らせる<選択肢>がなければならない。
僕はその<選択肢>をつくるために、被災地をまわり、様々なレポートを書いているのである。



●予定

今回の取材の内容は、まず4月4日(月)発売の、『週刊ポスト』に掲載します。
その後、順次別の雑誌や緊急刊行本でもやっていく予定です。
また、一年以内に一冊本をまとめたいなとも思っています。



●取材予定
今週いったん東京に帰り、来週から再び被災地に入ります。
今回までは宮城を拠点していましたが、次回は岩手を拠点にして動いていく予定です。
大変なところ恐縮ではございますが、もし被災者、その家族、ならびに医師、歯科医、消防団などこの被災にかかわっている方で、お話をしてもいい、という方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただければ幸いです。
kota_ishii@yahoo.co.jp
お住まいの場所は、宮城でも岩手でも構いません。可能な限りうかがってお話をお聞きしたいと存じます。
掲載誌や取材趣旨等、詳細にご説明させていただいた上で、ご納得のいく形でお話をお聞かせいただければと思っています。
無論プライバシー等はお守りいたします。
また、それ以外で私に何かできることがありましたら、お気軽にお申し付け下さい。
何卒よろしくお願いいたします。

テレビに映し出されている被災地は、復興の手が届いている。
ブルドーザーがやってきて瓦礫をどかし、炊き出しが行われている。

だが、そうじゃないところも多い。
海水が引かずに水浸しになり、瓦礫の山が残り、水も食料も電気もない。

そんな町のひとつに、ある半壊した家があった。
そこでは複数の家族が電気のないところで震えながら暮らしていた。
避難所に行ったら満員だったという。(もしかしたらワケがあって避難所にいけなかったのかもしれない。そういう家庭も意外に多い)
それで半壊した家にもどってきて、みんなで一箇所に集まって暮らしているそうだ。

だが、その家には電気が通っていない。ライトもない。
夜になると、外灯すらないため、一メートル先も見えない闇につつまれる。田舎の闇夜は深すぎるほど深い。気温は氷点下。
夜毎に余震が半壊した家をギシギシと揺らす。みんなそのたびに飛び起き、闇の中で抱き合う。

一人が言っていた。

「私たちには明かりがありません。もし夜中に大地震があり、津波がきたら、外は真っ暗闇なので逃げ出すことすらできないのです。余震が本当に恐ろしい。せめて逃げるために必要なライトと電池がほしいです」

メディアにはなかなか報じられないが、真っ暗な夜の底で、こうして余震に打ち震える家族はまだいると思う。

一々こうしたことを被災地以外の場所での買占め問題と絡めるのもうざったいので書かないが、そういう家族が今現時点でもいるということは忘れないでほしい。
巷では「もう十日目」だが、現地では「まだ十日目」という人も少なくないのである。

なぜ震災の被災地に行ったのか。
いろんな理由があるが、あえて一つだけを述べれば「今、やらないで、いつやるんだ」という思いがあったためである。

僕は長らく海外の貧困や戦争などをテーマにして文章を書いてきた。
子供のときからそれをやりたいと思っていた。ただ、子供のときにそれをやっている人たちにある「違和感」を覚えていた。
それは、普段大口を叩いているのにいざという時にやらない人がいるということだ。

人は大きく二つに分かれるかもしれない。
一つが、普段は世界平和や博愛について偉そうなことを語っているのに、いざというときに何もしない人。
もう一つが、普段は大それたことを言わないのに、いざというときに黙って立ち上がる人だ。
僕は小学生のころから、後者こそが一番カッコイイと思っていたし、自分もそうなりたいと思っていた。

しかし、実際、自分が成人になり、文章を書いて生きるようになると、それがどれだけ大変なことかわかった。
はっきりいって、何かをやらない方が100000倍楽なのである。

が、それは「大人の事情」である。
もし小学生の自分が今の自分を見ていたら、なんと言うだろうか。
きっと「ほんのわずかでも読者がついていてくれるのなら、現場に行ってできることをやってほしい」と言うだろう。
それならば、その通りに動かなくてはならない。
そう思ったのである。

とはいえ、誰の支援も受けずに現地に入るのは非常に難しい。
そこで、僕はつながりのある出版社に連絡し、「現地に行かせてくれないか」と言って回った。

そんなとき、小学館の柏原君が即座に、話を通してくれた。
彼とは「週刊ポスト」という雑誌で何度か一緒に取材をした仲だ。
まだ二十代の半ばなのに、やたらと落ち着いていて、飲み屋の人に「落ち着いていますね」といわれると、口癖のように「ああ、僕疲れてるんすよ」と答えるマイペースな人だ。
しかし、彼は内面ではかなり熱いものをもっていて、やりたいことをズバッと押し通している非常に優秀な編集者である。
その柏原君が、僕が「現地取材をしたい」と言った数時間後に電話をかけてきて、「編集長も石井さんにやらせたがっていますので、すぐに行ってくれませんか」と言ってくれたのである。
どこよりも早い決定だった。

実際、現地の状況は想像以上に大変だった。
取材云々の前に、インフラがストップしてしまっているので、まともにやっても立ち入れないのである。細かい情報もほとんどない。
が、柏原君はいろんな手を使ってそれを可能にしてくれた。多額の取材費をくれたうえ、現地に入っている人たちを紹介してくれ、ガソリン不足で困っていればガソリン缶を手に入れ、東京以東はないといわれていたプリウスまで手に入れてくれた。メールで随時データや情報をどんどん送ってくれた。
おかげで、好きなように取材ができている。

ここは全力をつくして取材を成功させなければならない。
というわけで、ほとんどすべての仕事をストップしてもらい、取材をすることにした。
予定では、再来週あたり写真とまじえたルポを書かせてもらうことになっている。詳細が決定したらお知らせしますので、しばしお待ちください。

しかし、つくづく思うが、僕は本当に編集者に恵まれている。
講談社の石井克尚氏は、僕がライバル社の小学館でやることになったと知るとすぐに電話をかけてきてくれえ「うちの会社の●●が現地の貴社を統括しているから連絡をとって情報を得るように」とアドバイスをくれたし(彼は一昨日から「g2」の取材で現地入りしている。4月半ば発売の号に掲載予定らしいので是非ご覧ください。ちなみに、僕はこの号で子供兵の原稿を書いています)、新潮社の足立さんは他社での仕事云々関係なく、被災地にいる知り合いを紹介してくれた。
NHK出版の福田さんは連載を急遽震災被害のルポに切り替えてもいいと提案してくれた。月刊WiLLの梶原さんもすぐに紙面を割いてくれた。集英社の中込氏も、新潮社の若杉さんも、みんないろんなふうに提案してくれた。河出書房の武田君は新刊「飢餓浄土」をだしてすぐにいなくなる不義理を許してもらったし、会社のツイッターで僕のことをツイートしまくってくれている。徳間書店の大久保さんにも雑用と無理を押し付けたが快諾してくれた。
そう考えると、本当に僕は周りにいる人たちに恵まれているなー、と思う。ありえないほど恵まれている。
だからこそ、なんとか僕なりの目線でこの震災をうまくつたえたいと願う。

僕は口が悪いので、メディア批判もするし、好き放題「もっと、こうすべきだ」とか「だから駄目なんだ」とかガンガン言ってしまうけど、こういう出版社の人たちに支えられて志を通すことを許してもらっているのである。
それを非常にありがたいと感じると共に、だからこそ全力をつくして恩を返したいと思うのである。

これからも、また現地報告をしていきます。

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戦場のにおいは、焦げ臭さと火薬臭が混ぜ合わさったものだ。
爆弾は家々を焼き尽くすし、銃は火薬をつかうので銃撃戦になるとそのにおいがたちこめる。

一方、津波のにおいは異なる。
津波は、潮と油のにおいである。
大量の海水や魚介類の死骸、そして車や民家から流れた油がそれらに混ざって重々しいにおいを漂わせる。

震災から1週間がたち、警察や消防士は、目に見えるところにある遺体をほぼすべて片付けた。
いまは土に埋まった遺体や、満ち潮とともに打ち上げられる遺体を集める作業に切り替わっている。
現在数千人の死亡が確認されているが、瓦礫の処理が進むにつれてどんどん新たな遺体が上がってくるだろう。
僕はこれらの遺体をすでに何十体と見たが(百以上いっているかもしれない)、どれも「津波のにおい」に満ちていた。腐った肉体のにおいではなく、なぜか津波のにおいがするのだ。
地中や海にずっと浸っていたことで、腐敗した皮膚にそれが染み付いてしまったのかもしれない。
今日目にした中学生ぐらいの女の子の遺体もそうだった。なぜか褐色になった四肢をまっすぐにピンと伸ばし、ドロドロとした津波のにおいを漂わせていた。

僕は何回か戦場に行って以来、「花火の音」と「火薬のにおい」がダメになった。
爆弾の音や、火薬のにおいのなかで血だらけになって死んでいく人を思い浮かべてしまうのだ。
一種のトラウマのようなものなのだろう。
たぶん、これから僕は津波のにおいも同様に苦手になるかもしれない。いやおうにも、ここ数日で見た何十という遺体を思い出してしまうからだ。

しかし、僕なんかどうでもいい。
問題は、津波にあいながらも生き延びた人たちだ。
彼らが津波のにおいをかいで思い出すのは、目の前で津波に飲まれてなくなっていった肉親や友人である。
そのトラウマはきっと一生涯つづく。いま、10歳の子はあと70年以上それに苦しむことになる。

世間では「心のケア」とか簡単にいわれるけど、全員が全員そんなもので楽になれるわけじゃない。
どんなケアを受けたって、潮や油のにおいをかいだ瞬間にそれを思い出すときがくるだろう。
日常の気持ちを楽にすることはできても、記憶の奥深くに焼きついたにおいというのは、なかなか消えないものなのだ。

僕は、この鼻腔の粘膜に焦げ付いたように離れない津波のにおいを、一、二年後にかならず本にしてまとめる。
においをつたえることが、被災地にきたことのない人に津波を知らせることになると思うからだ。
そのとき、読者は、「気分が悪くなる本を読んだ」と言うかもしれない。が、気分のいい津波なんて存在するわけがない。本当の津波というのは吐き気がするほど嫌なにおいに満ちたものなのだ。
僕はそのにおいを記憶にとどめるために、瓦礫の山の中を歩き続けているのである。

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震災が起きてから、一週間が経った。
取材でずっと現場にいるが、その間に状況がどんどん変わっていくのが一日おき、いや数時間おきに実感できる。

震災の直後は、みんな頭に血が上って「震災以外のことを口にするな!」という感じだった。
しかし、今じゃネットでは半分以上が震災以外の話になっている。

ある被災者は言っていた。
「最初はツイッターを見たらみんなが心配してくれていたのでうれしかったけど、最近のツイートはどんどん震災以外のことに話題がうつっている。なんだか自分たちが忘れられるような気がして見たくなくなった」

連休明けにはさらに震災の話題は少なくなり、一週間後にはさらに減り、一ヵ月後には別の話題になっているかもしれない。

これは、被災地でも同じである。

見渡す限り倒壊した建物群は、自衛隊や地元の建築会社によってどんどん片付けられている。
まず遺体の山が自衛隊や消防隊によってもっていかれ、今は瓦礫の山がブルドーザーではこ撤去されているのだ。
あと一週間もすれば、被災地は今に比べればずいぶんきれいになるに違いない。

これが「復興」へのプロセスだ。
そして、「復興」は、大勢が望むことである。
だが、全員が全員「復興」を望んでいるのだろうか。

今日、ある被災地に行ったら、倒壊した町に被災者が袋を持って集まっていた。
明日、この村にブルドーザーが入ってすべてを片付けてしまうのだという。
被災者たちは、その前までになんとか思い出の品を見つけ出してひとつでも持っていこうと、避難所から何時間もかけて歩いてやってきて、見渡す限りの瓦礫の山の中から自分のものを必死に探しているのである。
夕方になると、年老いた被災者が、周囲にいた作業員に「死んだ息子や孫との思い出の品がまだ見つからない。明日の撤去作業の際は、うちだけはそのままにしてくれないか。明日も探したいから」と訴えていた。その目は涙ぐんでいた。

震災と津波は、家や人間を飲み込んで、瓦礫の山だけを築き上げた。
だが、その直後にやってきた「復興の津波」は、その瓦礫すら被災者から奪っていこうとしている。

あまりに、すべてがはやい。一瞬である。
津波も無常なら、復興もまた無常なのかもしれない。
少なくとも、あの年老いた被災者はそう感じているだろう。



追記
前回のブログで書いたように、『飢餓浄土』(河出書房新社)が発売になりました。
実は、この発売日が、ちょうど今回の震災のあった日でした。
世界の戦場や密林で生きる人々の「祈り」をテーマにして書いた本が出た日に、こんな大惨事が日本で起こるとは想像だにしていませんでした。
日本の被災者たちの祈りも、海外の人たちの祈りと同じなのか、それともまた別の祈りがあるのか。
それを確かめるべく、これからも被災地に残って取材をつづけようと思います。
飢餓浄土
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本づくりは、ノリである。
ノリという言葉がわるければ、衝動である。

作品をつくる人とつくらない人の大きな違いは、その「ノリ」や「衝動」があるかどうか。
これは普通の仕事だっていえるだろう。出版社の人を見ていて思うのは、優秀な人はみんな「ノリ」や「衝動」がものすごく大きい。それで最後までガツンとやり遂げてしまうのだ。

『おかえり、またあえたね』も、いろんな意味で「ノリ」の作品だった。
絵を描いてくれたのは、櫻井敦子さんというイラストレイターの方。彼女と知り合ったのは、『絶対貧困』という本を出したとき。この本のイラストを、彼女が担当してくれたのだ。

二度目に会ったのは、『絶対貧困』の出版の打ち上げのときだった。
二次会でバーに行ったとき、僕が櫻井さんに「次に何したいの?」と尋ねたら、櫻井さんが「絵本」と言ったのだ。
僕もいつか子供むけの本をつくりたかった(これについてはすでにブログで散々書いた)。だが、絵本は絵を描いてくれる人がいないと完成しない。波長があって、優秀なイラストレイターを探すのは難しい。
で、あらためて彼女が描いた絵を見せてもらうと、これまが素晴らしい。見れば見るほど素晴らしい。で、僕はその場で「そんじゃ、一緒に絵本をつくちゃおうぜ」といったのだ。

とはいえ、僕は漫画の原作なら死ぬほどやったことがあるが、絵本は一度もない。
しかも、絵本というのはそんなに売れる物ではないので、出版までの壁がかなり高い。さらに困ったことに、絵本の出版を手がけている出版社自体が少ない。
たとえば、光文社や新潮社や文藝春秋などでも毎月定期的に絵本を出してはいない。たまーに超有名な人の作品をだすぐらいではないだろうか。講談社や集英社は出しているが、そっちは絵本の専門部署があり、まったく知り合いがいない。

あら、困った。

が、そこであきらめたら終わりである。なんでも、なせばなる。
そんなとき、ある出版社の編集者から連絡があった。「私の担当している荒井さんという作家兼編集者が石井さんに会って話してみたいと言っているので、いかがですか」ということだった。
そこで下北沢の喫茶店で会ってみることにした。
そしたら、その方が荒井さんといって東京書籍で仕事をしていたのである(彼は別のペンネームで作家業をしている)。

で、荒井さんにその場でこう言った。

「なんかやりましょう、とりあえず、絵本なんぞどうでしょう? 東京書籍といっちゃ、教科書NO1の会社じゃないっすか。子供に読ませる本をつくらなきゃ!」

荒井さんはいい方なので(たぶん、荒井さんは「は? 絵本? マジで?」と思っただろうが)、「じゃあ、企画を提出してみます」とのこと。
そしたら後日連絡があり、「絵本OKになりましたので、改めて打ち合わせをしましょう」となったのである。

とはいえ、ここからが地獄だった。

僕が大雑把なストーリーを考え、櫻井さんがラフを書いてくるのだが、僕はその場その場で意見がコロコロ変わり、「やっぱり、こうしよう」「絵本はこうでなきゃ」「角度がわるいねー」と好き勝手なことばかり言う。
櫻井さんは心の底で「100回ぐらい死ね、このハゲ」と思っていたと思うが、ぐっとこらえて、毎回丁寧に直してくれた。
この作業をおそらくは15回ぐらい通してようやく完成というところまでこぎつけた。

そしたら、また僕の気が変わった。
最初は章と章の間に長い解説をはさむことになっていたのだが、絵が素晴らしいのでそれを殺したくないと思い、必要最低限の「データ」だけしか載せないことにしないかと言いだしたのだ。当然、データなんてものは、まるで用意していない。
(迷惑がかかるとわかっているならコロコロ意見を変えるな、と言われるかもしれないが、できるだけ良いものをつくるには仕方がないのだ)
しかも、僕は『地を這う祈り』と『感染宣告』を立てつづけに出す準備の最中でまったくもって時間がない。今度は、担当の荒井さんがあくせくしはじめた。「とりあえず、僕も集めるから一緒にデータを何とかしましょう」ということに。

しかも、もっと最悪なことに、僕が突然日本からいなくなった。12月から年明けまでコロンビアへ行くことになったのだ。
(最初の予定では、11月に校了にして12月に出版のスケジュールだったので、僕が12月にいなくなることは無問題だった。しかし、ある事情からスケジュールが変わって12月校了、2月2日出版になったのである)
あげく、河出の武田君は「出発する前に『飢餓浄土』の原稿をそろえろ」と言ってくるし、筑摩の橋本君は「帰国したら『餓死現場で生きる』の原稿を出せ」という。僕をコロンビアへ派遣した講談社の石井克尚氏は「傑作を書くための取材をしてこい」という。

ここまできたら、焦るより、笑うしかない。

もう何とでもなれ、という感じですさまじい勢いでこなし、コロンビアで原稿を書き、データを探し、日本へ送り、帰国した翌日に新宿で絵本の最終的な校了作業。
そして、なんとか出版に相成ったのである。

今からふりかえれば、非常に面白い仕事だった。
なんでも終わってしまえばいい思い出で、「大変だったけど、また絵本をつくろう」という気になるものだ。
(その証拠に、『地を這う祈り』を死ぬ思いでつくったとき、徳間書店の編集者みっちゃんは半ベソ書いて死にそうな顔をしていたが、完成したらコロッと変わって、4月から一緒に新作の連載をはじめることになった。ま、そんなものである)

考えてみれば、160ページの長編絵本なんて見たことがない。
さらに、フルカラーで1300円という格安さである。
イラストレイターの櫻井さんいわく「こんなモン、ありえない」作品である。当然だろう。彼女にとってみれば、絵本五冊分ぐらいの分量の絵を1冊で書いてしまったんだから。
(僕がコロンビアへ行っている間、彼女はあまりにも仕事のプレッシャーがつよすぎて「廃人化」していたらしい)

しかし、終わってみればハッピーである。
いやー、楽しかった。再来週には偉そうに「絵本で子供に世界のリアルをつたえるにはどうすべきか」などという講演までやることになっている。
(こちらは、会員制の講演なので、たぶん一般の方は参加できない。一般の方でご興味があれば、少々テーマはずれますが、こちらへご参加ください。少数精鋭のトークイベントです⇒http://kokucheese.com/event/index/7682/

もちろん、絵本はこれで終わらせるつもりはない。
次は『100万回生きたねこ』ぐらいの名作をつくる気満々である。



おかえり、またあえたね ストリートチルドレン・トトのものがたり
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今年は、絵本を筆頭に、漫画やコミックエッセーもやる。

読者のなかには、「そんないくつもやらないで、図太いノンフィクションだけ書けよ」という人もいるだろう。
それはそれで、一つの意見だと思う。

ただ、僕がこうやるのにはワケがある。
いくつかワケはあるが、その一つとして、今のノンフィクションのありか方に疑問を抱いているのだ。

非常にヘンな話だが、ノンフィクションというのは「知的階級のためのオモチャ」となっている。
頭が良くて、お金のある人たちが、理論をこねくりまわしたり、より頭がよくなるためにつくられていて、それをそのなかでほめたり、けなしたりしているだけなのだ。
(極端な言い方であるのは重々承知しているが、そういう見方だってできるだろう)

そもそも、出版の市場は、とても狭い。
本の世界なんて、固定ファンが数万人いればベストセラー作家になってしまう。
だから、全員にウケる必要は全くなく、知的階級のオモチャとして一万人に支えられていれば十分に成り立ってしまう。
だから、知的階級のためのオモチャであってぜんぜん問題ないわけだ。

僕はそれを否定するつもりはない。
それはそれで、有意義なものだと思う。そういう形だってあってもいい。

しかし、それがゆえに、ノンフィクションの単行本をつくると、書店の本棚ではどうしてもノンフィクション・コーナーに置かれてしまう。
本のカバーもそれらしい感じになり、価格もそんな値段になる。
そして、本棚のまわりには、知的階級の大人たちが集まり、自然と買う人もほとんどそうなってしまう。
そこに、中学生や高校生がフラッとやってきて手にとって読むということはほとんどないだろう。
自ら読者を切り分けして、「知的階級のためのオモチャ」の枠にとどまってしまうのだ。

僕はそれが嫌だと言っているわけではない。
そういう読者に読んでいただくことは嬉しいし、ありがたいことだ。
ただし、それとは別の思いもある。

ノンフィクションをつくる醍醐味というのは、読者に新しい現実を提示し、価値観をガラリと変えられることである。
その人のもっている人生観、世界観、価値観を変化させ、何かしらの行動につなげることができることだ。
「おお、こんな現実があるのか。よし、僕もこれからこういう夢を抱いて、こういうふうに動いていこう」
自分が指示した現実が、そんなふうに行動につながることが嬉しいのだ。

その行動は何だっていい。
学校の先生になって世界の現実を子供につたえようという夢を抱いてくれるのでもいい、自分も海外をまわってみようと考えてくれるのでもいい、とにかく価値観の変化によって何かしらの行動に出てくれることが一番嬉しいのだ。

しかし、「知的階級のためのおもちゃ」にとどまる限り、なかなかそうなることは少ない。
たとえば、60歳過ぎの財力のある知的階級の人たちがそれを読んでも、価値観を一変させることはあまりない。「うむ、この若造はいい仕事をやっておるな。よしよし」といった程度である。
あるいは、40歳、50歳の人たちが読んでも、価値観は変わるかもしれないが、なかなかそこから「今からこういう夢いを抱いて、こうしよう」という発想にはならない。
むろん、価値観の変化から何かしらの行動に移してくれる年配の読者だっているだろう。だが、若い学生の読者(中高生など)と比べると、どうしても年配の読者の方が「鈍い」ことは認めざるを得ない。地位や家庭をもっているのだから、一々感動して行動に移していたらキリがないのだから、当然といえば当然なのだろうけど。

こうした現実を受けて、「知的階級のためのオモチャ」をつくりつづける人もいるだろう。
だが、僕はそうではなく、「知的階級のためのオモチャ」をつくる一方で、もっと若い人たちにも読めるものをつくりたいと考えるのである。
小学生のためにストリートチルドレンを主人公とした絵本をつくろう、中高生のためにこれまでの作品を漫画化しよう、ノンフィクションコーナーにいかない人のためにコミックエッセーにしよう……。
そうした僕の発想は、ここからきているのである。

つまり、単純に何でもやってみたいと考えているわけではない。
ノンフィクションの棚に置いてもらい、それなりの読者に読んでいただくことはありがたいし、嬉しい。
しかし、そこにとどまっている間はその世界でしか回っていかない。
それより、僕としてはそういう世界で作品をつくりつづける一方で、違う形によって読者を広げていきたいと考えるのだ。
絵本をつくることで小学生に広げ、漫画化することで中学生に広げる。
そうやっていくことで、より若い人に価値観を変えてもらい、何かしらの夢を与えて、行動に移してもらいたいと思うのだ。
それが、僕が今年いろんな形でものをつくっていきたいと考えている理由である。

最近、街を歩いている小学生や中学生を見るたびに思う。
「あと、わずか15年~20年ぐらいしたら、彼らは今の僕と同じ年齢になって、前線でバリバリ活躍するんだろうなー」と。
そんな年代の人たちに一生忘れられない「読書体験」とそこから生み出された「夢」を与えるのが、作り手である僕にとっての最大の目標なのである。




地を這う祈り
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初めての写真エッセー集『地を這う祈り』が刊行されました。
これが発売されたのは、みなさまが支えて下さったからだと思っています。先ずは、厚くお礼を申し上げます。

『地を這う祈り』
(石井光太、徳間書店)
定価 1600円+税
形式 写真エッセー集(カラー&モノクロ)

この『地を這う祈り』という本は、カラー写真をふんだんにつかった、写真エッセー集です。
写真もそうですが、文章の量も多く、海外で体験した話から、旅や取材の裏側についての話まで盛りだくさんです。
『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『レンタルチャイルド』が<表>の作品だとしたら、『絶対貧困』につながる<裏>の作品群の一つだとお考えいただければと思います。
ただ、『絶対貧困』が講義形式だったのに対し、今回の『地を這う祈り』は写真をつかった心に訴えるエッセー集というイメージです。

実は、前々から写真をつかった作品をつくってみたいと思っていました。
文章でしか表わせないことがあるのと同様に、写真を合わせることでしか訴えられないこともあるのではないか。そう考えていたのです。

ただ、単なる「写真集」だと、いろんな意味で限界がある。
値段は高額になってしまうし、入れられる言葉が限られてしまう。
ならば、写真をつかったエッセー集にしてみてはどうか。それならば、これまでの本とは違うメッセージを届けることができるのではないか。
そんなことを、出版社の人たちと話し合った末に、今回の写真エッセー集が生まれたのです。
この『地を這う祈り』という本が、これまでの本とは違った形で、世界の現実の一つを垣間見る機会を提供することができればと願っています。




追記?

以下の書店で、フォトフレームをつかった写真の展示を行っています。

・紀伊國屋書店 新宿本店
・三省堂 神保町店
・三省堂 大宮店
・三省堂 成城店
・芳林堂 高田馬場店
・リブロ 松戸店

このフォトフレームには、本には未収録の写真&キャプションもたくさん入っており、書店によってすべて映し出される写真も違います。
書店の店長さんや担当の方が選んだオリジナル写真なのです。
三省堂神保町店ではすでにサイン本が並んでいますし、紀伊國屋書店(本店)でも今週末からサイン本が並ぶと思います。
宜しければ、お立ち寄りの際に、フォトフレームの写真もご覧下さい。


追記?

『地を這う祈り』に合わせて、10月31日(日)の午後から阿佐ヶ谷のロフトでトークセッションを行います。ミシマ社との共同企画で、名付けて「地を這う三時間」。是非ご来場下さい。
詳細はこちら
http://kotaism.livedoor.biz/archives/2010-09.html#20100930

いま、12月に刊行する絵本の企画を進めている。
僕は「文」はもちろん、原案、コマワリ、それに絵の構図や細かな描写の指定まですべてをやっている。
僕が「こうしてくれ」と言い、絵本作家が「まったく、注文ばかりで困るわ」と言いながら描き直し、編集者がフォローし、三人で進めているのである。
(途中で、もう一人の編集者が入って四人で行うこともある)
物語の絵だけで、80Pの長編。これをラフの時点から、なんだかんだ、5、6回描き直してもらっている。絵本作家には、本当に頭が下がる。

と、まぁ、そんな感じで進めているのだが、いざ、色づけした絵を描く、という段階になり、ひとつ大きな問題に突き当たった。

「ヒロインの女の子を美人に描くか否か?」

という問題である。
具体的にいえば、外国で暮らす10歳ぐらいの女の子だ。

僕と編集者(男)は、初めから「美人」だと想定していた。
だが、絵本作家(女)が、描いてきた絵は、お世辞にもカワイイとは言えない顔だった。
彼女はかわいい女の子を描くのが非常にうまい作家である。なのに、わざわざヒロインをかわいくない顔にしている。
一体どういうことか。
さっそく、僕はちょっとしたショックを受け、女の子の顔に五十回ぐらい◎を書いて、「ここを、直して下さいよ。なんで、こんな顔にするんですか。ヒロインなんだから美人じゃなきゃ!」と言った。
すると、絵本作家は、次のように言った。

絵本作家「いや、女性の読者は、ヒロインが美人だとひいちゃいますよ。色気のある女性はNGなんです。ヒロインを描く時は、わざと美人じゃない感じに描かなきゃいけないんです」

石井「いやいや、ヒロインっすよ。ヒロインが美人でなくて、どうするんですか。しかも、この登場人物は子供ですよ。なんで、絵本を読む子供や大人が嫉妬するんですか」

絵本作家「嫉妬するんです。女性というのは、そういうモノなんです。絵本を買うのは、母親です。母親の感情を逆なでするようなことはやめた方がいいですよ」

石井「まじっすか。じゃあ、たとえば宮崎駿のアニメとかどうなんですか。主人公は美人ですよ。半ケツだったり、パンツ見えてたりするし。でも、女性ファンは多いですよ」

絵本作家「あれは、中性的だからいいんです。宮崎駿の主人公は中性的なので、女性の嫉妬の対象にはならないんです」

石井「う〜ん(頭を抱えて)。仕方ない。そこまで言われては、僕も返す言葉がないっす。しかし、ヒロインがぜんぜん美しくないというのは、どうしても受け入れられません。中性的な感じでOKなら、せめて中性的な感じにして下さい」

こんな会話が交わされ、主人公の女の子は、不本意にも(めでたく?)、中性的な顔になることになったのである。
今もって、男の僕としてはヒロインがかわいくないのが腑に落ちないのだが、ただ、こういうことは今までにも何度かあった。女性読者を想定した時、「美人はやめろ」という声がどこからかかかるのである。

僕はひそかに、この現象を「かもめ食堂現象」と呼んでいる。

「かもめ食堂」という邦画がある。
非常にいい映画なのだが、男性から見ると、どうも登場人物が物足りない。次の三人である。

小林聡美
片桐はいり
もたいまさこ

三人とも、男性が好きな「美人」ではないのは明らかだ。
そのためか、男性でこの映画をいいという人はほとんどいない。
しかし、女性の多くは、この映画を絶賛する。僕も女性に勧められてみたし、上記の絵本作家や、その後に打ち合わせをしてこの話をした別の出版社の女性編集者も「あの映画はいい!」と言っていた。
この映画の監督は、女性の荻上直子。原作は、群ようこである。つまり、女性の心を女性の作り手たちがガッチリつかんで、いい映画に仕上げたのだろう。
だが、男からすると「…………」なのである。

こういう問題は、作り手の側にはいつも、「壁」として存在するある。
今回の絵本はもちろん、これまで手掛けてきた漫画でも、テレビでも、そういう問題が発生するのだ。
(文章だけの場合だと、読者の想像の世界になるので、こうした問題はあまり発生しない。僕が本にあまり写真を載せたがらないのは、このような理由もある。写真をつけてイメージを固めてしまうと、逆につまらなくなってしまうケースがあるのだ)

何が成功なのか。たぶん、それは「最善をつくした後の結果論」でしかない。
しかし、モノを作る時というのは、最善をつくすために、「ああしろ、こうしろ」と果てしない議論をつづけ、悩み、ぶつかり、また議論をする。
その時、いつもこの「かもめ食堂現象」にぶつかる。
漫画の場合は男性向け漫画か、女性向け漫画かという区別が一応はあるのでいいのだが、絵本となると、そうはいかない。
たぶん、絵本をやり続ける限り、ずっとこの「壁」に悩まされるのだろう。
ただ、僕は最終的に顔だけは、「画家」の感性に委ねることにしている。画家が登場人物に感情移入できなければ、絵に魂が宿ることがないからだ。

ま、どうなるか、楽しみにして下さい。
実際、僕もどういう絵になるのか、すっごく楽しみだ。

昨夜、久しぶりに新宿二丁目に行った。
「ニッポン異国紀行」のテーマを話していたところ、ふと日本における外国人ゲイのコミュ二ティはどうなっているのかと思いついた。それで、知り合いに頼んで、二丁目を案内してもらったのである。

が、この日は朝からずっと山谷での取材やら打ち合わせがつづき、クタクタだった。
2丁目に合流したのは、23時。すでに体力は尽き、頭はボーとしており、取材をする気にならない。
それで、午前3時半まで取材もせずに日本酒と焼酎とビールをダラダラと飲み続けた挙句、酔っぱらってタクシーで帰ってしまった。
NHK出版の福田さん、案内人のO氏には、とても悪いことをした。。。

ともあれ、久々に二丁目をブラブラ歩いて思ったのだが、HIV予防の啓発活動がより一層大きくなっていたように思う。
昨日入ったバーにも、カウンターにコンドームと募金箱が置いてあった。
HIV取材の時に、「ノンケとゲイとでは、HIVに関する意識が違う」と100回ぐらい言われたが、たしかにそうだと思う。
男女のカップルが行くような店で、コンドームが置いてあり、トイレや壁にHIV予防パンフレットが置いてあるようなことはない。
まったく意識が違うということなのだろう。

そういえば、その場にいた人がこう言っていた。

「あるデータでは、ゲイの5パーセントがHIVに感染している。20人に1人と考えたら、相当な数値。絶対に気をつけなければならないと思う」

この5%という数値に、どれだけの信憑性があるのかはわからない。
ただ、かなり多いのは事実だ。実際、この日の午後、山谷にあるホームレスのための病院で知り合いの看護師と話をしていた。すると、その看護師が何気なく「私の知り合いのゲイの人がHIV感染しちゃったんだよね」と言っていた。
直接の知り合いにいなくても、知り合いの知り合いにいるぐらいにはなってきているのである。
20人に1人として考えている人がいるゲイ社会と、そうではない異性愛者の世界とでは、かなり意識に差があるのは事実だろう。
その差を崩すのは、いろんな意味で難しいのだろうけど、時代とともにそれもまた変わっていくに違いない。

ちなみに、日本のHIV感染者に関する本は、現在進行中。
今年中には出版の予定です。お楽しみに。



追記
外国人のゲイの人と話をしていたのだが、その時面白い話を聞いた。
「欧米人は宗教的にゲイがいけないとされている。そのため、彼らはゲイの権利を『戦って奪い取るもの』と考えている。だから、ゲイのパレードなんかは闘争的。戦うべき<権力>がある。
しかし、日本ではそれがない。仏教や神道の教えにゲイはいけないと書いていない。だから、日本でゲイのパレードがあったとしても、すごく穏やか。権力と戦う、といったような雰囲気がまるでない。
欧米のゲイ文化と日本のゲイ文化とでは、ここらへんがかなり違う」
なるほど、と思った。
ちなみに、アフリカでは「ゲイは白人文化」というような雰囲気があり、ゲイを軽蔑する傾向にある。
文化によって、いろいろと違いがあるのだ。

「レンタルチャイルド」の写真第二弾である。





121-1

「象皮病の物乞い」
象皮病は、寄生虫によってなる病気である。足のほか、性器に症状があらわれることがある。
イスラーム教徒の女性は、ベールで自分の顔を隠しながら物乞いをする。顔を見られたくないためである。
たしかに、同じ立場だったら、繁華街のど真ん中で、象皮病の患部をさらして物乞いなどできるわけがない。


106-1

「イボ男」
彼の写真を撮る時、息を止めたのを覚えている。
ものすごい躊躇いがあって、息を止めなければ写真が撮れなかった。
これまでにも、何度かそういう体験をしたことがある。これは質問も同じだ。相手にとって辛い質問をする時、僕は息を止めて尋ねる。平然と呼吸をして撮ったり、訊けたりするわけがない。


88-1

「水頭症の子と母」
モスクの前で、水頭症の子どもを横にし、母親が物乞いをしていた。
つらかったのが、子どもの後頭部が何カ所か切れていて、そこから「水」が漏れていたことである。
母親は、それを拭きながら、「10ルピー、10ルピー」と言っていた。
ああいう声は、いつまでも耳に残っている。


31-1

「ムンバイの駅前の物乞い」
一見した時、ただのストリートチルドレンかと思った。だが、彼の足は目を疑うような形をしていた。
すぐ近くで、父親がじっと監視していた。きっと父親がここまで連れて来て、息子に物乞いをさせていたのだろう。

去年の秋だっただろうか、某雑誌の企画で国内アダルトビデオ最大手メーカーの一つであるソフト・オン・デマンドの社長さんと話をする機会があった。
あの会社は渋谷の109の前にバカでかい広告を出している。おそらく渋谷を歩いたことのある人ならだれでも見かけているはずだ。人気AV女優のポスターをどかーんと貼っているのである。推測するに、広告費用はウン千万円だろう。
渋谷に行くたびに、あのポスターが目に付いたので、話をした時に尋ねてみた。なぜあんな広告を大々的に打っているんですか、と。
すると、社長さんはこう言ったものだ。

「あれは若い女性たちに夢を与えるためのものなんです。AVに出れば、こんなに有名になれて、美しくなれて、稼げるようになれる。それをアピールするためのものなのです」

僕はそれを聞いて、なるほどー、と思った。
AVがいいか悪いかは別にして、それを見た若い女性がAV女優になって大活躍し、業界が活性化すれば、広告費なんて安いものだ。
業界が活性化するためには「夢」が必要だ。企業はその「夢」をつくりあげる必要がある。それがお金だろうと、有名になるということだろうと何でもいい。とにかく「夢」がなければ業界は面白いくない。
(僕はAVなんぞ見ないのでその業界のことはほとんど知らないが、ソフト・オン・デマンドの名前だけは知っていた。それは、きっとこの会社がそのように盛り上げているからなのだろう)

そういえば、先日古本屋で見つけて読んだ『サーカスが来た!』(亀井俊介、文春文庫)という本にも「夢」が書かれていた。

かつて、障害者の見世物というのがあった。
お祭りやサーカスなどで障害者がその体の障害を見せることで、お金を儲ける仕事である。
いわゆる「見世物小屋」と呼ばれていたものだ。

日本では見世物小屋は、どちらかというと障害者がする薄利の仕事だったという。悲しい雰囲気が漂い、一生見世物として生きる感じだ。

しかし、同時期にアメリカにあった見世物は違った。
サーカスなどとともに見世物小屋が開かれるのだが、見世物たちは障害をさらすことで膨大な利益を得ていたのだと言う。
たとえば、「チャンとエン」というシャムの双生児がいた。アメリカの見世物史上でもかなり有名な結合双生児だ。

上記の本によれば、二人は見世物小屋で働いたことで、「百万長者」になったそうな。
「北カロライナ州に農園を買い、奴隷を雇い、結婚して、二人で二十人以上の子どもを得た」という。
見世物はアメリカンドリームを体現する方法でもあったのである。
それゆえ、障害者の中には、一攫千金の「夢」を見て、自ら見世物になった者も少なくなかっただろう。
AV同様、こうした市場が道徳的にいいか悪いかということは別にして、こうした「夢」があったからこそ、人が集まり、人気が出たのは間違いないことだと思う。

なんで、こんなことを書いたかというと、今日たまたま小説系の編集者と会って話をしたからである。彼は次のように言っていた。

「無名の新人の作品がいくつかあって、どれかを出版しようとなった時、プロフィールを見てかわいい子がいたりすると『こいつの本を出そうかな』という話になるんです。若くてかわいいだけで、1.5倍ぐらい売上が違いますから。バカバカしいですけど、会社にはそういう見方をシビアにする人もいるんですよね」

1.5倍の売り上げていくらかご存じだろうか?
たとえば、純文学などでは1200円の本が初版5000部ぐらいだったりする。30%が会社の収入だったとして、たった180万円である。これで1.5倍違うっていったって、売上的には100万円も違わない。その100万円のために、コツコツ頑張った人間を切り捨てて、美女を取るのか……。つーか、こんなケチケチしたことに頭を悩ませるのか……。

別に、こういうことは出版業界じゃなくたってあるだろう。
IT業界だって、飲食業界だって、服飾業界だって、似たようなものだ。
しかし、嘘だろうとハッタリだろうと、企業はどーんと「夢」を与えるべきだと思う。不況だから、斜陽だからといって、企業や中の人間がケチケチしていたら、あまりにも悲しい。たった100万円程度で、グズグズ美人の本を出すかどうか悩んでいる会社が面白いものをつくれるわけがない。これじゃ、集まる人も集まらないし、魅力はどんどんなくなっていくだけだ。
特に出版業界なんて、「夢」で勝負してナンボである。そういう意味では、AVやサーカスと変わらない。ある種ひどくいかがわしいが、「夢」という幻想があるから、つくる人も、発掘する方も、読む人もそれに夢中になる。その「夢」の大きさが、楽しさそのものである。
だが、経営者という立場からすれば、なかなかそういう思考回路にはならないのだろう。寂しいことだ。

ところで、「夢」と言えば、夢を語る編集者と語らない編集者がいる。
たとえば、ミシマ社の三島さんなんて一回話すと30回ぐらい「ベストセラーにしよう」という言葉が出てくる。彼から送られてくるメールには、たいてい「ベストセラー」の文字が踊っている。
引用しても問題ないと思うので、たとえばこんな感じだ。

> 石井さま
>
> お世話になります。
> 河出さんの飢餓浄土 もすごく面白いですね!
> 戦争文化も負けず、盛り上げていきます。
> なんとしても、ベストセラーにしましょう!!

また、講談社の担当石井克尚氏もかなりの大口をたたく。「この作品なら、どーんと初版で5万部いこう」とか「取材費はオーバーしても何とかするからガンガンやってきてくれ」とか「最低20万部は売ろう」と言う。

こうした言葉をハッタリととる人もいるだろう。
けど、少なくとも僕にとっては一つの「夢」である。こう言われると、とりあえずやってみようという気になる。夢というのは大きければ大きいだけいいのだ。

しかし、中にはそうじゃない人もいる。
「いや、うちはショボイので、申し訳ないですけど初版で●万部も刷れないです」とか「うちは営業力が弱いので、他社に比べると売れないと思います。あらかじめご了承ください」と言ったりする。
もちろん、これを現実的だと考えることもできるだろう。また、本当に申し訳なく思い、気をつかって言ってくれているのもわかる。
しかし、こういう会話には「夢」がない。そんなこと、言われなくてもわかるんだから、言わなくてもいいじゃんと思ってしまう。それなら「初版は7000部しかできなかったけど、3か月で最低7万部はクリアして上層部をビックリさせましょう」と言われた方がいい。

僕はハッタリでも何でもいいから、すべてにおいて「夢」は必要だと思っている。
だからやっていて面白いし、やりたいと思うし、ダメでも次は頑張ろうと思える。
こういう時代だからこそ、「夢」は必要だと思うのだが、いかがなものぞ。

レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち
レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち
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本を出す時、取材で撮った写真を載せるかどうかというのは、とても悩む。
読者からすれば、写真はあった方がいいと思うかもしれない。しかし、実際に載っていると、写真というのは創造力を狭めてしまうことがある。あるいは、写真を見て「どん引き」して買わない人も少なくないだろう。
そのため、写真が文章の足を引っ張ってしまうケースもあるのだ。

たぶん、一番いいのは文章を読んだ後に、写真を見ることだと思う。
見たいと思った人だけ見ればいい。本を読んでいるので写真を見た時にいろんなことを思える。しかし、本という商品形態ではそういうことができない。
そのため、写真の少ない本を出した後に、写真集などを出すということになる。
いま、徳間書店で写真集の企画をやっているのはそのためだ。

ただ、人によっては、写真を多用した方がいいという人もいる。
たとえば、来年旅行人で蔵前仁一さんのもとで出す本は写真をかなり多めに入れようという話になっている。蔵前さん自身、写真やイラストを多く利用される方なので、うまくそれを生かすイメージがあるのだと思う。
また、これまで出した本でも、「神の棄てた裸体」を今年の夏に「写真増補版」として電子書籍で出すことになっている。五冊に分けて、一冊につき二十枚前後の写真と短いエッセーを加えたものを販売するのだ。

何をいいと思うかどうかは人によって違う。
だから、作る側としては、いろんな形で試していくしかない。

さて、今回出版した「レンタルチャイルド」だが、これもちょっと悩んだ。
版元の新潮社とはそこまで話し合わなかったが、僕の中では写真を多用することを提案するかどうかで悩んだ。しかし、文章がこれまでで一番文学的にしたということもあって、最終的には文章主体で、章扉にだけしか写真を入れなかった。

(ちなみに、第一章の扉は、初校ゲラの時まで「イボ男」だった。だが、校閲から「これは読者はひくのではないか」という指摘があり、再校の際に写真を差し替えた経緯がある)

ただ、個人的にはまだ「写真を入れた方がよかったかな」という思いもある。
というのも、一カ月ほど前に阿佐ヶ谷のロフトでイベントをした時、何人かの女性が「月刊PLAYBOY」を持ってきて、そこにサインをしてくれと言ってきたからだ。
(一年半前に休刊になった雑誌をわざわざ持ってきて、そこにサインをしてくれ、というのはとても珍しいことだ)

「レンタルチャイルド」は最初、「月刊PLAYBOY」という雑誌に連載していた。金髪女性のヌードを主体にしたノンフィクション系の雑誌だった。
最初に編集長から連載の話をいただいた時、「金髪ヌードを目的として買う読者の下半身を萎えさせてやれ!」という思いで、あの超ハードボイルド「レンタルチャイルド」を書くことにしたのだ。
連載時はイボ男の写真などすさまじいエログロ写真をカラーで掲載した。読者から多くの批判もあったが、ほめて下さった方も多かった。
だが、結局同誌は途中で休刊になり、その後「新潮45」という雑誌で連載をつづけたのだが、同誌は写真メインの雑誌ではないため、写真の掲載をやめたのである。
しかし、「月刊PLAYBOY」の連載がかなり強烈な印象に残っていたのだろう。ロフトのイベントに来てくれた人もそうだが、それ以外のところでも「あの連載を見ました」という意見を方々で聞いた。
そういうことを考えると、単行本「レンタルチャイルド」でも写真をかなりたくさん入れればよかったかなー、と後ろ髪を引かれる思いがするのである(髪の毛はないが)。

というわけで、ちょっと「レンタルチャイルド」関係の写真をこのブログで紹介しよう。


5432-1

「血だらけの物乞い」
第二章に、青年マフィアが幼いストリートチルドレンに襲い掛かり、血だらけにさせて物乞いをさせるシーンがある。血を流している物乞いの方が儲かるからそうさせるのである。
この写真は、そうしたストリートチルドレンの犠牲者である。彼らはこのように殴られ、血を流し、アスファルトに横たわりながら物乞いをさせられているのである。



194-1

「片目の少年」
ストリートチルドレンは大きくなると、物乞いをしてもお金が稼げなくなる。
そのため、ストリートチルドレンの中には自ら目をつぶして物乞いをしたりする者もいる。
また、指がなかったり、指が欠損していたりすると、わざわざその手を差し伸べて物乞いをする。そうした方が金になるのだ。



252-1

「手首のない少年」
ストリートチルドレンは障害をさらして物乞いをした方が儲かることを知っている。
そのため、障害の部分を人に見せながら物乞いをするのだ。
痛々しいのは、その傷である。たとえば、マフィアに傷つけられたりすると、わざわざその傷が治らなように、故意に患部を化膿させつづけたりする。
治った患部を見せるより、血が出たり、膿が出たりしている傷口を見せた方が同情が集まり、金を手に入れられるからだ。



127-1

「スラムの雑魚寝」
明け方のスラムでは、これぐらい人が密集して眠っている光景が広がっている。
バラックは小さくて家族全員が入りきらない。そこで路上にベッドを運び出して、そこで眠るのである。




とりあえず、4枚紹介した。
次は、ついにあの読者を戦慄させた「イボ男」公開???


いやはや、ようやく仕事が一段落した。
全力で作品を書いている時は、不眠症になる。悩み過ぎてまったく眠れない。
(ちなみに、吹き出物や発疹などは頻繁に起きるのだが、「神の棄てた裸体」「レンタルチャイルド」の時は、ヒゲにまで円形脱毛症ができた。これは驚異である)
おかげで、この2カ月はほぼ毎日睡眠薬を飲んでいた。クスリ漬けの日々から抜け出さなくては……。

といっても、HIVの草稿が終わっただけ。
これから2ヶ月間全面的に書き直して、なんとか9月初旬の入校。そして11月の出版を目指す感じ。

ただし、その間にやらなければならないことが山ほど。
以下は、今年の予定でもあるので、紹介がてらに明記すると、主なものだけで次のような感じになる。

1、「飢餓浄土」の連載原稿の草稿を書き上げる。
2、9月から始まるNHK出版のWeb連載の執筆。
3、10月から始まる筑摩書房のWeb連載の執筆。
4、「新潮45」での<優生政策>の取材。
5、光文社メルマガで連載予定の<日本のホームレス>の取材。
6、12月出版予定の絵本。
7、11月出版予定の写真集。
8、12月発売の「G2」のための取材。
9、8月発売の「神の棄てた裸体」の電子版。

さて、これを、いかに11月までに終わらせるか。この夏が山場だ。気合い一丁である。
ともあれ、前から告知していたWebマガジンの3連発の連載概要が決まったので、以下に書く。

●飢餓浄土(河出書房新社Webマガジン)
5月からスタートしており毎週連載していますが、7月からは隔週になります。
原稿のUPは偶数の週の月曜日。
つまり、2週目、4週目の月曜日UPです。
※来年初めに単行本化の予定

●NHK出版でのWeb連載
8月からスタートします。1年ほどつづけます。
こちらも隔週で、奇数の週の月曜日UPの予定です(詳しくは今週末に打ち合わせの予定)。
つまり、1週目、3週目、5週目の月曜日UPです。
※来年に新書化の予定

●筑摩書房でのWeb連載
10〜12月に短期集中連載の予定です。
こちらは今の所毎週UPしていく予定です。
※来年に新書化の予定

いずれも、無料で読めるので、乞うご期待。


さて、いま新潮社でやる予定の<優生政策>の資料を片っ端から読んでいる。
テーマは戦前から90年代、国が障害者80万人以上に「断種手術」をした歴史についてである。
これについて情報を持っている人は、ゼヒ連絡がほしいのだが、それはともかくとして、中絶について勉強すると、いろいろと面白いことがわかる。

現在、日本でこれまで行われた中絶手術の数をご存じだろうか?
戦後から現在までで、おおよそ六千万件ぐらいらしい。現在の日本の総人口の半分ぐらいである。

ただし、中絶の件数はかなり減ってきている。

1955年 1170143件
1970年 732033件
1990年 456797件
2005年 289127件

周りの女性を見ていると、中絶経験者は少なくない。
僕が感覚的に思うのは、中絶経験者は何度かしているということだ。一度だけという人は少ない気がする。
統計的にもそれは言えて、たとえば、05年の約28万件(人)のうち、6万人以上が複数回中絶を経験しているそうだ。実に、中絶経験者の4、5人に1人以上が2回以上中絶しているのである。

個人的にこれらの資料を見ていて興味がわいたのが、1960年の統計だった。
この年、熊本医学会、中絶した女性を「職業別」に分けた統計を発表した。それが以下である。

職業  中絶経験率

農業  17.9%
医師  32.7%
教員  41.0%
日雇  19.5%
職人  27.2%
旅館  78.4%
無職  50%

ちょっと前に、温泉エッセイストの山崎まゆみさんに昔の温泉について色々と教えてもらったことがある。
表現が適切かどうかわからないが、昔の温泉はある種「アウトローのたまり場」だったそうな。
駆け落ちして逃げてきた人、町にいられなくなったやくざ者、伝染病の患者や障害者などのたまり場だったそうである。
たしかに、昔の小説を読むと、温泉街にはいろんなヘンな人が登場するし、不倫やら自殺やらが多い。そういえば、草津温泉のようにハンセン病患者のたまり場と化していたような所もあった。

上記の統計を見て「旅館」で働く女性に中絶経験者が圧倒的に多いことを知り、僕は山崎さんの言葉を思い出した。
1960年でこんな状況なのである。おそらく戦後まもない時期や戦前にいたっては、もっともっと状況は顕著だったのではあるまいか。
温泉街の歴史というのは、掘り下げてみると、なかなか面白いものが隠されていそうだ。

ちなみに、僕が「旅館」のほかに気になったのが「医師」と「教員」である。
「医師」が多いのは、なんとなくわかる。おそらく、知識がある分、病院で中絶するのも容易かったのだろう。
しかし「教員」というのは何なのか?
年度別にみると、60年は32%だが、61年は40%、62年は55%である。非常に高い数値だ。
なぜ教員に中絶率が多いのか僕にはわからない。もしどなたか「推理」ができそうな方は是非教えてほしい。

そうそう、最後に毎年世界でどれぐらいの中絶件数があるかといえば、毎年5000万件ほどだそうである。
地域別にみると以下。

アジア 40000人
アフリカ 23000人
ラテンアメリカ 6000人
オセアニア 500人
旧ソ連 500人
ヨーロッパ 100人
北アメリカ 僅少

ちなみに、お隣の韓国では毎年30万件以上あるそうな。
人口は日本の半数以下であることを考えると、おおよそ倍以上の中絶率ということになる。
国が違えば、事情も違うということなのだろう。

新刊『レンタルチャイルド』が毎週重版かかっています。
みなさんのおかげです。ありがとうございました。この場を借りて、厚くお礼を申し上げます。

「これまでの作品の中でも一番重量感がある」という言葉を方々から頂きます。
実際、最初は『月刊PLAYBOY』(集英社)という雑誌で連載していたため、金髪美女のヌードを目当てに雑誌を手に取る読者を萎えさせるべく「最高にきついハードボイルド」を書こうと決めて書いたものです。
ユーモアも、ハッピーエンドも、カタルシスも何もかも取り除き、とにかく最初から最後まで五感にビリビリ訴えるような現実だけを貫き通す作品をつくろう。そういう意図で書いたのです。

河合香織さんから読売新聞の書評で賛辞をいただきました。ありがたいことです。

さて、先日拙著を読んで下さった泉流星さんという作家から質問をいただきました。
泉さんは『僕の妻はエイリアン』(新潮文庫)などのベストセラー作品を出しているノンフィクション作家です。
トークイベントなどで頻繁に聞かれる質問もまじっていたので、泉さんにお断りして、質回答をブログに載せたいと思います。
もし他にご質問がある場合は、今週土曜日に阿佐ヶ谷のロフトで開かれるトークイベントにお越しいただければ幸いです。そこでどんな質問でも受け付けますので。



○出版社に原稿/企画を持ち込みする場合、具体的にどうやってするのですか? どうやってテーマに最適な編集者を見つけるのですか?


いわゆる「持ち込み」という経験がほとんどありません。
処女作はともかく、二作目以降はすべて編集の方に声をかけてもらって実現しました。
したがって、出版の可能性がなく書き始めて、それをいろんな出版社に持ち込んだという経験は、処女作以降はありません。
贅沢と言えば贅沢ですね。実際、僕はとても恵まれていると思います。逆にいえば、それが欠点なのかもしれませんが。

適切な編集者を見つける方法……
幸いなことに、いろんな会社の方に声をかけてもらっています。常に大勢の方とやりとりしている。
そのため、「この雑誌ならこういうテーマがいいだろう」と思ったり、「この人はこれが得意だからこのテーマを話してみるか」と思ったりします。それで、テーマを話してみる、というのが一般的です。

ただ、実際はもっといい加減ですね。
一日に何個もテーマが浮かびますし、編集の方と話をしていればいくつも企画をポロポロ言います。
編集の方もその中から面白そうと思うテーマに興味を示してくる(編集者や会社によって、「面白そう」は違います)。
なので、とりあえず「言った者勝ち」という感じで、酒を飲みながら、コーヒーを飲みながら、機関銃のようにテーマを出しておく、というのが基本です。

おかげで、先日光文社新書の担当の方と朝一で打ち合わせをしたら、

「石井さんと朝打ち合わせをするのは、目覚めてすぐに犬鍋を食べるような気分だ」と言われてしまいましたが(笑)。
まぁ、その犬鍋も連載企画なったので、OKでしょう。



○ご著書を拝見していると、旅行者や社会改革の活動家というより社会学者のような視点で取材・観察し、貧困社会の仕組みを分析されているように思えるのですが、社会学に興味はおありですか?
(たとえば、シカゴのギャング社会に入り込んでフィールドワークをしたスディール・ヴェンカティッシュが『ヤバい社会学』で報告している、エスノメソドロジーの方法によく似ていると感じます)



僕は「旅行」をしている意識はまったくありません。「活動」をしている意識もゼロです。
たしかに「社会学」とか「人類学」に近いかもしれません。ただし、学者的な「成果」を形にするという意識ではなく、「フィールドワークからエンターテイメントをつくりあげる」という意識です。
もちろん、「エンターテイメント」というのはお笑いということではありません。「商品性」ということです。
つまり、「フィールドワークを商品に変える」という意識ですね。
それが結果として、「エンターテイメント」的要素と「社会学(人類学)」的要素の二つをもって、両方から面白さをアピールできれば最高ですが。




○貧困地区に滞在して取材する場合、現金はどう保管しているのですか? カメラを持ったり、通訳を雇ったりすると明らかに「お金を持っていそう」と思われて、たかられたり、ふっかけられたり、強盗にあったりしませんか?


貴重品は、ホテルに置いています。
路上で寝泊まりする時も、ホテルに部屋をとっておいて、貴重品はすべてそっちに預けています。

強盗にあったことはありませんね。
たかられたり、ふっかけられたりしたことはありますよ。しかし、それは他の外国人も同じだと思います。

ただ、僕は「ふっかけられる」ことについては、あまり気にしません。
もともとお金に無頓着なのと、一々イライラしていても時間の無駄なので、あまり考えません。

それより、面白いことを手に入れられるかどうか。
それだけを考えています。お金を盗まれたり、強盗にあったって、それが「書く」に値することであればウエルカムです。むしろ盗んだり、殴ってくれた方がネタになるなら、そっちの方がいいですね。



○パソコンを持っていくこともありますか?どのように保管しますか?
ご自分では持っていかれないとしても、どうやって保管すれば安宿でも大丈夫だと思いますか?
(私は話しながらメモがとれないので、ボイスレコーダーを使う必要があるため)



上記と同じように、ホテルにパソコンなどは保管しています。
現実問題として、海外取材の最中も仕事のメールを打ったり、短い原稿を書いたりしなければならないので。
路上で寝泊まりしていても、一日数時間はホテルにもどって別の仕事を片づけて、何事もなかったかのように路上にもどって取材をつづける、みたいな感じです。
フィールドワークだけしていれば、どこぞやから給料や研究費がでる、なんて贅沢な環境にはないので、取材の合間にもどんどん別の仕事をこなしていかなければ間に合わないのです。
なんで、ストリートチルドレンや物乞いと暮らしながら、一方で漫画の原作を書いたり、エッセーや書評を書いたりというのが当たり前です。

安宿にPCを置くことは問題ないと思います。まず盗まないのではないでしょうか?
少なくとも僕は盗まれたことはありません。ただ、あまりに高いモノや貴重品は、海外に持っていきません。
データは盗まれても大丈夫なように、USBに入れて持ち歩いています。PCが盗まれても、原稿が手元にあればOKですので。



○通訳はどうやって見つけますか?どの人が信頼できる通訳かを見抜く方法、価格交渉のコツなどはありますか?


最初の数日は、一日十時間以上歩きまわって、面白そうな人に片っ端から声をかけて行きます。
地元に詳しい人、コネをもっている人、物乞いや売春など求めているテーマに詳しい人、口がうまい人、外国語がしゃべれる人、それぞれとにかく見つけまくる。
その上で、上位数人と契約をして、同時進行で通訳&ガイドをしてもらいます。
一緒にやっていくうちに「使えない人」と「使える人」とが明らかになる。
一日単位での契約なので、「使えない人」をバサバサ切っていく。残った一人か二人と最後まで取材を進めていく。
そんな流れですかね。

価格交渉は、ケースバイケースですね。その人によっても、国によっても違いますので。
肝心なのは、無意味に値切らないことです。良い仕事をした人には、良いお金を払う。それによって優秀な人を集める。
それが鉄則です。

良い仕事をした人には、僕は日本人並みの給与を払ってもいいと思います。

きれいごとでなく、海外取材というのは、短期間の中でどれだけ成果を上げられるかです。
金額云々なんて言っていたら何もできません。



○貧困地区の人たちと、友好的な関係になるために、実践していること(コツ)はなんですか?明らかに経済格差があるのに、友人のように受け入れてもらうために、心がけていることがあれば教えてください。


心がけていることは特にありません。
マニュアル通りにやってもうまくいきませんから。

それより、その状況その状況に合わせて臨機応変に対応できるかどうかです。
もちろん、そのためには経験や知識その他様々な要素が必要となってきますけどね。

この状況ではこうした方がいい、ということは言えますが、全体を通してこうすべき、ということは言えません。
あえて言えば、相手が女性だったら恋愛関係に陥る、相手が男性だったらケンカをする、ということでしょうか。とはいえ、それも状況次第ですけどね。




○男女の接触がタブーであるイスラム圏などで、女性とどうやって知り合い、プライベートな話ができるようにまでなるのですか?(恋愛の話ではなくて、あくまで一般的な意味です)


イスラムだろうと、キリストだろうと、宗教は関係ないと思います。
イスラムだから難しいというのは先入観に過ぎません。どこでも同じです。
それは、実際に自分の足で現地に赴いて、やってみればわかることだと思います。



○治安の良くないところで、どうやってカメラを安全に持ち歩き、写真を撮っていますか?


「治安が悪い」というのは、9割が「偏見」です。
まずはその「偏見」をどう取り除くかでしょうね。
それには徹底的に経験をつんでいくしかありません。そのつみかさねで見極める能力をつけるしかないのです。
それは何回か取材したからといってできるものではありません。何年も通いつめて数え切れないぐらい失敗してようやく身につけることです。



○被写体に断らずに、望遠で写真を撮ることもありますか?


一々断っていたら仕事になりませんね。
ただし、「一眼レフで遠くから盗撮」というようなことはしません。僕はパパラッチではありませんので(笑)。
基本的には、ポケットにコンパクトカメラを入れておいて、OKしてくれそうだなと思う人には断ってから撮影し、そうじゃない人にはその場で勝手にパッと撮ってしまいます。
とはいえ、僕はカメラマンではないので、あまり写真を撮りません。



○声をかけて写真を撮らせてもらった場合、お金を要求されたらどうしていますか?また、自分の写真が欲しいといわれた場合はどうしていますか?


当然支払っています。
取材に「せこさ」は禁物です。お金をばらまくことも必要です。

写真がほしいと言われれば、後から送ることもあります。
しかし、一々希望に応えていたらキリがないので、一部の人にしか送りません。再会する可能性のある人には送っておいて、関係性をもっておく程度です。
撮影した人全員に送っていたら時間もお金も間に合わないので。



○危機回避のコツを、いくらか伝授していただければ幸いです。
たくさんありすぎて簡単には書けないと思いますが…。私は何度か比較的治安の悪いところに行った経験はありますが、とにかく空気が読めないので、見える手がかり(目つきのおかしい人が何人もいる、生活を放棄した感じの荒れたテント小屋ばかり、等)に頼っています。見える手がかりから判断するコツがあれば、教えていただけるとありがたいです。



これはケースバイケースなので、何とも言えません。
ただ、トークイベントなでよく尋ねられる質問なので、その時はいろんな状況を例に出して説明しています。
書くと非常に長くなってしまうので、気になるようでしたら、どこかのトークイベントに来ていただいてご質問ください。なるべく丁寧にお答えいたしますので。



○女性が貧困地区に入り込んで、石井さんのような単身取材をすることは、可能だと思いますか?それとも無謀でしょうか?


男がやることも「無謀」だと思いますよ(笑)。
実際、僕もあらゆる評論家や作家から「無謀だ」とか「無茶苦茶だ」とか「常識がない」と言われましたから。

ただ、無謀なことをやらなければ、面白いわけありませんよね。
誰もができることをやっていたら、読者がついてくるわけがありません。
誰もできないことをやってこそ、はじめてその体験や情報に「価値」が生まれるのです。

作り手に求められるのは、その「価値」です。
僕はシビアにそう考えています。

お陰さまで、『レンタルチャイルド』が発売5日で増刷になりました。
つづいて、『神の棄てた裸体』の文庫版の増刷も決定。
ありがとうございました。改めてお礼を申し上げます。


さて、河出書房新社のWebマガジンでの連載『飢餓浄土』がフリーペーパー化しているという話をしました。
今回は、そのフリーペーパー版に掲載した「対談」を載せます。
合わせて『飢餓浄土』もよろしく!




放談
出版業界の怪談・ウワサ
石井光太×河出書房新社 武田(編集)

河出の幽霊、小学館の愛人

武田 
 この度、「KAWADE WEB MAGAZINE」で連載を始めていただくことになった「飢餓浄土」は、途上国に漂う怪談やウワサを扱う海外貧困における民俗誌です。それに伴うフリーペーパーを作っていくんですが、連載のテキストはこの前に載っけているんでそれを読んでもらうとして、ここは思いっきり下世話に行きましょう。ずばり、出版業界の怪談・ウワサということで。

石井
 じゃあ、まずは、河出さんの怪談から聞かせてもらいましょうか。

武田
 河出のすぐ近くに「お化けトンネル」と呼ばれているトンネルがあるんですね。千駄ヶ谷トンネルというんですが、そのトンネルの上は何と墓地なんです。仙寿院というお寺の墓地なんですが、近くに国立競技場がありまして、東京オリンピックの時にどうやら相当な急ピッチで周辺の工事が進められたようで、墓地の真下に道路を通してしまった。河出書房は細長い6階建てのビルなんですが、その3階に幽霊が出ると何件も怪奇現象が起きている。白い女の人を観たとか、夜中に仕事をしていた人間がありえないほどの大きな連続音を聞いたり、無言電話の嵐に遭ったりしているんです。んで、その3階というのが、トンネルの上の墓地の高さと一致する。慣れた社員はその存在を「3階さん」と呼んでいるらしい、「あ、また3階さんかぁ」って(笑)。河出からお化けトンネルをまたいだ向こう側にはビクタースタジオがあって、そこのこれまた3階くらいには、自殺した岡田有希子が頻繁にレコーディングしていたスタジオがあったらしい。でもこれはどうやら付けたし情報っぽい(笑)。

石井
 建物系の話で言えば、講談社が護国寺にビルを建てた瞬間、ヒットが格段に減った。どうやら風水的にめちゃめちゃ良くなかったらしい。

武田
 講談社で、その部屋に編集部を設けた雑誌が次々と廃刊に追い込まれる部屋があったらしくて、今ではもうその部屋は編集部としては使われていない、って話も聞いたことがあります。

石井
 文藝春秋には、地下に元文春の社員の幽霊が出るという話がありますね。今村淳っていうノンフィクションを数多く手がけた編集者がいた。その人の幽霊が出ると。あと、新潮社の社屋の中に三島由紀夫の霊が出るっていうのは聞いた事がありますね。

武田
 でも、三島由紀夫の霊が出るってのは何だか格式高くていいですね。

石井
 三島由起夫の都市伝説って結構たくさんあって、割腹自殺した遺体を解剖してみたら、ケツの中から精子が出てきたっていう。切腹する前に部下と一緒にアナルセックスをしてたんじゃないかと(笑)。

武田
 ははは。出版社ってのは、いろんな人からの恨みの集積みたいな所がありますよね。作家からも、同業者からも恨まれる。誰からも恨まれていない、全方面ハッピーな編集者なんていないわけですよ。

石井
 ですよね。自殺するヤツすらいるわけですからね。週刊誌なんて怨念の溜まり場みたいなもんですしね。あ、週刊誌で思い出しましたけど、「週刊文春」の中に、「淑女の雑誌から」っていうコーナーがあるじゃないですか。

武田
 ああ、あのエロい小咄を載せるコーナーですよね。

石井
 そうです。あのコーナーって、一人の担当者が何年間か続けて担当しなきゃいけないらしいんですね。その人が、毎週エロ雑誌を見てネタを拾うわけです。文春の人って真面目なお坊ちゃんが多い。そんな人が、ひらすらエロ本を読まされる。「人参を中に入れたら超気持ちよかったです」とか読まなきゃいけない(笑)。あまりにもそれが辛くて、ノイローゼ気味になってくる人がいるらしいんですよ。そういうことを防ぐために、担当編集者に代々伝わる、「開かずの箱」っていうのがあって、担当を継ぐ時にそれを渡されるらしいんです。「困った時にはこれを開けろ、この中にネタがあるぞ。だけど、本当に困った時以外、絶対に開けちゃダメだぞ」と言われている。で、まだ誰もそれを開けた事が無いらしいんです。担当編集者にとっては、本当に煮詰まったらこいつがある、この箱がある、ということを心の支えにして、「淑女の雑誌」を毎週作っていく。エロ記事を書く時の苦悩、辛さってものが、その箱の存在に滲み出ているような気がするんですね。
 あとは、集英社の社名の由来にまつわる都市伝説。小学館の社長の愛人が「英子」という名前だったと。んで、ある日、社長が子会社を作ることになって、そこで「英子のもとに集え!」という意味を込ませて、「集英社」という会社を作ったという都市伝説がある。英知を集めるなのかもしれないけど。でも何だか、ありそうな話じゃないですか、これ。
 これは都市伝説じゃないんですけど、こないだ集英社の人と話をしていて、その人が書店で領収書をもらおうと、「集英社でお願いします」って言ったら、「どういう字ですか」って返されたらしいんですね。書店員なんだからそれくらい知っとけよって話なんだけど、ひとまずおさえて「集めるに、英語の英に、会社の社です」って丁寧に言ったらしいんです。そしたら、英語の英がアルファベットになって、「集A社」になって出てきたらしい(笑)。

武田
 そんな事言ったら「河出書房新社」なんてハードル高いですよ。「かわでしょぼう」じゃなくて「かわいでしょぼう」だと思ってる人も多いですからね。

石井
 僕の最初の作品「物乞う仏陀」って本を出した時に、新聞記者から電話がかかってきて、「『物乞うブヒ』の件なんですが……」と言われた事がある(笑)。仏陀の「陀」が読めなかったらしくて、でも何か、「ヒ」の字があるから、「ブヒ」と読んだらしい。

武田
 営業部だった時に、書店から来る注文から、誤植のある注文を集めていた事があって、「大人の塗り絵 花鳥風月編」っていう、花や鳥の塗り絵をする本があった。その補充注文が「大人の塗り絵 課長風月編」。こんなの、絶対に塗りたくない(笑)。

(つづく)



出版業界にまつわる怪談・ウワサを募集しています。河出書房新社 武田(takeda@kawade.co.jp)まで。

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