石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

カテゴリ: 映画・演劇その他

「スラムドッグ$ミリオネラー」がアカデミー賞8部門を独占。
前から応援していたので、喜ばしいことだ。公開は春なので、今から楽しみである。

「スラムドッグ$ミリオネラー」はインドのスラムについて描いた映画だ。
この映画について書いた記事にこんなものがあった。


>批判とは別に持ち上がっているのが、
>「なぜ、このような映画を外国人ではなく
>インド人自身が撮れなかったのか」
>という問題だ。


僕はインド人がスラムの映画を撮る必要なんてないと思っている。
映画というのは、娯楽である。スクリーン映し出される夢のような美男美女を見て、楽しい世界にはまる。それが映画の楽しみ方だ。まじめで暗いものだけが映画じゃない。

これをとても感じるのは、インドの映画館を思い出す時だ。
最初にインドの映画館へいったのは、もう十数年前のことだ。
ご存知、インド映画はどんちゃか騒ぎのミュージカル&ラブコメディ&ハードボイルドである。
ストーリーもくそもない。とにかく、みんなが踊って歌って騒ぐ。そんなストーリーが休憩をはさんで3時間以上もつづくのだ。
映画の客たちはスクリーン上で俳優が歌い出せば立ち上がって歌い、踊りだせば一緒に踊る、キスシーンがあれば一斉につばを飲み、ヒーローが負けそうになると野次を飛ばす。
そんな劇場を見ていると、「映画って娯楽なんだよなー」という思いを新たにするし、そのすばらしさをしみじみと感じる。貧しい庶民たちが必死で稼いだお金でチケットを買って、行列をつくって映画を見に来るわけがわかるというものだ。

昔からよく言われていたことがある。
「なんで、外国の映画のように踊りも歌も笑いもない作品を見なきゃいけないんだ。映画なんだから楽しむのが一番だ。だから俺はインド映画しか見ない」
これが人々の常識だった。

しかし、インドの映画も次第に変化が訪れている。
かつてハリウッドより映画をつくっていたボリウッド映画(インド映画)は今やハリウッドに追い抜かれてしまった。
映画館に来るのは田舎者だけ。いまは庶民はみんな海賊版DVDで自宅で映画を楽しむ。もちろん、十数年前とは経済力も大きく変わった。
たぶん、かつて映画館で涙と笑いで顔をくしゃくしゃにして騒いでいたような人たちは、ほとんどいなくなってしまったのだろう。
やがては、いわゆる「ボリウッド映画」はなくなり、「ハリウッド映画」にとってかわられるのかも知れない。
というか、そもそも「ボリウッド」の語源である「ボンベイ(ボンベイの映画という意味で、ボリウッド)」という地名すらなくなっているのだから仕方のないことだ。

しかし、いまでもインドの映画でのことを時々思い出す。

初めてインドへ行った時、右も左もわからないまま、現地の怪しい兄ちゃんに誘われて映画館へ入った。
総立ちの観客と一緒にタバコを吸ったり、お菓子をスクリーンに投げたりして騒ぎながら、映画を見ていた。
その時、映画のワンシーンに、日本人観光客が登場した。カメラを首からかけたツアー客たちが、街中でうろうろとしているようなコメディシーンだ。
その時、観客たちが僕を見つけて、「お! 日本人だ! ここにも日本人がいるぞ! 前に出て来い!」と叫び始めた。
僕は観客たちに背を押されながらスクリーンの前に出て行き、そこで映画の日本人観光客のように間抜けな日本人を演じた。
すると、観客たちが拍手喝采し、次から次にお菓子をくれた。映画館を出る時には何人もの友達ができて、うちに泊まりに来いだの、遊びに来いだのと誘われた。
とてもいい思い出だ。
しかし、あんなことも、今となっては「古きよき時代の思い出」なのかもしれない。

「スラムドッグ$ミリオネラー」万歳!
しかし、負けるなボリウッド映画!

ブラッド・ダイヤモンド

そういえば、ちょっと前にアフリカを舞台にした映画の話を書いていたっけ。

アフリカを舞台にした映画といって、ふと思い出したのが「ブラッド・ダイヤモンド」。
アフリカの内戦地域でダイヤモンドが戦争の武器を買うために使われていることをとりあげた映画だ。

主人公のレオナルド・デカプリオ扮するチンピラのような宝石密売人。
ただ、元々は戦争で家族を失った兵士で、大きなダイヤを手に入れてアフリカから逃げ出そうと思っている。
彼は戦時下でダイヤモンドを手に入れて一攫千金を狙おうとするが、途中様々な人と出会ったり、戦争の現場を目の当たりにすることで、心が洗われていく。
そしてついにダイヤを見つけ、アフリカ脱出の一歩手前まできたと思ったら……

まぁ、こんなストーリーだ。
この映画が封切られた時、海外の有名な雑誌が、主人公のデカプリオにこんなことを訊いていた。

「アフリカの血ぬられたダイヤをテーマにしている。たしかに紛争地域で、ダイヤが武器購入のためにつかわれ、先進国でダイヤが売れれば売れるほど、アフリカで人が殺されていると言われている。しかし、それは何年か前のこと。今はなるべくそうしたことを防ごうと宝石メーカーも、国も懸命な努力をしている。この映画はそうした努力を台無しにすることにならないか」

この質問に対して、デカプリオはまじめに「たしかに過去のことかもしれないが……」などと答えていた。

ただ、僕はこの映画を見て、この雑誌の記者の見方はおかしいのではないかと思った。
たしかに映画は戦争につかわれるダイヤについて取り上げている。それが物語のカギにもなっている。
しかし作り手は、明らかにそこに重点を置いていない。戦争とダイヤというのはあくまでも物語を構成するための背景であって、テーマはそれを舞台にした人間ドラマなのだ。

有名どころでたとえれば、「タイタニック」だってそうだろう。
一つの事件を舞台にしている。しかし、作り手が描こうとしているのは、事件そのものではなく、登場人物たちの生き方だ。作り手は、「タイタニック」という映画によって、事件そのものに何かを言及しようとはしていないはずだ。
この「ブラッド・ダイヤモンド」という映画も同じなのだ。戦争とダイヤを背景にしてはいるが、描こうとしているのは登場人物たちのハードボイルド世界である。

であれば、記者がこの映画を見て「戦争とダイヤモンド」について問い詰めるような質問をすること自体おかしいのではないか?

実際の事件を背景にした物語には、こうした誤解がよく生まれる。
作り手は、事件そのものをアイテムとして、そこで繰り広げられる人間ドラマを描いている。
だが、受け取る側は、人間ドラマには関心を払わず、アイテムとしての事件の事実関係だけを気にする。
こうなると、両者の論点は完全にズレてしまい、合致することはない。

作り手からすれば、歴史的な出来事を舞台にした作品というのは、大きく二つにわかれると思う。
「事件そのものを描くもの」か「事件を<アイテム>として、人間群像を描こうとするもの」かである。
両者は表面こそ似ているが、作り手の意識はまったく異なるものだ。ただ、なかなか、その真意がつたわらない。そこがちゃんとつたわれば、「ブラッド・ダイヤモンド」という映画は最高のハードボイルド映画として、ちゃんと褒められるべきものだと思うのだけれど。

追記
「事件そのものを描くもの」の映画で、同じくアフリカを扱ったものは、『ルワンダの涙』『ホテル・ルワンダ』『イン・マイ・カントリー』などだ。
このうち『ルワンダの涙』『ホテル・ルワンダ』は、やたらとストーリーが似ている。しかもどちらもルワンダを舞台にしている。
知り合いの映画評論家に理由を尋ねてみたが、不明だとのこと。たまたまなんだろうけど、ここまで一致してしまうと、作り手は悔しかっただろうな〜。

ブラッド・ダイヤモンド

『サマリア』という韓国映画がある。
韓国の援助交際を舞台に、家族の深淵を描いた素晴らしい映画だ。

この映画のなかに、前半だけ登場して強烈な印象を残した女優がいる。
ハン・ヨルムである。
主人公の友達という設定ながら、主人公をも凌駕した存在感を見せつけた。

どの世界でも、その世界の「神様」が宿っている人がいる。
映画でも、文学でも、演劇でも、写真でも、何年に一度輝いている存在が現れる。
脇役であっても、駄作であっても、その人だけ不思議なほどまぶしく輝いているのだ。
ハン・ヨルムという女優さんは、まさしくそんな人だ。
『サマリア』という映画を観た時、まさしくそう思った。大袈裟ではなく、この人には、映画の神様が宿っているな、と。

たぶん、監督もそれを感じたのだろう。いや、監督が一番感じたのだろう。
監督キム・ドクは、『サマリア』を撮り終わった後、ハン・ヨルムを主人公にして『弓』という映画をとった。

もともと、このキム・ドクは、芸術性の非常に高い映画を撮る人だ。
この『弓』という作品もそうだ。
舞台はぼろくて小さな船の上だけ。主人公はひと言も言葉を交わさない。メッセージはすべて抽象的。徹底的に娯楽色を排除した映画である。

こうなると、映画の生命線は、ハン・ヨルムの魅力だけである。
キム・ドクがどれだけ魅力を引き出し、ハン・ヨルムがどれだけそれに応えられるか。いわば、監督と女優のガチンコ勝負なのだ。

はたして、たった一人の女性の魅力だけで、一時間三十分も引っ張れるのか。

いやはや、これがやったのである。
セリフも、ストーリー性もない映画のなかで、ハン・ヨルムがこれでもかというぐらい多様な魅力を見せつける。七変化どころじゃない。七百変化ぐらいして観ているものを圧倒させるのだ。
おそらく、一時間三十分どころか、二時間はゆうにできただろう。

これだけの女優さんが登場することなどめったにない。
あるいは、これだけ才能のある監督と女優さんのガチンコ勝負を観られることはめったにない。

もちろん、いわゆる「映画」としてのエンターテイメント性はまったくない。
なので、それを期待したら、120パーセント裏切られる。

しかし、いわゆる才能と才能のぶつかり合いを楽しみたいなら、ぜひ観るべき映画だと思う。
順番的には『サマリア』を見た後、ハン・ヨルムの存在感に圧倒された人だけ『弓』を観るというのがいいと思うけど。

サマリア



今回は、アフリカ映画の続編として、「ラストキング・オブ・スコットランド」を取り上げよう。

物語は、主人公の青年医師の気まぐれから始まる。
大学を卒業したばかりの青年医師が思いつきからウガンダへ行く。いい加減な気持ちでNGO活動をしようとするのだ。
そのなかで、青年は偶然、国の大統領アミンと知り合い、そして主治医にならないかと誘われる。青年医師は国のことなど何も知らずにOKして、国の中枢部に入り込んでしまう。
青年医師は大統領の庇護のもとで、贅沢な暮しを楽しむ。だが、一緒に過ごすにつれて、この国の「異変」を知るようになる。周囲の側近が消え、反対派の団体や民族が消えていく。
やがて、青年医師は、それがすべて大統領の仕業だと知る。大統領アミンが狂気のなかで国民を虐殺しているのだと知るのである。
青年医師は何も考えずに大統領の側近となってしまったことの浅はかさに気がついて帰国しようとする。だが、彼は逃げるには遅すぎた。あまりにも国の中枢部に入り込みすぎていたのである。
そこで彼がとった行動とは……

こんなあらすじだ。

ウガンダの大統領アミンは、もちろん実在の人物だ。
70年代に、数十万人という国民を虐殺した独裁者である。

芸術作品において、独裁者というのはある意味ステレオタイプで描かれる。
そのステレオタイプのほとんどが「マクベス」である。特に映画に描かれる独裁者は、「マクベス型」が多い。
独裁者ゆえの孤独によって、気がおかしくなっていき、手当たり次第に暴挙を犯し、破滅していくというパターンである。

そういう意味では、この映画におけるアミンにはあまり興味はわかなかったが、作品の視点は面白いと思った。
アミンの「自爆」や「凶器」だけを描くのではなく、その真横にいる「安易な青年医師」を主人公にして、彼の恐怖を描くという視点だ。
アミンだけ描けば、この映画は「マクベス」をなぞった狂人の物語となってしまう。
しかし、青年医師を主人公にしたがゆえに、「青年の愚かさ」「先進国と途上国の関係」「独裁政権の現実」「人間の狂気」といった複数のテーマを並列に置くことができているのである。

視点を置きかえることで、テーマを何倍にも膨らませられる。そのことを教えてくれた作品だ。
ただ、ひとつのテーマだけでズドーンとやるのと、複数のテーマを並列に並べるのと、どっちをとるかは作り手の好みにもよるのだが。

ちなみに、これは『スコットランドの黒い王様』というタイトルの小説もある。
新潮クレスト・ブックスからでている。

そういえば、昔この新潮クレスト・ブックスに昔ずっぽりはまったことがあった。
たしか「愛の続き」「穴掘り公爵」「グアヴァ園は大騒ぎ」あたりを立てつづけに読んで知ったんだと思う。
それでこのシリーズの小説は、どれも面白いということがわかり、図書館でこのシリーズを見つけては手当たり次第に読んでいた。
外国文学っていうのは、なかなか選び方が難しいので、こういうシリーズがあると、とてもありがたい。


ラストキング・オブ・スコットランド


スコットランドの黒い王様

最近、アフリカを舞台にした映画がお盛んだ。
たぶんハリウッドスターがアフリカを舞台に慈善活動をしているためだろう。
それにしてもよくつくられる。「ホテル・ルワンダ」がヒットしたと思ったら、
「ホテル・ルワンダ」あたりから、立て続けにつくられてきたと思ったら、06年には「ツォツィ」という南アフリカの映画が外国語映画賞をとった。

「ツォツィ」は、南アフリカのストリートチルドレンを主人公にした映画だ。
家庭内暴力を受けてストリートチルドレンとなった主人公が、やがてギャング化していく。
悪友四人と組んで殺人強盗をしながらスラムで生きていくのである。
だが、ある日高級住宅地で車強盗をしたところ、たまたまその車に赤ん坊が乗っていたことから、主人公の運命が変わっていく。
主人公の男はその子を一人で育てていくなかで、愛を知り、家族に憧れ、そして自分の過去を否定していくのである。
そして、ついに裏社会から足を洗おうとしたとき、警察につかまってしまう……。

たぶん、この話をつくった人は、汚れた人の中にある「人としての温かさ」というものを、物語を通して磨きあげ、拡大化していきたかったんだろうな、と思った。

この種の物語をつくる時というのは、「怒り」が必要になってくる。
ストリートチルドレンがかわいそうなのは誰でもわかることだ。だけど、実際に目の前にしたら、99%の人は「くさい」「こわい」「怪しい」といった理由で目をそらす。
立派な建前だけは語るくせに、それ以上のことをしようとしない。決めつけて去っていく。あるいは、思考を停止して去っていく。
それを見ていると、「怒り」がわく。その「怒り」ゆえに、彼らを磨きあげて人間としての温かさを描きたいという衝動に駆られる。

少なくとも、僕の場合はそうだ。
「怒り」がまずあって、そこから描きたいという衝動に駆られる。
たぶん、その「怒り」が大きければ大きいほど、描きたいという衝動も大きくなっていくのだろうと思う。

この物語をつくった人もそうだったんだろうな、と勝手に思った。


ツォツィ プレミアム・エディション(2枚組)

先日、友達と話をしていたら、「嫌われ松子の一生」の話で盛り上がった。
もちろん、面白い、という内容だ。

僕はDVDで観たのだが、最初の10分は、いつ消そうかと思った。
だが、途中からむちゃくちゃ面白くなってきて、最後は夢中になってしまった。

内容は、かなり重い。
トラウマをもつ女性が人に好かれたいと言う思いを胸に秘めて育っていく。
彼女は、その思いゆえに、人生の要所要所で様々な失敗をし、転落をしていく。
教師になったものの同僚の金を盗み、家を出ればトルコ嬢となり、悪い男につかまってDVを繰り返され、しまいにはゴミ屋敷の住人となって、中学生に殴り殺される……。

こう書くとただただ暗い話なのだが、それをものすごくコミカルに描いている。
暗い部分をすべて「笑い」に変えてしまっている。それゆえ、単に暗い話だけを書く以上に、人間の生きる力のようなものが描かれているようにも感じる。
人生ってたしかに悲劇だけど、それ以上にそれって喜劇でもあるんじゃないか。
そんな視線が、いやおうなしに登場人物への愛情をかきたてる。

僕は、このコメディ的な表現にものすごく憧れる。
暗いものを暗く書くのはとても簡単なことだ。悲惨と悲惨と描くのは楽なのだ。
しかし、「悲惨だけど……」という、「……」の部分にあたるものを見極めて、描くのは非常に難しい。
描こうと思えば描けるのかもしれないけど、失敗したら、それこそ目も当たられないことになる。これで失敗するなら悲惨を悲惨として描いた方がマシだ。
(だから「だけど……」を書くときは死ぬほど勇気がいる)
けど、本当はこの「……」という言葉にならないものこそが、人を人たらしめ、現実を現実たらしめている部分だと思っている。
そして、映画でも、文学でも、芸術といわれるものの優れている点は、その「……」を描けることだと思う。

映画監督の今村昌平は、戦後の人間群像を描いた重くて濃厚な作品を「重喜劇」と呼んだ。
まさしくその通りだと思う。人生とは「悲劇」ではなく、「重い喜劇」である。

しかし、喜劇を書くには、どうしても「センス」が必要だ。
オヤジギャグと同じで、センスのないやつが人に「喜」びを与えようとすると、かなり悲惨なことになる。それこそ悲劇だろう。

ちなみに、僕が好きな映画ペスト5を聞かれて、かならず出す一作が「アンダーグラウンド」である。
「重喜劇」の傑作中の、傑作ともいえる作品なので、もし興味があれば、ぜひ一度ご覧あれ。
(あまり映画を見ない人は、同じ監督の「黒猫白猫」という映画の方が面白いかも)


追伸
24日付でメールをくださった方へ。
何を血迷ったか、24日付でいただいたメールを間違えて消してしまいました。
(なぜか迷惑メールのフォルダに入っていて、それを全部削除してしまったので、復活できないのです)
なので、申し訳ありませんが、24日付のメール、もしくは25日の朝までにメールをくださった方は、もう一度送信してください。タイトルは「石井光太へ」みたいな感じでお願いします。
なんか、普通のメールまで迷惑メールフォルダに入ってしまうことが多くて。。。
すみませんが、よろしくお願いいたします。


嫌われ松子の一生 通常版



アンダーグラウンド



黒猫白猫

去年の日本映画で一番面白いと思ったのが『ハチミツとクローバー』だ。
美大生の男三人と女二人が三角関係を繰り広げる、青春恋愛映画である。漫画が原作なので、キャラクターに特徴があって、とても印象に残る。

「お前がこんな映画を観るなんて」と言われるかもしれない。
しかし、僕はそもそもラブコメが大好きなのだ。ラブコメの古典的名作『アパートの鍵貸します』なんて何十回観たか知れない。
むかし、ある小説家に、「石井君は、ドロドロの現実を描くくせに、意外にロマンチストだよね」と言われたことがある。
たしかに、そうかもしれない。どこかに、そういうものを見出そうとしていることは事実だ。

とまれ、僕はこの映画の主人公と同じく、芸術系の大学に通っていた。
物心ついた時から映像をやりたいと思っていた。けど、中学か高校ぐらいで濫読している時に、文章を書くということに魅力を感じた。それで、芸術系の大学へ入ったのだ。

しかし、大学へはまったくと言っていいほど行かなかった。
いや、厳密にいえば、図書館だけに行った。本を借りて授業には出ずに帰った。授業に出たのは二週間に一度ぐらいだと思う。学期中に何週間も海外へいったりしていたから、実質的にはもっと少ないだろう。

なので、映画の主人公のように、大学で恋愛ドラマを繰り広げた記憶がない。
それでも、大学四年間(厳密には、一年休学しているので五年)で、同じ大学の女性数人と付き合ったことがある。
『ハチミツとクローバー』では、学生たちが、お互いに創作意欲を刺激し合い、支え合い、作品をつくったり、スランプになったり、成功したりする。
けど、現実的には、これはとてもありえないと思う。そもそも、同じことをやっている人同士が一緒にいてうまくいくはずがない。

モノづくりというのは、人のやっていることを全面否定するものだと思っている。
人のやっていることを100パーセント否定して、まったく白紙にしたところで、モノをつくりあげる。あるいは、反ソレとして、モノをつくっていく。そういう作業だと思っている。だから、「創造」であり、「独創的」なのだ。それができなければ、ただの「マネ」になってしまう。
絵でも、写真でも、なんでもそうだけど、モノづくりをしたいと思っている人は、心のどこかで他のものを否定する精神があると思う。

そういう意味では、もし恋人が同じことをやっていれば、それを否定することになる。
事実、僕も当時付き合っていた人が文章を書いていた。しかも、むちゃくちゃ上手い。色んな賞までもらっていた。(それでも芸術の壁は高いのか、今は大手出版社に勤めている)
こうなると、面白くない。全然面白くない。「よかったね〜」「じょうずだね〜」なんていうけど、心の底では全面否定してる。しまいには、相手の人格まで否定しようとする。

もちろん、こんなんで恋愛関係がうまくいくはずがない。ありえない。

その後、ジャズをやっているボーカリストと付き合った時もそうだった。
文章ではなく、音楽なのに、とにかく敵対心を抱いてしまう。こんちくしょう、と思う。彼女が歌をうたっていれば、僕はそれを聴きながら「そうじゃない、俺だったらこうする」と思ってしまう。そうなると、いつかボロがでる。うまくいくはずがない。

芸術系の大学にいて、あるいはモノづくりをしている人といて学んだのは、そのことだ。
恋人には、絶対になれない。

ただ、悪いことばかりではない。
恋人関係は最悪だが、友人関係は最高である。
芸術系の大学へ行くと、良い友人にも恵まれる。一学年に数人その道に進む人がいる。写真家とか、画家とか、そういう職業につく人がいるのだ。こういう人と青春時代を一緒に過ごせるのは幸せだ。

僕の友達でも、ひとり映画監督になった人がいる。
先日その友人から近状報告を受けた。来年の3月に、伊坂幸太郎原作の『死神の精度』の映画版を全国公開するそうだ。なんと、ハリウッドのワーナーブラザーズの配給である。
彼とは大学一年の時に知り合い、『アパートの鍵貸します』の話で盛り上がり、一緒に同人誌を創刊したことがある。同人誌では、僕がノンフィクションを書いて、彼が漫画を描いていた(彼は漫画家でもあり、メジャー誌でも描いている。映画の原作にもなった)。

僕も本名でやるノンフィクションは今回で二冊目。彼も映画監督としてやる仕事は二本目だ。
がんばってるなーと思うと同時に、がんばんなきゃなー、とも思う。
そう思えるのは、幸せである。

ハチミツとクローバー ~恋に落ちた瞬間~

このページのトップヘ