石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

カテゴリ: 初めてのノンフィクション100

地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)
地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)
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僕は手紙というのが大好きだ。手紙をのぞきみることほど、ドキドキすることはない。
しかし、なかなか現代において他人の手紙をのぞき見ることはできない。一歩間違えれば犯罪である。が、やはり読みたい。
そんな思いから、大学四年の時に、独学で古文書を勉強した。おかげで、平安時代から江戸時代にかけての手紙を読み漁ることができた。それほどまでに、手紙というのは面白いものなのだ。

これは、小説でもそう。
明治から昭和初期までは、書簡形式での小説というのは少なくなかった。
いつの頃からかすたれてしまったが、小説家・宮本輝が『錦繍』という書簡形式の大傑作小説を書いてくれた。
別れた男と女が、数年の時を経て、蔵王のダリア園で再会し、そこから二人の往復書簡が始まるというストーリーだ。
僕はこれが大好きで、5、6回ぐらい読んだ。冒頭の数行は暗記しているほどだ。

もちろん、ノンフィクションでも同じ。
実際の手紙というのは、なによりもリアルである。本当になまなましい。
取材をした人から、「資料」として、手紙を見せてもらったり、コピーを送ってもらったりすることがあるのだが、これには何とも言い難いリアルがある。
たとえば、去年の夏に「G2」(講談社)で、HIVの原稿を発表したが、あの取材の時に、HIV感染者の妻が、自殺した夫の手紙をコピーして送ってくれた。
それを読んだ時の生々しさには、思わず手が震えたほどだ。

本当は、このリアル感をそのまま読者に伝えられればいい。
しかし、残念なことにそうはならない。手紙というのはやはり手紙なのである。

たとえば、ホームビデオを二時間劇場で見せられればうんざりしてしまうだろう。
それは、プロの手にかかった「作品」ではないからだ。どれだけリアルであっても、そのままでは「商品」にならない。
手紙にも同じことが言える。
手紙には何にも代えがたいリアルがあるが、そのまま本にしても、読めたものじゃない。やはり「作品化」を通して「商品」にしなければ無理があるのだ。

手紙を形にしたノンフィクションでいえば、『地雷を踏んだらサヨウナラ』は大傑作だと思う。
手紙の書き手は、20代のカメラマン志望の男性である。彼はどうしてもカメラマンになりたいという夢があった。
時はベトナム戦争の時代。多くのカメラマン志望者が現地にわたり、スクープをものにして有名になっていた。
青年もまたそうやってカメラマンとして名を売るために単身ベトナムへ渡る。
だが、そこは戦場。死があり、悲しみがあり、狡猾さがある。一方で、女もいれば、快楽もるし、喜びもある。なにより、将来への夢がある。
青年はカメラマンとして有名になることを夢見て、ひたすら写真を撮り続ける。そして、その合間合間に日本にいる家族や友人のもとに近状を知らせる手紙を送り続ける。
結局、青年は戦火に巻き込まれて亡くなってしまうのだが、遺族や友人が後年それを本にしようということで、本にまとめられた。
それが『地雷を踏んだらサヨウナラ』という本である。
おそらく、遺された多くの手紙は、書籍化するにあたって「作品化」されているのだと思うが、それでも体が震えるほどのなまなましさと、驚きをつたえてくれる。
あの時代、カメラマンになることを夢見た一人の青年の息遣いが、手紙をつたって響いてくるのだ。

僕がこれを読んだのは、大学生に入ったばかりの時だった。
いやはや、衝撃だった。
このカメラマンは僕と同じ大学の出身。当時の僕と年齢もほとんど変わらない。
その人間が、プロの写真家になりたいという夢を抱いて、ベトナム戦争に単身乗り込んで、歯を食いしばりながら懸命に写真を撮り続けていたのである。
僕はそれを知った時、後輩として恥ずかしかった。
プロになるには、これぐらいやらなきゃダメなんだと思った。ちょうどノンフィクションをやりたいと思い、海外を回っていた頃だったから思い知らされた。
絶対に人が出来ないと思うようなことをやらなきゃ、プロにはなれないんだ。
そう痛感した。

昔から言っているのだが、僕はノンフィクション作家が書いたルポというのは好きではない。
高みに立って距離を置いたところから、あれこれと偉そうなことばかりを言っているように思えるのだ。
だが、この『地雷を踏んだらサヨウナラ』を初め、石川文洋(「戦場カメラマン」)、岡本昭彦(「南ヴェトナム戦争従軍記」)といったベトナム戦争中に活躍したカメラマンの本を読むと、まったく違う。
カメラをもっているためか、文筆家とは異なって、現地の人々と同じ立ち位置で、フラットな視点で、素直な感情を形にしている。
正直、僕はノンフィクション作家のルポより、カメラマンの視点や立ち位置や人々のとらえ方に魅了された。
ノンフィクション作家は現場から距離を置いて高みから論をでっちあげているだけなのに対して、カメラマンは現地の人と同じ視線に立って感じたことを素直に作品にしている。僕は前者より後者の方に何百倍も魅力を感じた。
ならば、カメラマンと同じ現地への潜り方をして、その視点で起きていることを一つの物語としてノンフィクションを書いたらどうだろうか。そしたら、これまでの人とは違った世界を築き上げられるのではないか。
そんな思いに駆られた。

それで、僕はフラットな立ち位置と目線と感情とは何かということを考えた。
そうした書いたのが、最初の本『物乞う仏陀』というものだった。

そういう意味では、僕にとって『地雷を踏んだらサヨウナラ』という本は、初めて出会った「先輩」だったと言える。

最近、このブログで下の話ばかりしている。
ちょっと反省して、まじめな本を紹介することにしよう。

20代、30代の方と話をしていてよく聞かれるのが、「面白いノンフィクションってありますか」ということである。
ノンフィクションって、小説と違って、なかなか紹介されない。
論文のようにやたらと専門性のつよい本が多いうえに、つまらない本が多すぎる。なので、何を読んでいいかわからないというのが本音なのだろう。

一年ぐらい前に現代プレミアというノンフィクションを紹介するムック本が売れたが、こうした読者の希望と合致したのだと思う。
ただ、現代プレミアは、いかんせん、おじさん向けなので、そこで紹介された本を若い人が読んで面白いと思うかどうかは微妙な気がする。
僕も講談社のI氏にもらってペラペラめくってみたことがあるのだが、総合ベスト10に入っていた本を見て、おどろいた。おそらく、20代の人が読んでも、まったく「?」と思うものしか並んでいないのである。
(その代わり、たぶん40代、50代、60代以上の人からすれば「きたー」というラインナップだろう)
ノンフィクションというのは、非常に時代性のつよいものだ。
なので、どうしても世代差が出てしまうのだろう。そういう意味では、沢木耕太郎さんなんか世代差なく、支持を受けているので、やっぱりスゴイと思う。

まぁ、そんなこんなで、若い人向けに面白い本を少しずつ紹介してみたい。
とりあえず、「初めてのノンフィクション100」ぐらいの感じで不定期に書くので読んでみてほしい。
最初に紹介するのは、以下の二冊。

聖の青春 (講談社文庫)
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将棋の子 (講談社文庫)
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僕はあまり本や著者について論じたくない。
まぁ、とにかく読んでみろや、というスタンスである。なので、そのまま読んでもらいたい。

ただ、一言いえば、僕は面白いノンフィクションを書けるかどうかのポイントは、著者の側にどれだけのストーリーテリングの能力があるかどうかだと思う。
文章能力とか構成力などが必要なのは当然として、読者の興味をどんどん高めていくための「感動の装置」をどのように配列していけるかというのが一番のキーだ。それがあってはじめて、ドラマが浮き立ち、読者の心をゆさぶるのである。
ノンフィクションとフィクションは、現実を題材にするか、想像を題材にするかの違いで、基本的には面白い作品を作る時に必要な能力ってそこまで違わない。
だから、沢木耕太郎さんにしても、高山文彦さんにしても、抜群に筆の立つ書き手というのは小説も書きたがるし、実際面白いものを書けるのだろう。
そういえば、某月刊誌の編集長さんも、佐野眞一さんの書斎にいって一番驚いたのが、文学作品の多さだったと言ってたっけ。
この大崎善生さん、小説家としても大活躍しているが、ノンフィクションにおいてもたぐいまれな才能の持ち主だと思う。
あまりに感動するので嫉妬するのも忘れてしまうぐらいだ。
将棋のルールをまったく知らなくても、感動して泣ける本なので、是非読んでみてもらいたい。
ださい人間をださいように書き、かつ最後まで読ませて感動させる。
僕はこれができるかどうかが書き手のバロメーターの一つだと思っているのだが、上記作品は間違いなくその最高レベルに並ぶものだと思う。

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