石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

タグ:ノンフィクション

『「鬼畜」の家〜わが子を殺す親たち』の発売に際して、これから何回かにわけて取材の思い出を書いていきます。

最初は、よくインタビューで聞かれる「取材のモチベーション」です。

今回この児童虐待をテーマにしたのには、いくつか理由があります。

まず、親に殺された子供の数が、巷で言われている以上になることを知りました。
警察の発表では、毎年六十人〜百人が殺されているとされますが、日本小児科学会の推計では、一日一人の子供が親に殺されていて、その六割から八割が闇に葬られているとされたのです。
それとほぼ同時期に、「居所不明児童」の問題が日本を席巻しました。行方が分からない子供が日本に百人以上いるということが報じられたのです。

この二つを知ったとき、私はこれまで自分が虐待に対して目をそらしていたことを認めずにいられませんでした。
虐待のニュースは、ほとんど毎週のようにマスメディアを駆け巡っています。そのたびに、私は、「なぜ実の親が子供を殺すのか」ということに疑問を抱いていた。
しかし、同時に「どうせ鬼畜のような親なんだろう」と思って、それ以上深く探ろうとはしませんでした。事実を見るのが怖い。だから、わかった気になって目をそらしていたのです。

ところが、一日一人の子供が殺されていて、多数の児童が行方不明のままになっている。
そのことを知った時、犯人の親を「鬼畜」と考え、問題から目をそらしつづけることに、罪の意識を覚えずにはいられなかったのです。
そして、このテーマに取り組まなくてはと思い、雑誌で連載をはじめることを決めました。

取材開始時点では、事件ルポですからすでに被害者の子供たちは殺害されていました。
そのため、親たちが子供たちを殺すプロセスを明らかにするところからの取材になりました。

正直、犯人と話をしていても、親族と話をしていても、心が引き裂かれるような気持ちの連続でした。

たとえば、厚木市事件の犯人は、齋藤幸裕です。
その長男・齋藤理玖君(三歳)は、二年間も真っ暗な部屋に閉じ込められ、ネグレクトの末に寒さと飢えで死んでいきます。
その時、理玖君は一人でドアに向かってこう叫んでいました。

「パパ、パパ、パパ……」

そして、死体はゴミ屋敷と化したアパートに放置。
七年間も、そのままにされて発覚しなかったのです。

理玖君の気持ちを思うだけでたまらなくなりました。
闇の中で死んで行き、そしてミイラとなった後も、放置されつづけていた理玖君は、何のために生まれてきたのか、と。

でも、だからこそ、私は理玖君のために、彼が生まれてきた意味を見い出してあげたかった。
せめて彼の小さな命の記録を、書物の中に活字として残してあげたかった。
悔しさ、悲しさ、孤独すべて含めて生きた証を記したい。
そういう気持ちから、私は歯を食いしばって取材を進つづけたのです。

やがて、私は事件を追う中で、ある大きなテーマを見つけます。
それは後に本書のテーマとなる、犯人たちが一様に口をそろえて言った言葉です。

「私は子どもを愛していました。宝のように育ててました。それでも、殺してしまったのです」

愛していたのに、殺した……。

信じられない言葉ですが、取材を進めれば進めるほど、その言葉が真実だったということが明らかになってくる。
そして、私はこの言葉の意味を確かめるべく、さらに事件の深淵へ足を踏み入れるのです。





本日、新刊『「鬼畜」の家〜わが子を殺す親たち』が新潮社より発売になりました。

この本は、「厚木市幼児餓死白骨化事件」(ネグレクト)、「下田市嬰児連続殺害事件」(嬰児殺し)、「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」(身体的虐待)の三つの事件からなる、事件ルポです。

この本の取材をはじめたきっかけの一つは、日本小児科学会が年間に殺害されている児童は、現在事件化されているものの3倍から5倍になると発表したことです。
毎年警視庁が発表する児童の殺害事件は60件から100件ほど。これが3倍から5倍になるということは、年間350件ぐらいは赤ん坊を含む児童が殺されているのです。

事件が表ざたにならない背景には、いくつかの理由があります。
・母親が病院にかからずに赤ん坊を産んで殺害しても死体が見つからないかぎり事件化されない。
・赤ん坊を虐待死させても、その多くが証拠をつかめない。医師がそれと疑っても、なかなか子供を失った遺族に「あなたは虐待しましたよね」とはいえない。
などです。
それが事件の大半を闇に葬らせてしまっているのです。
実際、本書で取り上げる三つの事件はすべて一年以上発覚しませんでしたし、足立区の事件にいたっては裁判が終わった今も児童の遺体は見つかっていません。

近年、マスメディアによって頻繁に報じられる虐待関連の事件。
私たちは何気なくその事件を見聞きし、親を「殺人鬼」、あるいは「鬼畜」のように考え、自分とは関係のない人間だと思い込みます。
だからこそ、これだけの子供が殺され、その多くが闇に葬られているのにかかわらず、他人ごとのように受け止められる。
マスコミがニュースを流しても、数日すればニュースどころか話題からも消えてしまうのは、私たちがこういう事件を聞き流すことに慣れてしまったことを意味するのではないでしょうか。

しかし、一日一人の児童が殺され、その多くが闇に葬られているとしたら、今のままでいいのだろうか。

そうした思いが取材へと私を駆り立てたのです。
正直、取材には胸をえぐられるような苦しいことが多々ありました。
ただ、わが子を殺害した親たちと拘置所の面会室で会い、周辺の取材を進めていく中で、私は衝撃的な一つの共通点を発見します。
それは、犯人である親たちが口をそろえてこう言ったのです。

「私は子供を愛していました。これ以上ない宝だと思っていました。しかし、殺してしまったのです」

調べてみると、親がわが子を愛していた形跡は数えきれないほど見つかりました。
厚木市の事件の容疑者・齋藤幸裕は、妻に逃げられた後、トラック運転手として働きながら一人で二年間も長男と寝起きを共にして世話していました。
下田市の高野愛は、息子をかわいがる子煩悩として知られ、息子もまたママっ子として有名でした。
足立区の皆川忍・朋美夫婦が残した家族写真には、一緒にお風呂に入ったり、誕生日パーティーをしている幸せそうな光景が記録されていました。

しかし、彼らはわが子を、信じられないような残忍な形で殺してしまったのです。
だとしたら、本当に彼らはマスコミが報じるような「鬼畜」なのでしょうか。
彼らはどんな家庭で育ったのか。

なぜ、彼らは子供を殺さなければならなかったのか。
彼らにとって子供への「愛」とは何だったのか。

そうしたことを明らかにするために、私は事件だけにとどまらず、犯人たちの家系を三代までさかのぼり、その成育歴を明らかにすることを決めました。
そうして書いたものが、本書なのです。

これは表向きは「事件ルポ」ですが、私としては「ヒューマン・ドラマ」として書いたつもりです。
犯人の家庭や、人格や、事件へ向かうプロセスを知れば、決して赤の他人とは思えないはずです。
そして、その思いが、悲惨な事件を減らすヒントになるのではないか。

そんな願いで二年間をかけて取材し、本書を世に出しました。
ぜひ書店等でお見かけした際は、手に取っていただければ幸いです。


追記
9月2日に三省堂書店池袋本店で、本書に関するトークイベントを開催いたします。
http://ikebukuro.books-sanseido.co.jp/events/1382





二年ぶりのノンフィクション『「鬼畜の家」〜わが子を殺す親たち』(新潮社)の予約が開始されました。
三つの事件のオムニバス事件ルポで、取り上げているのは自分の子供を殺害した親たちです。なぜ親はわが子を殺さなければならなかったのか。
ネグレクト、嬰児殺し、身体虐待の三つの異なる事件を二年間かけて徹底的に取材しました。

「厚木市幼児餓死白骨化事件」(ネグレクト)
未熟な夫婦が3歳の子をアパートに二年間以上にわたって放置。子は「パパ、パパ」と呼びながら絶命。遺体は7年間放置された。

「下田市嬰児連続殺害事件」(嬰児殺し)
奔放な男性遍歴の果てに妊娠を繰り返した一人の女性。彼女は自宅で出産した嬰児を二度にわたってひそかに殺害し、遺体を天井裏や押入れに隠した。

「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」(身体虐待)
夫婦が3歳児をウサギ用ケージに正座させて閉じ込めた末に死亡させた事件。遺体はまだ見つかっていない。2歳の次女には犬の首輪をつけていた。

この本のテーマは、ひたすら残酷性を追うものではありません。
事件の加害者である親は、みな一様に「子供を愛していた」「大切に育てていた」と語っているのです。それが、なぜ殺害に至ったのか。
愛とは何か。
育児とは何か。
そうしたことをテーマに考えていく、ヒューマン・ノンフィクションです。





新刊の発売のお知らせです。
このたび、新潮社より新しいノンフィクションが刊行されました。


■詳細
『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』
発売  新潮社
価格  1575円(税込)
種類  320項、単行本(書きおろし)
詳細  新潮社ホームページ参照
購入  アマゾンはこちらから


■プレスリリース用の紹介文
処女作にして大宅壮一ノンフィクション賞の候補作となった前作『物乞う仏陀』(文藝春秋刊)から約二年。 
28歳の著者は、半年以上にわたってイスラーム諸国を旅しました。日本ではなかなか情報を得る機会のないイスラーム教徒の性に興味を抱いたからです。彼らの性の営みはどのようなものなのか。宗教による抑圧とはどれほどのものなのか。そして、それは本当にあるのか。売春宿に住み、置屋で掃除夫として働き、ときにはバーテンダーになり、ヒジュラ(民俗舞踊を舞う男娼)と共に踊る。
ジャカルタ、クアラルンプール、カブール、アンマン、ベイルートといった大都市に足を運びつつ、古い慣習が強く残るバングラデシュやインドの山村、クルド人の国境の村、アフガニスタンの山中へも身を投じていく著者。売春、戦争、おきて、路上生活……その10カ国に及ぶ捨て身の取材は圧巻です。
ベールに包まれたイスラームの最奥に踏み込むべく、ともに暮らし、ともに味わい、ともに笑う。そして、頭ではなく腹で書く。読み手はいつしか著者と共に、その渦に引き込まれていくことでしょう。新鮮な距離感が心地よい、辺境の暗部を描いた未踏の体験的ノンフィクションです。次世代の書き手の躍動を感じていただければ嬉しい限りです。



本書をご高覧の上、ご高評いただけましたら、ご友人様等にご紹介いただければ幸いです。
また、御感想等も随時お待ちしています(メールにてお願い致します)。

今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。


■追記
八重洲ブックセンター(2F)、紀伊国屋本店(1F新刊コーナー)にて、18日より取材旅行の未公開写真の展示を行っています。HPにも公開していない写真も含まれていますので、興味のある方はご覧下さい。
また、新宿紀伊国屋の南店でサイン本を販売しています。今後、本店などでも販売する予定です。詳細は書店にお問い合わせ下さいませ。

神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く

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