石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

タグ:ホテル・ルワンダ

ブラッド・ダイヤモンド

そういえば、ちょっと前にアフリカを舞台にした映画の話を書いていたっけ。

アフリカを舞台にした映画といって、ふと思い出したのが「ブラッド・ダイヤモンド」。
アフリカの内戦地域でダイヤモンドが戦争の武器を買うために使われていることをとりあげた映画だ。

主人公のレオナルド・デカプリオ扮するチンピラのような宝石密売人。
ただ、元々は戦争で家族を失った兵士で、大きなダイヤを手に入れてアフリカから逃げ出そうと思っている。
彼は戦時下でダイヤモンドを手に入れて一攫千金を狙おうとするが、途中様々な人と出会ったり、戦争の現場を目の当たりにすることで、心が洗われていく。
そしてついにダイヤを見つけ、アフリカ脱出の一歩手前まできたと思ったら……

まぁ、こんなストーリーだ。
この映画が封切られた時、海外の有名な雑誌が、主人公のデカプリオにこんなことを訊いていた。

「アフリカの血ぬられたダイヤをテーマにしている。たしかに紛争地域で、ダイヤが武器購入のためにつかわれ、先進国でダイヤが売れれば売れるほど、アフリカで人が殺されていると言われている。しかし、それは何年か前のこと。今はなるべくそうしたことを防ごうと宝石メーカーも、国も懸命な努力をしている。この映画はそうした努力を台無しにすることにならないか」

この質問に対して、デカプリオはまじめに「たしかに過去のことかもしれないが……」などと答えていた。

ただ、僕はこの映画を見て、この雑誌の記者の見方はおかしいのではないかと思った。
たしかに映画は戦争につかわれるダイヤについて取り上げている。それが物語のカギにもなっている。
しかし作り手は、明らかにそこに重点を置いていない。戦争とダイヤというのはあくまでも物語を構成するための背景であって、テーマはそれを舞台にした人間ドラマなのだ。

有名どころでたとえれば、「タイタニック」だってそうだろう。
一つの事件を舞台にしている。しかし、作り手が描こうとしているのは、事件そのものではなく、登場人物たちの生き方だ。作り手は、「タイタニック」という映画によって、事件そのものに何かを言及しようとはしていないはずだ。
この「ブラッド・ダイヤモンド」という映画も同じなのだ。戦争とダイヤを背景にしてはいるが、描こうとしているのは登場人物たちのハードボイルド世界である。

であれば、記者がこの映画を見て「戦争とダイヤモンド」について問い詰めるような質問をすること自体おかしいのではないか?

実際の事件を背景にした物語には、こうした誤解がよく生まれる。
作り手は、事件そのものをアイテムとして、そこで繰り広げられる人間ドラマを描いている。
だが、受け取る側は、人間ドラマには関心を払わず、アイテムとしての事件の事実関係だけを気にする。
こうなると、両者の論点は完全にズレてしまい、合致することはない。

作り手からすれば、歴史的な出来事を舞台にした作品というのは、大きく二つにわかれると思う。
「事件そのものを描くもの」か「事件を<アイテム>として、人間群像を描こうとするもの」かである。
両者は表面こそ似ているが、作り手の意識はまったく異なるものだ。ただ、なかなか、その真意がつたわらない。そこがちゃんとつたわれば、「ブラッド・ダイヤモンド」という映画は最高のハードボイルド映画として、ちゃんと褒められるべきものだと思うのだけれど。

追記
「事件そのものを描くもの」の映画で、同じくアフリカを扱ったものは、『ルワンダの涙』『ホテル・ルワンダ』『イン・マイ・カントリー』などだ。
このうち『ルワンダの涙』『ホテル・ルワンダ』は、やたらとストーリーが似ている。しかもどちらもルワンダを舞台にしている。
知り合いの映画評論家に理由を尋ねてみたが、不明だとのこと。たまたまなんだろうけど、ここまで一致してしまうと、作り手は悔しかっただろうな〜。

ブラッド・ダイヤモンド

最近、アフリカを舞台にした映画がお盛んだ。
たぶんハリウッドスターがアフリカを舞台に慈善活動をしているためだろう。
それにしてもよくつくられる。「ホテル・ルワンダ」がヒットしたと思ったら、
「ホテル・ルワンダ」あたりから、立て続けにつくられてきたと思ったら、06年には「ツォツィ」という南アフリカの映画が外国語映画賞をとった。

「ツォツィ」は、南アフリカのストリートチルドレンを主人公にした映画だ。
家庭内暴力を受けてストリートチルドレンとなった主人公が、やがてギャング化していく。
悪友四人と組んで殺人強盗をしながらスラムで生きていくのである。
だが、ある日高級住宅地で車強盗をしたところ、たまたまその車に赤ん坊が乗っていたことから、主人公の運命が変わっていく。
主人公の男はその子を一人で育てていくなかで、愛を知り、家族に憧れ、そして自分の過去を否定していくのである。
そして、ついに裏社会から足を洗おうとしたとき、警察につかまってしまう……。

たぶん、この話をつくった人は、汚れた人の中にある「人としての温かさ」というものを、物語を通して磨きあげ、拡大化していきたかったんだろうな、と思った。

この種の物語をつくる時というのは、「怒り」が必要になってくる。
ストリートチルドレンがかわいそうなのは誰でもわかることだ。だけど、実際に目の前にしたら、99%の人は「くさい」「こわい」「怪しい」といった理由で目をそらす。
立派な建前だけは語るくせに、それ以上のことをしようとしない。決めつけて去っていく。あるいは、思考を停止して去っていく。
それを見ていると、「怒り」がわく。その「怒り」ゆえに、彼らを磨きあげて人間としての温かさを描きたいという衝動に駆られる。

少なくとも、僕の場合はそうだ。
「怒り」がまずあって、そこから描きたいという衝動に駆られる。
たぶん、その「怒り」が大きければ大きいほど、描きたいという衝動も大きくなっていくのだろうと思う。

この物語をつくった人もそうだったんだろうな、と勝手に思った。


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