石井光太 − 旅の物語、物語の旅 −

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神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』が文庫になりました。
4月24日、新潮文庫として発売になりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

ついでなので、本書成立の裏話を。

処女作『物乞う仏陀』が、たしか05年の10月に発売。
実は、その前からイスラーム圏における性の問題は興味があり、ちょくちょくと取材をしていた。
建前としては06年1月から取材した記録となっているけど、全16話のうち5話ぐらいはその前に取材したものなのである。

最初、僕は1月になってすぐに取材に行き、『物乞う仏陀』と同じ文藝春秋から出そうと思っていた。
しかし、文藝春秋で編集を担当してくれた方が大きな仕事に追われていて、それについて打ち合わせをするスケジュールが組めなかった。

新潮社の足立さんから連絡があったのは、本を出して2、3週間後だったと思う。
『物乞う仏陀』に感銘を受けたので一度会って企画の相談をしたい、というようなメールをいただいたのだ。
で、11月の終わりか12月の初めぐらいに、新宿の椿屋珈琲で会った。
その時に、「いやー、年明け早々二作目の本のためにイスラーム圏を回ろうと思っていまして」という話をした。
そしたら、足立さんが「じゃあ、二作目は新潮社で」と言ってくれ、僕は旅に出たのである。

ただ、この時は、まだ新潮社で出すのかどうかはっきりとはわからなかった。

ところが、海外に行っている間、足立さんから頻繁にメールをもらった。
また、新潮社の別の部署にいる方からもメールやエッセーの依頼をもらった。
で、3月に一時帰国した時に、足立さんと食事に行ったり、別の部署の方と夜中まで飲んだりして、『神の棄てた裸体』の企画を話すようになった。
そんなこんなしているうちに、新潮社とのつながりが強くなっていったのである。

一方、文藝春秋はどうかというと、なかなか話が進まなかった。
担当の方が猛烈に忙しかったのだろう。たまにメールのやりとりはしていたが、具体的な新企画の話にはならなかった。
(あとで聞いたところ、文藝春秋の方は「二作目も文藝春秋から出すのは既定路線」と考えており、あえて触れなかっただけのようだ。ここでお互いの認識のズレが生じたのである。後日新潮社から出すと決まった時、編集の方は「ええ! 上司に怒られる」と叫んでいた)

で、僕が取材を終えて帰国した時には、すっかり新潮社で出すという話になっていた。
このような流れで、新潮社から『神の棄てた裸体』という本が出ることになったのである。

この本のおかげで、色んな繋がりができた。
たとえば『絶対貧困』を一緒にやった光文社のTさんはこの本を読んで声をかけてくれたし、『レンタルチャイルド』の連載もこの本を読んだ『月刊PLAYBOY』の編集長から声をかけてもらった。
講談社の『G2』で一緒に仕事をしているI氏も、この本を読んで話をくれた。
そうそう、今度Webマガジンの連載をやる河出書房『文藝』のTさんもこの本が切っ掛けで会うことになった。
大きな仕事は、ほとんどこの本からはじまっている。
そういう意味では、僕は新潮社の足立さんには頭が上がらないわけで、「姉貴」的存在なのである。

と、まぁ、そんなこんなで、「神の棄てた裸体」という本には、色んな思い出がある。

是非ご贔屓に。

知り合いのスチュワーデスが、昨日化粧についてのデータを送ってきた。
それに目を通していたら、「別れ話をするときの化粧の方法」と題する一文があった。
ある方法で目元に化粧をほどこすと、悲しみのあまり涙を流しているように見えるのだそうだ。
別れ話をするときは、その化粧をするのがおススメなのだという。

僕は女性の化粧について、深く考えたことがほとんどない。
しかし、女性というのは別れ話をするときに、「別れのためのファッション」を選び、「別れのための化粧」をするのかと思うとゾッとした。

オトコがフラれる側だとする。
そうなると、オトコとしては、別れ話の場は厳粛でなければならない。
女性は傷つき、ギリギリの精神状況で、感極まって別れ話を切り出すものなのだ。そこのファッションとか、化粧が介入してははならない。

しかし、そう考えるのは、フラれるオトコの側の論理なのだろう。
実際女性の側はすでに気持ちが固まっているので、そんな切羽詰まった状況ではない。むしろ、もっと明るい。

「よーし、今日は悲しいフリしなきゃならないから、洋服は○○で決めて、お化粧はこうやればいいかな。おっ、結構それっぽいじゃん。よし、これでいっちょう別れ話を切り出してくっか!」

そんな感じで、別れ話に挑むのである。

フラれるオトコとしては、かなり残酷な話である。
だが、そんなものなのだろう。世の中は、悲劇のヒロインが思っているほど厳粛ではないのだ。もっと軽いものなのである。

そういえば、川端康成の『掌の小説』にも似たようなシーンがあったような記憶がある。
葬儀の最中、ある女性が泣きはらした顔でトイレにやってきて、化粧をし直す。それが終わると、女性は鏡に向かってニッと微笑む。男が外からたまたまその光景を見て、背筋に冷たいものを感じる。そんな話だ。

オトコが考える女性像というのは、いつも非現実的だ。
だからこそ、たまに現実を垣間見てしまうと、ゾッとするのである。

ま、何事もこの「ギャップ」が面白いんだけどね。


追記
10月11日(木曜日)発売の『週刊文春』に「神の棄てた裸体」のインタビューが載っています。「著者は語る」というコーナーです。興味がありましたら、読んでみてください。

掌の小説

POP(ポップ)というのをご存じだろうか。

以下を見てほしい。こういうものだ。
http://www.hontai.jp/pop2006vs.html

このPOP、書店のスタッフがつくるケースがメインだ。
だが、書店に任せていても、なかなかつくってくれない。一店舗にあっても売上にはつながらない。
そのため、出版社が販売促進のためにつくることもあるのだ。

「神の棄てた裸体」でも、出版社の方がPOPをつくってくれた。
裏表あって、一面にお勧めのコメントを書いて、取材写真のサインを入れて貼った。この写真が次のものである。

http://www.kotaism.com/kaminosutetaratai_kinjirareta1.htm

これを書店の人に配っていたところ、なんとこの写真が「作者」だと思われた。
サインしているからなおさらなのだろう。「パキスタンで映した作者の写真」に思われてしまうのだ。
仕方なく、「P60ページより」とかいうコメントを上に入れて、「この写真は俺じゃなくて、取材の写真だぞー」というところをアピールすることに相成った。

しっかし、この写真が僕に見られるとは……
ヒジュラもショックだろうけど、僕もショックである。心外だ。

そういえば、先日ある出版社にいって、取材写真を見せていた。
その中の一枚に以下の写真があった。ヒジュラのボス(グル)が踊っている写真である。

http://www.kotaism.com/kaminosutetaratai_kinjirareta2.htm

出版社の人に「これ、誰?」と尋ねられたので、冗談半分に「現地に暮らすオヤジです」と答えた。
すると、「明るくて、素敵なお父さんですね」と返答された。それ以上、会話がなかったのだが、その人が本当にこの写真の人を僕のオヤジだと思っている可能性は高い。

なぜ、こうなるのだろう……

まぁ、あまり冗談ばかりいってはいけないということか。
(最初のPOPの件では、冗談で何かをしたつもりは一切ないのだが)

あ、そういえば、半年先のことなのだが、NGOの開催するイベントでインドのことについて話をすることになった。
http://www.knk.or.jp/japan/com/event/2007/series_asia.htm

基本的に、僕は人前で「まじめ」な話をするのが苦手である。
昔からの癖で、人を前にすると、冗談を言ったりしなければ気がすまない性格なのだ。
これまで何度か上記のようなイベントで話をすることがあったが、常におちゃらけていた。
しかし、こういうイベントに来る人は真面目な人が多いので、僕が冗談を言っても、シラけることが多い。そうなると、僕の立場はかなり悪くなる……。

もし会場でお目にかかることがあれば、僕がつまらないギャグを言っても、哀れだと思って、笑ってやって下さいませ。

ちなみに、ストリートチルドレン支援団体の開催イベントなので、当日はインドのストリートチルドレンについて話をするつもりです。


※現在発売中の『週刊朝日』に「神の棄てた裸体」の書評が載っています。興味のある方はご覧になって下さい。

拙著『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』(新潮社)についてのお知らせです。

書店での写真の展示が以下で行われています。

紀伊国屋本店(新宿駅)
八重洲ブックセンター(東京駅)

本に掲載していない写真などを含めて10点以上展示しています。
また、各店とも内容のことなるキャプションがついていますので、そちらも合わせてご覧ください。

今後も、「ジュンク堂本店(池袋)」「ジュンク堂新宿店(新宿)」などを初めとした都内の大型書店で続々と写真展示が行われます。

なお、「紀伊国屋本店(新宿)」「紀伊国屋南店(新宿)」「三省堂本店(神保町)」「丸善丸の内(東京)」にて、サイン本を各20冊ずつ販売しています。
(三省堂、丸善丸の内でも、写真の展示を予定しています)

期間や、サイン本の残り冊数については、各書店にお問い合わせ下さいますようお願いいたします。

みなさまのおかげで、書店での反応もよく、いろんな反響があります。
今後、雑誌や新聞などにて書評・インタビュー・グラビアなどが予定されています。随時、HPやブログにてご報告いたします。

ちなみに、いつも御贔屓にしていただいている『旅行人』の蔵前さんがコラムに本の感想を書いて下さっています。(9月20日付)
次号(12月発売)に「峠のすれ違い」という40枚ほどの作品を掲載する予定です。ご期待下さい。

今後ともよろしくお願いいたします


神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く

おかげ様で、本の販売がなかなか好調らしい。
本屋さんでサイン本などをつくっていると、かならず訊かれることがある。以下の三つだ。

ー,呂匹海惺圓のですか。
危険な目にあったのではないですか。
F本の娼婦をテーマにしないのですか。

もしかしたら、一番気になる点なのかな、とも思う。なので、ここで答えてしまおう。


ー,呂匹海悗いのですか

すでに頭のなかにはある。
ただ、やはり今回同様に半分ぐらいはアジア地域になるだろう。これは、単に予算と時間の問題なのである。

たとえば、アジアで半年かけて300万円で取材をしたとする。もし同じことをアフリカや南米でやれば、一年の時間と600万円以上の予算がかかる。
「言葉の問題」「安全性を確保するための手段」「航空チケットを含めた移動代」「日本人への親近感」など無数の要因がからみあって、期間もお金も倍以上かかるということになるのだ。

その期間のお金と書いた後の保障を誰かがしてくれるなら、どこへでも行くし、なんでもやる。
しかし現実はそうではない。
なので、予算や時間のことを考えれば、どうしても最低でも半分はアジアを入れなければならない。
それが、アジアを入れざるを得ない理由なのだ。


危険な目にあったのではないですか。

「あんまりないですね。僕は楽観主義ですから」と答えている。
けど、本当は、危険な目にあったことはある。
ただ、そういう話をすると「危険自慢」になってしまう。よくジャーナリストと名乗る人々が「遺書を書いて取材にいった」とか「死を覚悟した」なんていう話をしたり、書いたりしている。
結局ああいう話っていうのは「だから俺はすごいんだぜ〜」みたいな自慢話でしかない。非常にウザイ。みっともない。
なので、僕は訊かれる度に、適当に返答してごまかしているのだ。


F本の娼婦をテーマにしないのですか。

僕は、以前感染症の仕事をしていた。
そのため一日に何人もの風俗嬢と言われる人と顔を合わせていたことがある。
なので、そこらへんについては非常に詳しいし、やろうと思えばやれる自信がある。

しかし、逆に言えば、それがやらない理由でもある。

本の中には、テキト―な品物がたくさんある。
どうでもいいことを書きちらしてお金を儲けているのだ。
薄利の仕事であることを考えれば、そうしなければ食っていけないのも事実だろう。
事実、僕だって取材費を集めるためや、生活のために、ペンネームでいろんな仕事をしている。なかには、書き散らしているものだってたくさんある。

けど、僕は、ノンフィクションとして、そういうものを作りたくない。「作品」としてはやりたくないのだ。
「作品」として発表するなら、読んだ人の心の中に一生残るようなものを書きたい。それが叶わなくても、そうする姿勢だけは崩したくない。古い考えなのかもしれないけど、僕が目指しているのはそれだけだ。

そのためには「できると思うテーマ」に取り組んでも仕方ない。
「絶対に誰もやらないし、できないほど大きなテーマ」に全身全霊で立ち向かって、文字通り全財産と命をかけて格闘したい。

有態に言って、僕には才能の「さ」の字もない。「い」の字もない。
だから、それだけ自分を追いつめて、120%の能力を振りしぼらなければ、大手出版社が目をとめてくれるようなものは書けないし、人の心を動かすこともできない。
こて先の技術でモノを書けるほどの才能なんてないし、器用さも持ち合わせていないのだ。

『物乞う仏陀』のテーマは「アジアの障害者と物乞い」だった。
今回の『神の棄てた裸体』は「イスラームと難民と性」がテーマである。
両方とも、我ながら立ちくらみがしそうなほど大きなテーマで、つかみどころがない。
取材に行く前に、新聞記者や出版社の人に話をした時、一様に絶句されたのを覚えている。
けど、逆に言えば、「絶対に誰もやらないし、できないほど大きなテーマ」だからこそやったのだ。

もちろん、『仏陀』においても、『裸体』においても、テーマを描ききれたかと問われれば、否と答えるしかない。
しかし、ここにおいて、僕なりの方法論がある。

「どうせテーマが大きすぎてまとめきれないのならば、そのまとめきれない世界の多面性、複雑性、不条理を浮き彫りにし、そしてその前で格闘して、もだえ苦しんむ自分自身を克明に描けば、実はそのテーマを描いたことになるのではないか」

逆説的な方法論だ。とても危うい。
けど、これが巨大なテーマに立ち向かう僕なりの唯一の「武器」なのだ。
「武器」の使い方を誤ったら、一撃のもとにつぶされて、死んでしまう。現実的にも、比喩的にも。けど、僕にはその「武器」しかないのだから、駆使して死に物狂いで立ち向かう他にない。
そして、たぶん、ただ一つそこにこそ、僕の存在価値があると思っている。

話を最初にもどそう。

「なぜ、日本の売春をテーマにしないのか」

繰り返すが、僕には、このテーマを描ける自信があるからだ。
だから、それをやったところで、僕は120%の力を振りしぼれないし、僕の武器を使うことができない。
となると、そこに僕の存在価値がなくなる。

もちろん、パパッと書いて、数十万なり、数百万なりのお金を儲けることはできるだろう。
しかし、僕はまだ30歳だ。そんな若造が、今のうちからそんなことをして、いったい何の意味があるのだろう。
40歳、50歳になって、全身全霊で巨大なテーマに立ち向かう気力がなくなれば、それをやることもあるかもしれない。
しかし、今、一年も二年もかけてやることではない。

それが、答えである。

新刊の発売のお知らせです。
このたび、新潮社より新しいノンフィクションが刊行されました。


■詳細
『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』
発売  新潮社
価格  1575円(税込)
種類  320項、単行本(書きおろし)
詳細  新潮社ホームページ参照
購入  アマゾンはこちらから


■プレスリリース用の紹介文
処女作にして大宅壮一ノンフィクション賞の候補作となった前作『物乞う仏陀』(文藝春秋刊)から約二年。 
28歳の著者は、半年以上にわたってイスラーム諸国を旅しました。日本ではなかなか情報を得る機会のないイスラーム教徒の性に興味を抱いたからです。彼らの性の営みはどのようなものなのか。宗教による抑圧とはどれほどのものなのか。そして、それは本当にあるのか。売春宿に住み、置屋で掃除夫として働き、ときにはバーテンダーになり、ヒジュラ(民俗舞踊を舞う男娼)と共に踊る。
ジャカルタ、クアラルンプール、カブール、アンマン、ベイルートといった大都市に足を運びつつ、古い慣習が強く残るバングラデシュやインドの山村、クルド人の国境の村、アフガニスタンの山中へも身を投じていく著者。売春、戦争、おきて、路上生活……その10カ国に及ぶ捨て身の取材は圧巻です。
ベールに包まれたイスラームの最奥に踏み込むべく、ともに暮らし、ともに味わい、ともに笑う。そして、頭ではなく腹で書く。読み手はいつしか著者と共に、その渦に引き込まれていくことでしょう。新鮮な距離感が心地よい、辺境の暗部を描いた未踏の体験的ノンフィクションです。次世代の書き手の躍動を感じていただければ嬉しい限りです。



本書をご高覧の上、ご高評いただけましたら、ご友人様等にご紹介いただければ幸いです。
また、御感想等も随時お待ちしています(メールにてお願い致します)。

今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。


■追記
八重洲ブックセンター(2F)、紀伊国屋本店(1F新刊コーナー)にて、18日より取材旅行の未公開写真の展示を行っています。HPにも公開していない写真も含まれていますので、興味のある方はご覧下さい。
また、新宿紀伊国屋の南店でサイン本を販売しています。今後、本店などでも販売する予定です。詳細は書店にお問い合わせ下さいませ。

神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く

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